36. 春の夜の炎
「お腹が空いてきました。何か取ってきても?」
時間ができると、アレインはそんなことを言う。
ルーベルン家が槍試合を見ていた観覧席には今、ロザリードとアレインだけである。ロザリードの父もアレインの父も、晩餐仕様に変わった地上へ降り立ち社交に精を出している。ロザリードもそれに付いて共に回るべきだが、そうしたくないようだった。察せられる理由は少し傲慢なものだが、それを諌めるの今日でなくてよいと、アレインは隣に座っていることを選んだ。
ロザリードが口にするための物を取りに、アレインは観覧席から降り立った。それを待っていたかのように、一人の騎士がアレインに近づき声をかける。
「アレイン嬢、お手を」
舞踏の誘いである。しかしアレインは愛想無く答えた。
「用があるので」
そっけなく立ち去ろうとするアレインに若い騎士は困惑し、少しだけでいいと食い下がる。
アレインが両手で持つ銀の皿には、ロザリードの好きな柔らかい子鹿の肉と甘い葡萄。前を塞がれたアレインはそれらを落とさないよう腕と指先に力を込めた。
次の瞬間、若い騎士は肩を突き飛ばされ、地面に転がった。
「いらねえつってんだよ」
倒れた騎士は驚いて仰ぎ、アレインは視線だけを動かした。突き飛ばしたのはジュラン・ルーベルン。一緒にいるのはハイレンス・クラーディ他、ルーベルン家の若い騎士達。
ジュランはかなり酔っていた。共にいる者達も程度の差はあれど同様である。囲まれた騎士は慌てて謝罪する。
「失礼しましたジュラン卿。私はただ、アレイン嬢が一人だったもので」
そんなことはどうでもいいと、ジュランは倒れている騎士に強烈な蹴りを見舞った。ロザリードの従兄弟はアレインを助けたのではない。苛立ちをぶつける標的を偶然見つけただけだった。
止めに入った者にも殴りかかり、会場の隅でそのまま小さな乱闘となる。
アレインはすでにロザリードの隣に戻っていた。調達して来た食事をつまみながら、眼下で広がる愚かな争いと、篝火を囲み踊る色とりどりの人の輪をを眺める。
ロザリードはため息を吐いた。
「はい!あ〜ん」
「あ〜〜〜ん!」
人目を気にせず熱い視線を交わし合うのは、サラ・シングソンとヴェイリック卿である。
最初の試合の最初のひと突きで退場したヴェイリックは、右腕を骨折して固定されていた。それが故の介抱なので、サラのしていることは品位に欠けるものではない。それが本人の主張だった。
「ヴェイリック、あなたが無事で本当によかった」
「サラ。僕、もっと強くなるから」
甘い甘い二人だけの世界が、サラの背後から現れた突然の大声で崩壊する。
「ここにいたのねサラ!ヴェイリック卿!少しサラをお借りしても?」
「ちょっと何よフラーエン!」
サラの手を掴んだフラーエンの反対の手には、太ったベリシア・ルーサーが。そしてそこから連なるように、カリネ、マイス、メリア。ランジー家の双子に数名の若い令嬢達。
ヴェイリックが何か言う間もなく、サラを加えた令嬢達は、一つの花の輪のように連なり、中央の一番大きい篝火へ向かって人混みの中を走って行った。
「わかってるのリリアン?あなたの家は上手くやれなかったの。ヘレネッサには嫌われたし、ロザリード様の機嫌も損ねたのよ」
「ロザリードからの伝言はそれだけ?教えてくれてありがとう。もう下がっていいわよ」
王家の観覧席からも、会場に混乱が生まれていることは見て取れた。
酔っ払った若い騎士達が殴り合いを始め、何故かアドウォルドのような関係のなかった者も加わって、下衆な盛り上がりを見せている。
また違うところではリリアン・ベティオルとラーサ・クラーディが睨み合い、何か言い合いをしている様子。
「帰るか」
エメルディアがそう言うと、セルディアやハウゼンも立ち上がり、近衛騎士達が道を開け始めた。
その時だった。
「おおおおお!」
従兄弟のフレディアがやけに興奮して木柵から身を乗り出す。フレディアが興奮しているということは、令嬢が転んで素足でも見えたのだろうと、エメルディアは気に留めなかったが、他の者たちも視線を会場に戻した。
ハウゼンがニヤニヤしながらエメルディアの肩を叩く。
「殿下殿下、本当に帰るんですか?」
気付けば音楽が変わっている。城下の酒場や野営地を想起させるような、小刻みに奏でられる早い曲調。盛り上がり始めているが、王子のエメルディアにはなんという曲かわからない。
そしてそれは花びらが風に舞い込むように、篝火を囲んで踊る人々の間をすり抜けて広がった。
「リリアン!」
突然現れたフラーエンがリリアンの手を握る。
「フラーエン?どうしたのいったい?」
「みんなで踊りたくて!あなた達も一緒に!」
飛び跳ねるように体を揺らしながら、フラーエンはラーサにも手を伸ばす。
ラーサはフラーエンと話したことがなかったし、茶会で自分を差し置いてロザリードの隣に座ったフラーエンが気に入らなかった。
「はあ?なによ突然」
「さあ、踊りましょう!」
フラーエンの後ろからどんどん令嬢達が現れて、青ドレス達に手を伸ばす。
気付けば注目を集めており、子ども達や貴婦人、老若男女問わず、輪は広がっていた。
リリアンの口角が緩み、強張っていた眉の力も抜ける。
「き、気安いわよフラーエン・ノーツァース。辺境が馴れ馴れしくしないで」
ラーサは強い語気で跳ね返した。リリアンが呆れた顔をしているが、フラーエンは諦めずにもう一度ラーサに手を伸ばした。
差し出した右手より頭が低くなるほどに腰を深く折り、左手でドレスの裾を摘んで後ろに広げる。
赤いドレスで背の高いフラーエンがその姿勢を取ると、周囲の視線が一層引き寄せられた。
ラーサの妹、キャメリー・クラーディが同じ姿勢をとってから踊りに加わった。それを皮切りに、青ドレス達の足はもう止まらない。若い娘達にとって舞踏会は、抗いがたい誘惑である。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!あなたたち!」
ラーサだけは抗った。その理由は舞踏の好き嫌いではない。青いドレスを纏う者としてロザリードの意向以外では動きたくないし、何よりアレインなら踊らないと思ったからだった。
だが、娘達だけで輪になり踊り始めるという、珍しい光景に集まった注目の中で、流されずに立ち尽くし続けるというのも難しかった。
あの娘はなぜ踊らないんだろう。そんな目線をひしひしと感じ、ラーサは渋々フラーエンの手を取った。
立ち止まって振り返ったまま、篝火のそばの出来事に注目していた王家の一門の中で、ハウゼン・ルガティアスが笑いながら言った。
「フラーエン・ノーツァースですよ、殿下」
エメルディアは表情そのままに返す。
「そのようだな」
ハウゼンは面白がっている。耳に入っている今日の情報を、聞かれてもいないのにエメルディアに伝える。
「彼女は今日、ジェレム・カールという騎士にトークンを授けたようです。名家の騎士ではないようですが、なかなかの男前です。勿論殿下ほどじゃないですけどね。踊っていたのは最初だけで、今はもう別れてるようですね」
ハウゼンがニヤニヤしながら話すせいで、従兄弟達もフラーエン・ノーツァースを探し始め、フレディアが目を輝かせながら尋ねる。
「降りますか?エメル兄さん!」
下に降りて令嬢達と踊りたいのだろう。誰も行くなとは言っていないが、フレディアは誰かの同行を望んでいる。
エメルディアは静かに目線を移す。だらしない従兄弟から、篝火の横で一際目を引く北部の令嬢、フラーエン・ノーツァースへ。
手を繋いで、離して、揺れて回って、また手を繋いで。
踊りながらリリアンが言う。
「フラーエン、あなたやっぱり面白いわね」
「それって褒められてるの?」
「勿論よ。あの茶会の円卓にあなたが転がり込んだのは、偶然なんかじゃないのかも」
"転がり込んだ"
その言い回しに、フラーエンは小さな不安を覚えたが、今目の前で笑うリリアンが、言葉の裏に棘を隠しているとは思えなかった。
「神々のお導きだわ」
その言葉は不思議な感覚をフラーエンに落とした。音楽に合わせてせわしなく体は動いているのに、心は無風に淡く揺らめく小さな火のよう。だが確かな火種が燻っていて、自分が円卓に招かれたことが誇りのように思えた。
どんな理由であれ、認められた気がした。
和やかなで華やかな時間が流れる。前回の宮廷での舞踏と明らかに違うのは、令嬢達の仲が深まり笑顔を讃え合っているからだろう。
夜空に雲はなく、月と星と篝火の明かりが肌寒い春の夜を暖かく照らしている。
フラーエンが笑いかけるから、陰気で太ったベリシア・ルーサーにも気後れはなかった。
いつもは目立ちすぎないよう立ち回るカリネだが、フラーエンが望むなら輪に加わらない理由がなかった。
メリアやマイス、他の令嬢達もこの時間を楽しんだ。
リリアン・ベティオルは笑った。その可憐さは、隣で跳ね馬のように髪を振り乱すフラーエンから観衆の注目を奪うほど。
ぶっきらぼうな表情であっても、合わせて踊ってくれていたラーサが何かに気づき、そして足を止めた。
ラーサがフラーエンの手を振り払うと、笑顔になりかけていた他の青ドレス達も、ラーサが見ているものに気付き、慌てて輪から外れた。
令嬢達の輪はそのまま解けてしまい、人々の中に散り散りになり、フラーエンも異変の先を見る。その先には、月光を纏い立つ令嬢の影があった。
「ロザリード…?」
暗くてはっきりとは見えない。わかるのはロザリードの顔立ちの美しさと、フラーエンが少し前から感じていた違和感が間違いではなかったということ。
今その視線が向けられているのはフラーエンではない。ロザリードはリリアンを見下ろしており、リリアンもそれを感じているようで、頬に冷や汗が浮かんでいる。
自分に向けられているものでなくてもわかる。それは震えるほどに冷たい。
フラーエンにとって恐ろしい理由はそれではなかった。彼女は自分を見ていない。もう見ることはないとでも言うように、まるで視界に入っていないようだった。
次の円卓には招かれない。それだけは確信できた。
賑やかな音楽は止まない。されどその陽気な音色は、フラーエン達の耳に触れることなく漂っている。
透き通るような弦の音も、陽気な太鼓も笛の音も、人々の足音や歌声、篝火の爆ぜる音さえも。夜の空が全てを吸い上げ、フラーエンの持つ感覚の全てが月明かりが照らす一人の令嬢に奪われていく。
暗闇の中遠く、唇の色さえもわからない。だがその口から何か言葉が語られるなら、それだけはこの耳に必ず溶け入る。そんな気がするほど、フラーエンには今、ロザリードしか見えていなかった。
ほんの一瞬だったのだろうが、魅せられると同時に脚がすくんでいた。ロザリードがいなくなるまで、誰も何も言えなかった。
「行くわよ」
乱れた裾を整えてラーサがそう言うと、青ドレス達はそれに続いてぞろぞろと、ロザリードを追うためにその場を後にした。
「わかっているわねリリアン」
明らかに敵意を含んだ捨て台詞。彼女達の間に何があったのかはわからないが、フラーエンにもリリアンの焦りが伝わった。
パチパチと薪の音が鳴り、風に乗った火の粉がリリアンの鼻先で闇に消える。
フラーエンが向くと、リリアンは微笑んでいた。
「夜は寒いわ、フラーエン・ノーツァース。あなたの居場所は北よ。見果てた夢はもう十分でしょう」
リリアンの笑顔は消えていた。それは冷たく突き放すような声音だった。
「帰りなさいフラーエン。あなたの中の茶会の思い出は、まだ美しいままでしょう?」
そう言うとリリアンは侍女達が待つ方へ歩き出す。何も言えないフラーエンは、ただ黙ってそれを見送った。
猟犬の刺繍をドレスに施した侍女達と、騎士団も数人立っている。リリアンは振り向くことなくその中に消えていき、フラーエンは炎と喧騒の中、一人立ち尽くしていた。




