37. 噴水に落ちた召使い
「あらアン、ようやく熱が下がったの」
そう声を掛けてきたのは、王宮の給仕を取り仕切る女官補佐の一人だった。
「はい、ご迷惑をおかけしました。今日から復帰します」
「そう、なら早くシーツを取り替えに回りな。人手が抜けて大変なんだから」
「はい」
他の者達と同じように、大きな籠と新しいシーツを両手に持って、アンは歩き始める。
「もう噴水なんかに落ちるんじゃないよ!」
女官補佐の声に一瞬振り向き、アンは小さく頭を下げた。
宮廷仕えの朝は早い。まだ日も登っていないが、崖をくり抜くように作られた城の地下では、既に大勢の使用人達がそれぞれの仕事に動き出し、騒がしい一日が始まっていた。
配膳の指示を整えていた髭面の料理長が、腕を大きく上げて呼び掛けてくる。
「アンじゃねえか、しばらくぶりだな。体はもう良いのか?」
「おはようジェンさん。迷惑かけてごめんなさい。もう完全に復活です!」
給仕の中で最年長に近い女性が突然現れ、アンの頬を両手で挟む。
「アン、ああよかった!寝込んでたってのは本当だったんだね。あたしゃあんたまで令嬢達に取られちまったのかと心配してたよ」
「おはようマーサさん。心配しないで、私なんか誰も欲しがりませんよ」
アンが寝込んでいた間も、王宮は変わらずに回り続けていた。誰がいても誰がいなくても、この城はそのようにして営まれてきた。
しばらくの間に何人かの召使いは辞めてしまったらしい。というのも、春先に集まった令嬢達との縁が生まれた者は、しがない召使いから侍女に昇格したと言うのだった。その中にはアンと仲の良かった娘もいたが、アンは寂しさより嬉しさを覚えた。
王宮仕えは名誉であり、食いっぱぐれることはないが、死ぬまでシーツを替え続けり暖炉の灰を集めたり、水桶を変えて回るだけの人生はきっとどこかで息が詰まるだろう。
いつか、この階下の誰かと結婚して、生まれた子供も城中の灰を集めて回る。そんな人生を考えれば、皆が侍女になりたいと思うのは当然だった。
取り替えたシーツを無造作に詰め込んだ籠を抱えて、アンは中庭を歩く。
すっかり登った太陽が回廊の西に降り注ぎ、柱に巻き付いた蔦を水々しく照らしている。青い葉が芽吹き始めた木々の中から小鳥の囀りが聞こえ、まだ少し寒い風が、花の香りを城中に届ける。
そんなに長くは休んでいなかったはずだが、アンは懐かしい気持ちを覚えた。風邪を引いただけにしては長い休みだったかも知れないが、あれだけずぶ濡れになってしまったのだから、仕方がないと女官は言った。
ふと噴水に目をやると、数羽の鳩が水浴びをしていた。水の中で身を震わせ、気持ちよさそうに羽を広げている。あの冷水の感覚を思い出して、アンは少し身震いした。
"怖いのはあなた達の方よ。見たこともない人たちを“罪深い”と笑って、何が楽しいの?"
あの日、噴水の淵で言い争いをしていた令嬢達を思い出す。耳飾りをつけた背の高い令嬢が、険しい剣幕で怒っていた。
"大丈夫?"
噴水に落ちたアンに差し出された手。ドレスが濡れることなんて気にも止めていなかった。
"私の不注意なんです。前を見ていなくて、ぶつかってしまって"
女神の噴水に落ちた理由を、自分のせいだと言って庇ってくれた。
他の令嬢と同じように、王太子に見初められるべく来たのだろう。聞こえた話からしてきっと北部の生まれで、優しい心の持ち主だった。まだ王宮にいるのだろうか。なんという家の令嬢なのだろうか。
女神の噴水で水浴びをする鳩の横。アンは少し立ち止まって、水滴の中に閉じ込められた光の記憶を思い出す。
その時、階級入り乱れ飛び交う喧騒の中で、一人の若い声がアンの耳に流れ込んだ。
「待ってよカリネ、私も行くから!」
回廊の二階、数人の令嬢達が本を抱えて集まっている。
赤いドレスに耳飾り、長い黒髪を一つにまとめた背の高い令嬢が、笑いながら小走りにその輪に飛び込むのが見えた。
「遅いわよフラーエン、早く行かないと扉が閉まっちゃうじゃない」
「えへへ、ごめんね」
まだ春の日は過ぎ去らない。中庭に広がる陽だまりの中で、アンの心も花のように揺れた。




