38. お役目探し
白い長髭を蓄えた神官は聖典を閉じ、低い声で静かに言った。
「人は皆、役目を持って生まれる」
抑揚のない声が、石造りの空間に響く。
「王が国を治めるのも、侍女が衣を整えるのも同じこと。与えられた役目を果たすこと、それこそが神々が我々に望む唯一のことなのです」
数人の令嬢が小さく欠伸を飲み込んでいる。
「人は一人では生きられません。誰かの手を借り、誰かに手を貸す。その連なりの中に秩序は保たれます。八柱の神々がそうであられるように。
己の分を知り、授かった縁を大切にしなさい。それが正しき生き方です」
ちょうどその時、終わりを告げる鐘の音が鳴った。鳩の群れが塔から一斉に飛び立つと、扉が開き令嬢達がぞろぞろと出て来る。城下町にある神殿とは別の王宮内にある祈りの場。王宮専属の神官による令嬢達への教育だった。
今日においては、ほとんどの令嬢が上の空であった。どのような身分の者でも幼いうちに自然と覚えるような内容が説かれたが、それでも教養への関心を示す場として、出席しない者はまずいない。
フラーエンがヒーツから持ってきた聖典と、神官が読み聞かせた聖典には、一言一句も違いがない。何を今更という説法を耳に流しながら、フラーエンの頭の中はそのことへの感心のみで、ただ退屈な時間が終わるのを待っていた。
「やっとお昼だわ。もう一日二食の生活には戻れない」
「あんたって、今朝もあんなに食べてたのに。早くお役目を見つけないと、一番最初に穀潰しって言われちゃうわよ」
「お役目?」
すたすたと歩いて行くカリネの袖を後ろから軽く摘んで、フラーエンはもう一度聞く。
「お役目??」
「え?」
振り返ったカリネは鳩のように口を開けた。
「大変大変大変大変。大変だー!」
回廊二階の自室に戻ったフラーエンは、聖典を投げるように机に置いて、両手で頭を押さえながらベッドに腰を下ろした。
窓辺の小さな椅子で香草茶を飲んでいたヘーネとスコーラが、何事かとフラーエンに尋ねる。
「大変よ。近いうちにこの部屋の滞在が自費になっちゃうの。父上は資金を送ってくれるかしら?」
「あ、その話本当だったんですね」
「知ってたの!?」
「さっき知ったんです。それに姫様ももうご存知かと」
「わたしもさっきカリネから聞いたの。大変よ。うちに余裕はないわ」
「ヒーツに帰りますか?」
「それはダメよ。お金がなくて帰る令嬢なんて他にいないわきっと。花のティアラを戴くどころか、ノーツァース家の名に泥を塗ってしまう」
足元を見ながら、真剣な表情で一人ぶつぶつ囁くフラーエンを見て、侍女二人は顔を見合わせる。二人にとっては王都は刺激的だが、特別魅力を感じるわけでもない。フラーエンがもういいなら早くヒーツに帰りたかった。
「グレンザ様に一応手紙を書きますか?」
ヘーネはそう言いながらスコーラが入れた茶を受け取り、屈みながらそれを差し出す。フラーエンはそれを受け取ると、杯を強く握り締め言った。
「ううん。迷惑はかけられない。お役目を見つけてみせるわ」
城で仕事をするのは召使いや侍女だけではない。
フラーエン達貴族令嬢においてもそれは同様である。
夕刻、中庭のベンチでフラーエンはカリネと話していた。
「ごめんねフラーエン。父上にお願いしてみたんだけど、うちも新興でしょう?あまり大きな要求ができないみたいで」
カリネはそう言ってフラーエンを慰めてくれた。人任せにつもりはさらさらないが、やはり皆、親がどこかで話をつけてくれている。
フラーエンは故郷ヒーツを飛び出した時の、自身の考えの浅さを思い返す。
「どうしよう。このままじゃ厩番しかないわ…」
同じ頃、廊下を歩いていたリリアンが、角で偶然ロザリードとその一行に遭遇する。
「あらリリアン、奇遇ね」
そう声を掛けたのはロザリードではなく取り巻きのラーサ。ロザリードは何も言わない。
「ご機嫌ようみんな」
槍試合の夜以降、リリアンはロザリード達と少し距離を取っていた。立ち話にならないように、リリアンは腕に抱えた紙束を強調する。
「父の部屋に運ばなくては」
リリアンがそう言うと、ロザリードは廊下の中心から少しずれて道を開けた。
「そう、気をつけてね」
ロザリードが避けると、他の者も左右に割れて青いドレスの間に通り道が出来た。リリアンはありがとうと微笑んでから、その中を歩く。そのすぐ後に、ロザリードが後ろから呼び止めた。
「リリアン」
足音が止まり、廊下が静まる。
「近頃皆、この王宮でのお役目を探しているわね。あなたのはそれ?」
「ええ、ずっと前から」
「そうだったわね。軍務卿も黒犬騎士団も、きっと忙しいでしょうから」
ロザリードが何を言おうとしているのか、わからないリリアンではない。ただ今は黙って、表情を崩さないようにしていた。ロザリードは続けて言う。
「あの件も、早々に片付けてちょうだいね」
あの件とは何のことか、ロザリードははっきりとは言わない。ラーサ達が冷ややかな目を向け続けている中、ロザリードはすでに歩き出していた。
光が届かない暗い廊下で、リリアンは深く息を吐いた。
リリアンから十分離れたことを確認して、早足で追い付いたラーサがロザリードに尋ねる。
「いいんですかロザリード様。リリアンはきっと何もできませんよ。私達に言ってくだされば」
「いいのよラーサ。このことはリリアンに任せましょう。あなた達はリリアンが役目を忘れないように、たまに思い出させてあげてね」
外務卿ヴィル・ベルクレインは安心していた。娘を未来の王妃にするという計画は最早実現不可能で、裏切ったベティオル家への怒りは消えていないが、第二王子の妃という争いにおいては、ヘレネッサが明確に優位であると思えたからだ。
「考えてみればクロディア殿下は気性激しい女が好きとよく聞いていた。お前はぴったりだったろう」
ヘレネッサは何も言い返す気はないが、自身の気性が激しいと思ったことは一度もない。本当に気性が荒ければ、父の言いつけで男の部屋を訪ねることなどしないと冷笑していた。
「それで、殿下とはどうなのだヘレネッサ。上手くやれそうか」
「ええ、まあ」
「何だそれは。頼むぞ。ルーベルン家が王太子妃への推挙を固め始めた今、我がベルクレイン家の道筋はお前にかかっているのだぞ」
「よくわかってます」
ヘレネッサは父の執務室を出て、深くため息を吐いた。
この場所は王族の御所である宮の一階。スロンディア王の命により、執政会の執務室として開放されている区画である。
真っ直ぐに伸びる廊下の奥に軍務卿の部屋があり、その少し手前が外務卿の部屋である。
リリアンが廊下を歩いていると、その手前の方の扉から、よく知った赤い髪が出て来た。リリアンの心臓が一瞬跳ねる。ヘレネッサだった。
ロザリードが言った"あの件"とは、ヘレネッサのことであるのはわかる。
第二王子がヘレネッサのトークンを求めさえしなければ、彼女は今頃王都にはおらず、生まれた城に帰っていただろう。
ヘレネッサがリリアンに気付く。まだ遠いが、長い廊下には衛兵を除けば二人きり。気付いていないわけがなかった。朝の説法の時にも同じ空間にいたし、顔を合わせる機会は必ずあるが、二人きりになることはないと思っていた。
リリアンは何と声をかければいいのかと考える。しかしそれ待ってもらえるはずもなく、ヘレネッサは大きな歩幅で歩いて、目を合わせることなく通り過ぎて行った。
長く静かな廊下の床に、紙束が散らばる音が響いた。




