49. 孤独な戦い
息ができない。苦しくて痛くて、怖くて涙が止まらない。
鎧を着た男に首を掴まれ、振り解こうとしてもその腕は岩のように硬い。
痛めつけられた家人が口から血を流し、石床に倒れ蹲っている。そのすぐそばでは、床に跪き懇願する母の声が聞こえた。
「お願い!やめて……おやめください!」
髪を掴まれ押さえつけられて、その姿は無理矢理に跪かされていると言う方が正しい。数人の鎧を着た男達が家を荒らし、それらを従える一人の女に、母は必死で泣きついていた。
「お願いします!どうか…どうか……!」
母を見下ろす女の目が怖くて堪らない。今も脳裏に焼きついて離れない。
「そう、この子が……」
冷たい女の目が刺さる。とにかく恐ろしい。
「やって」
女が命じる。すると男が腰の剣を抜き、それを振り上げた。その狙いの先にいる命など、軽く振り下ろせば簡単に失われる。
必死に叫んだ。
「お母さん…!助けてお母さん!」
嗚咽とも悲鳴ともつかない母の声が、暖炉の火だけが照らす暗い部屋に響く。
「やめてええええ!!!」
母が女のドレスに縋り付く。すると女は、片手を上げて配下を静止した。そしてそのまま何も言わずに、足元に蹲る母を静かに見下ろす。
か細い声で母は続けた。
「申し訳ございません…申し訳ございません……」
女が初めて、母の声に言葉を返した。
「何が?」
母の美しい金色の髪が女の靴と石畳の間に挟まれる。額を擦り付けるほどに頭を深く下げ、母は女に許しを求め続けた。
男の剣は未だ振り上げられたまま。暖炉の火をその身に写し、異様に悍ましく揺らめいていた。
「告白します。全て私が犯した罪です」
忘れられない声。今も胸が張り裂ける、悲痛な母の声だった。
気がつくと女と騎士達はいなくなっていて、母は床に蹲りながら静かに泣いていた。
そして額から血を滲ませたまま、俺を抱き締めて何度もごめんねと繰り返した。
城下町のとある酒場。その二階の一室で、ルアン・ロチェスターは目を覚ました。通りはすっかり賑わいに溢れて、活気のある声が聞こえている。
路地から吹き抜ける汚物や異臭混じりの生暖かい風が、窓辺に立つルアンの金髪を揺らす。水桶で顔を洗ってようやく、悪夢による胸の痛みは霧が散るように消えていった。
王都の馬上槍試合から幾日かが過ぎていた。ルアン・ロチェスターの名は城下の民衆にまで広がっており、酒場でも毎夜その話を聞くが、そこにいるのがルアン本人だとは誰も知らない。
ルアンは優勝の褒賞も受け取らず、心が落ち着くのを待っていた。母が死んで怒りがルアンを突き動かしたが、いざあの目を前にした時、本当は足がすくんでいた。
持ち金はいずれ尽きるし、その時には動かざるを得ない。必ず来るその時をルアンは静かに待っていた。
神々が定める運命の日が今日であることを、ルアンはまだ知らなかった。
もう昼になるが朝食を食べていると、酒場に数人の青いマントを付けた騎士達が入って来る。ルアンはその先頭の男がルーベルン家のジュランであるとすぐにわかった。
馬上槍試合でやたらと目立っていた派手な騎士。ルアンの目には強者と映ってはいないが、店内の者達が一瞬で静まり返る程には、その容貌と名前には知名度があるようだった。
店内を見渡すジュラン。そして一瞬視線が重なる。この男を恐れる理由はないが、面倒ごとの予感がしてルアンは目を逸らした。
何にも興味がないというような顔で、ルアンは塩漬け豚を薄いエールで腹に流し込んだ。その間も足音とざわめきは聞こえている。
予感は的中し、顔を上げた先にはにやけ顔のジュラン・ルーベルンが立っていた。
「おーっと、これはこれは!馬上槍試合の優勝者ルアン・ロチェスター卿。こんなしけた旅篭にいたとは、どおりで見つからないわけだ」
ジュランの言葉に店内がざわつく。
ルアンは無視して食事を続ける。ジュランは向かいの席に座り、店主にエールを持って来させた。
「ルーベルン公が会いたがってる。一緒に来い。ちなみに拒否権はないぜ」
いつの間にかルアンを取り囲むように、青マントの騎士達が配置されている。ジュランはルアンの豚を勝手に食べ始めた。
「これを食ったら出発だ。名家に仕えられるぞ。よかったな」
明らかに挑発している。くつろいでいるように見えるが、すぐに立ち上がって剣を抜けるよう腕に力が入っているのがわかる。他の騎士達も同様である。
同じような殺気が自分からも出ているだろうが、平静を装うつもりもない。今この骨に付いている肉を食べ切ったら、それが合図になるだろう。
ジュランがまだ肉の残った骨を足元に吐き捨てる。ルアンは口の中の肉をゆっくりと噛んだ。
異様な雰囲気を察した酒場の主人が奥に隠れる。他の客も二階に上がったり部屋の隅に移動して、これから何が始まるかをよく理解しているようだった。
その時、一人の男が入ってきて落ち着いた足取りで騎士達の卓へ近付い来る。
「ここは民の酒場です。暴れるなら場所を変えるべきでは」
その男の顔を見た瞬間、ルアンの衝動が解き放たれた。長椅子に立てかけていた剣を抜き、一切の躊躇なく男の首に向かって振り抜く。
余裕の笑みを浮かべていたジュランが一転して声を荒げる。
「ちょ!何やって!」
一瞬の出来事だった。ルアンの剣は空を斬った。正確には、ルアンは本気で男を狙ったが、ジュランが止めに入ったことで、当たりはしなかった。
ルアンは胴に組み付かれ、剣を持った腕をルアンの仲間の騎士に抑えられた。
「離せ!」
「お前その剣筋、本気で殺す気だったろ!」
殺す気だった。今も殺す気である。目の前の男の驚いた顔が、ルアンに一層の殺意を覚えさせる。
ルアンはこの男の名前を知らない。だが皺は増え髭は白くなっても、その顔を忘れたことは一度もなかった。
その時、王都の治安維持を預かる黒犬騎士団が騒ぎを聞いて駆けつけて来る。
暴れた騎士達は完全に取り押さえられた。
「おい!何で俺達まで捕まるんだよ!」
ジュラン達の声が頭に響く。呼吸が乱れ、今朝の夢をまた思い出す。
苦しくて痛くて、怖くて涙が止まらなかった。あの夢の続きが始まった。




