46. 負けたくない
次の馬術の日の朝。支度をしていたフラーエンをハウゼンの使者が訪ねて来る。そしてセリタの体調が優れないため馬術はしばらく休むと伝えられた。
「嫌われちゃったってことね」
ドレスの新調のため採寸をされながら、カリネ・ステンサーが苦しそうに言った。細く見せようとお腹に力を入れているのだ。
フラーエンはカリネの部屋の椅子に頬杖をついて座っている。
「やっぱりそうなのかな。確かにちょっと厳しく言ったりしたけど。そこまでだったかな…」
いつものフラーエンならカリネの様子を笑うが、今日は意に介しもしない。
「黙って言うこと聞いてればいいのよ。解任されなければ、あんたは役目を持ち続けられるんだし」
「でもやるべきことはやらないと」
「あんたがこの王都に来たのは、子供に乗馬を教えるためじゃないでしょ。上手く立ち回るべき時だと私は思うけどね」
フラーエンはカリネの助言から、あまり乗馬の無理強いはせず仲良くなるところから始めようと考えた。
セリタのことを知るため、まずは彼女の好きな本を知ってみようと、王宮の書物庫を訪れてみる。学者塔の一階にあり、ここまでは誰でも入ることができる。
「すっごい。こんなに本が」
たくさん本があるが、セリタが読みそうな本がどれかわからない。神学を読んでいると言っていたが、そもそもそれが何なのかもよくわかっていない。
「神学神学〜」
読めない文字の本を見つければいいと思ったが、多すぎて見当をつけらない。
「すみません、神学の本ってどれですか?」
「さあ、わかりません」
入り口の衛兵に聞いてみたが、予想通りの回答だった。となれば少し気が引けるが、本読みに耽っている人に聞いてみようと考えた。
フラーエンは何人かいる中から、ドレスを着た若い娘に聞いてみることにした。後ろ姿ではわからないが、恐らく令嬢の誰かだろう。
「ご機嫌よう。お邪魔してごめんなさい。少し聞きたいことがあるのだけど」
「はい」
少女が振り返って顔を上げる。
「あっ」
驚きが思わず声に出た。
あの茶会の日のことは一生忘れることはない。華やかな喧騒、芳しい香り、降り注ぐ百の視線。そして同じ円卓を囲った令嬢達の美しさを。
視界を開くためだけに斜めに結われた肩ほどまでの淡い金髪。丸い額や小さい鼻に幼さを残すが、その落ち着いた雰囲気が知性を感じさせる。
「ミーア・カラベルン…」
青い薔薇の封蝋の招待状が届けられた、舞踏会の次の日の朝。王家の中庭に所狭しと並べられた円卓の中心で、彼女はずっと本を読んでいた。
カラベルン家のミーア。あの茶会以降一度も姿を見ていなかったのは、この学者塔にずっといたということなのだろう。
ミーアは瞬きをして用件を待っていた。
「迷惑でなければ教えて欲しいことがあって」
フラーエンが神学について知りたいと言うと、ミーアは読んでいた本を広げたまま立ち上がり、すたすたと棚の方へ歩いて行った。案内してくれているのだと理解し、フラーエンも後に続く。
小さいのに歩くのが速い。背丈からして、歳はフラーエンとセリタの間くらいだろうか。
「これ」
ミーアはそう言って、選んだ一冊を差し出してくれた。茶会では一言も話していなかったから人となりがわからなかったが、どうやら頭の良い人に多い傲慢や偏屈な気質ではないようだった。
「ありがとう」
選んでもらった本をおもむろに開いて古い羊皮紙の表面を目でなぞる。それを何枚か繰り返して、フラーエンはそっと本を閉じた。
「ごめんなさい、カムラス文字は読めなくて。国語のものはないかしら」
フラーエンが苦笑いでそう言うと、ミーアは無表情でこくりと頷き、また本が並べられた棚を見まわし始めた。
「ハレイスフィアなんだけど、あるかな?」
ミーアの視線が止まり、かなり小ぶりな本が取り出された。
「今はこれしかないかも。セイロンの翻訳が終わるまで待つ?」
セイロンが誰かわからないが、待っている時間はない。
「いいえ、ありがとう!これで大丈夫よ!」
ミーアはまた無表情で頷く。
「さっきのカムラス語のものと内容が違うの?」
「さっきのはエルシランスの古語よ」
何それ?とは言わないようにした。
「それは良い本だと思う。聖典を暗記してるなら物足りないかも知れないけど」
フラーエンが聖典を暗記などしてるわけがない。理想の一冊に出会えた気がした。
「本当にありがとう!助かったわ!」
ミーアはまたこくりと頷いた。
外の鉄格子を伝う雫に輝きはない。雷こそ聞こえなくなったが、昨日から降ったり止んだりを繰り返す雨のせいでセリタの気分はいつになく重かった。
「宵の空、白い軌跡、ローデの灯…」
寝台に座ったセリタが、ため息と共に細く呟く。
この暗い気持ちは、雨のせいなどでは決してない。柔らかい寝台に倒れ込むと、もう一度深いため息を部屋に響かせた。
無造作に羽毛に沈む二冊の本に頭を並べて、セリタは天井に手を伸ばし、小さな手を開いて見つめた。
その時、扉を叩く音が聞こえた。セリタは見向きもせず、侍女が歩いていく足音だけを耳で拾った。
「セリタ様、お身体の調子はいかがですか?」
突然聞こえた覚えのある声に、セリタは驚いて起き上がった。
フラーエンだった。
「なんで!?」
セリタは飛び起きる。何故部屋に入れたのか、侍女を見ても全く悪びれていない様子。
「何で入るの!?」
そう尋ねると、侍女とフラーエンは顔を見合わせた。
「今お許しくださったじゃないですか」
ぼーっとしていたせいで、無意識に入室を許可してしまったのだろうか。
フラーエンが笑いかける。
「これ、果物いろいろ。香草茶も、何が好きかわからないからこれもいろいろ。そんなにはありませんけどね」
見舞いの品を卓の上に並べ、フラーエンは歯を見せて笑う。セリタはどんな顔をすればいいかわからず咄嗟に目を逸らした。
それからフラーエンは、一冊の小さい本を胸の前に掲げた。
「私も少し興味が湧いて、書物庫で借りてきたんです」
その笑顔を見て、セリタはフラーエンに対して冷たい態度を取ってしまったことを後悔した。自身のことを傷つけないとわかった上で、わかったからこそ安心してロザリードやミーアへの苛立ちをぶつけた。そのことが頭から離れず、食事には味を感じず夜は眠れなかった。
フラーエンが生まれ育ったオルハロン城には本などほとんどなく、最も親しまれる神は軍神であり、星はただ美しいだけのものだった。
セリタが生まれたアムレイル城は東部の書物庫だった。芸術や学問を重んじる東部諸侯は、ある意味では真の貴族と言え、智慧の女神と夜空の語りが子守唄の代わりだった。そんな東部の総領主家だからこそセリタには智への道があったし、切り拓いた者は特別視された。
気がつけばセリタはフラーエンを椅子に座らせ、読んでいる本の中身について話していた。
「私はローデを見つけるの。神々の世界への扉が開かれれば、私は…」
そこでセリタは言葉に詰まる。それを成し遂げたとしてその先に待っている変化は、セリタの願望でしかないかも知れないのだから。
だからその先の言葉が出てきたのは、フラーエンの微笑みのおかげだろう。上手く言うことはできなくても、心の奥にある気持ちははっきりと喉から吐き出された。
「負けたくないの…」
ようやく心が開かれたと感じて、フラーエンは安堵した。セリタが話してくれる内容のことはやはりよくわからないが、笑顔を見られただけで本を借りてきた意味を感じられた。
セリタが尋ねる。
「あなた良い本を選んだわね!難しくないけど、ハレイスフィアとこの世界を結ぶ伝承の記述がたくさん書いてあるわ。私は三年前に全部読んだけどね!」
認められた気がして嬉しくなっていた。フラーエンの相槌は心地よく、セリタは神学のことをたくさん語った。
「この本自分で見つけたの?」
「見つけたわけではなくて、教えてもらったんです。だって見たことないくらい本がたくさんあったから、わかりそうな人に声をかけて。誰だったと思います?」
フラーエンが楽しそうに語る。セリタも笑っていられた。
「ミーア・カラベルンですよ」
その名前を聞いてセリタの表情が陰ったことにフラーエンは気が付かない。
「なんだか凄い感じがしましたよ。まるで書物庫の本を全て知ってるみたいに迷いなく」
「ふーん。そうなの…」
わかりやすく声音が変わった。
「知りたいことができたならミーアに教えてもらうといいよ。王都の学者達が凄いと言うのはミーアなんだから。それにあの子、私と違って嫌なこと言わないでしょ」
「え?」
セリタの声が掠れ震えている。
「みんなミーアばっかり…」
セリタが突然叫んだ。
「ミーア、ミーア、ミーア!ミーアミーアミーア!!!」
さっきまでの和やかな空気は一転し、フラーエンは困惑する。
「帰ってよ!もうたくさんよ!」
泣き出したセリタにフラーエンはいくつかの感情を覚えた。心配と気遣い、それから高貴な貴族と多感な年頃の相性の悪さ。
「あなたも少しは察しなさいよ!誰にも会いたくないって、わたし今朝言ったわよね!」
セリタは侍女にも怒鳴りつけた。諌めるつもりはないが、フラーエンはセリタを落ち着かせようとする。
「セリタ様、そんな言い方…」
しかしそれがセリタの癇癪をより激しくした。
「うるさい!馬に乗れるから何なの!成り上がりのくせに馴れ馴れしいのよ!バカだし!北部者だし!何であなたなんかに…!」
そこまで言って、セリタは自身が口にした言葉の意味に気がついた。そこから先を飲み込んでももう遅いことは、フラーエンの目が物語っていた。
子供が感情のままに口走る言葉に、深い意味などないということをフラーエンは理解している。少なくともセリタは間違いなく子供であると、そう思えるほどにはフラーエンは成熟していた。だがフラーエンも決して大人ではない。
そこから数秒間の沈黙がフラーエンを大人に近づけたのは間違いない。だがその数秒がセリタにとっては異常に長く、自分が言った言葉が何度も脳内に響き渡る。
沈黙に耐えられなるなったのはセリタだった。顔を赤らめ、目に涙を堪えて、自身の部屋を飛び出した。
「セリタ様……」
残されたフラーエンは開け放された扉を見つめる。それから自身が卓上に並べた見舞いの品を見つめ、何を間違えたのかと考える。カリネの助言通りに、余計なことをしない方がよかったのかとも。
「ハウゼン様のところへ行ったんです。昔から泣くとこうですから」
セリタの侍女が言った。
「お願いがあります。セリタ様の前でミーア・カラベルン嬢の名前を出さないでください」
雷が低く轟き、雨の音がまた響き始めた。
纏わりつく人々の視線を振り解きながら廊下を駆け抜けて、セリタは父ハウゼンの部屋に飛び込んだ。父は数名の訪問者と話をしていたが、セリタは構わず父に抱きついた。
「おっと」
驚いて両腕を上げたハウゼンは、三人の訪問者ににこりと笑顔を見せた。年齢も装いも様々なこの男達は、城下町のギルド長達である。
「どうしたんだセリタ」
ハウゼンは驚きながらもセリタを受け止め、訪問者達に休憩を申し出た。ハウゼンの目の前に座っていた三人の男はそれを快諾し、親子は一度廊下に出る。
「何があったんだ?泣いていてもわからないよ」
セリタは何かを言いたげだが、言葉を上手く選べない様子。ハウゼンは理由を察してみる。
「ふむ、フラーエン・ノーツァース嬢かい?」
セリタは小さく頷く。ハウゼンの持つ情報ではフラーエンは理不尽に人を傷つける人物ではない。
「ではこうしようセリタ。フラーエンを馬術指南役から解任し、王都から追放する。ついでにノーツァース家に謝罪させるか」
「だめ!」
セリタが叫んだ。鼻水を垂らした見上げて来る娘を見て、ハウゼンは優しく微笑んだ。
それは久方ぶりの大雨だった。庭園はぬかるみ、咲き誇る花びらは打ち落とされた。
横風に濡らされた回廊で立ち止まり、フラーエンは裾の濡れたドレスに視線を落とす。
「負けたくないか……」
回廊から下に目をやると、銀色に雫を弾く誰もいない庭園が見える。誰もいないこの中庭に、フラーエンはロザリードの幻を見た。
「ねえみんな聞いて!私を助けて!」
談話室の扉が勢いよく開かれ、少し頬の濡れたフラーエンが令嬢達の注目を集めた。
香草茶の湯気と飾られた花の香りが鼻に触れると同時に、部屋の中にいた令嬢達の視線が一斉にフラーエンに集まった。
「びっくりした」
「どうしたのよ突然」
どかどかと暖炉の前へ進むフラーエン。ドレスのまま床に座ると、抱えていた三冊の本を石畳の床に並べる。
「カムラス文字なの。誰か読める人はいない?」
静まり返る談話室で、暖炉の薪が小さく鳴った。
沈黙の中、初めに立ち上がってフラーエンの隣に腰を下ろしたのはカリネだった。
「ふーん、ふんふん。これはちょっと、難しすぎるわね」
そう言うとカリネは、覗き込んだ本から顔を上げて微笑む。反対側の隣にはメリアとマイスが本を囲んだ。サラと双子もそこに加わる。
「ベリシアならどうかしら?」
「私呼んでくるよ!」
遠巻きに観察するだけの令嬢もいるが、何人かの令嬢がフラーエンに協力してくれた。読める文字を断片的に探したり誰かから聞いた知識を持ち寄って、あーだこーだと知恵を絞り合う。
騒がしく笑い合いながら、時間は流れるように過ぎていった。




