17.ゲームクリア!
自立援助ホームでの1年半はあっという間に過ぎ去っていった。
今は2021年の春。気が付けば『篤史くん』も18歳を超えてしまった。
おかげでクレジットカードが作れるようになり、さらにはクレカさえあれば一部の格安スマホが保護者への電話連絡等無しで携帯電話の契約が出来るようになるため、ようやっと私は自分の電話番号を再び手に入れる事が出来た。
※注:未成年者の携帯電話の契約の場合、保護者の同意書などはどのみち必須となります。
仕事には色々苦労があり、現在は3つめの勤め先となる。
といっても私が悪いのではない。世間ではコロナウィルスだとかいう前代未聞のウィルスが世界的に流行したせいで、最初の仕事は開店休業になり、時給払いのアルバイトである私などは何の補償も得られずに辞めざるを得なくなったのだ。
それで短期のアルバイトを挟みつつもようやっと落ち着いたのが配送センターの仕分けの仕事である。
巣ごもり需要とかで宅配サービスのセンターはどこも大忙しなようで、新規アルバイトの大規模募集にうまく潜り込むことが出来た私は、ようやっとホッと一息つくことが出来た。
援助ホームの家賃はとても安いので、しばらく職にあぶれても即座に困ることはなく、それはそれで大変ありがたいのだが、とにかく私はとっとと貯金をしてすぐにでもホームを出たいのだ。
だから仕事がないのは本当に辛いことだった。
ところがそんな私に対して、許可なく勝手に援助ホームを退所する事だけは頑なに禁じられた。
ただしこれには、少々特別な事情があったようだ。
というのも私はその素行に問題がないか、かなり長い間職員の人達に疑われていたようなのである。
これは少し後になって教えてもらったことなのだが、そもそも児童相談所職員が義母の元へと聞き取り調査お行った過程で、私が私文書偽造をして勝手に学校を辞め勝手にバイトを始め勝手に部屋を借りていたことが早い段階で露呈して、これが所内でちょっとした問題となっていたそうである。
ただし義母の側に大きな問題がたくさんあって、そもそも義母は以前から自分の印鑑や印鑑証明書を『篤史くん』に預け、例えば高校入学時の手続きなどもすべて『篤史くん』にやらせていた経緯なども同時に分かったので、現場の判断で見なかったことにしたのだそうだ。
義母は親であるという事の社会的責任と権利の大きさをよく分かっていないようで、義息子が書類を偽造した事を問題とも違法とも考えていなかったそうだ。
そこで、児童相談所から家裁に対して親権停止の申請を上げる際には、このあたりの経緯ははっきりと説明しなかったそうだ。
関わった職員の人達は胃の痛い思いをしたそうだが、特に義母が騒ぎ立てる事もなかったので、有耶無耶のまま裁判も通り今日に至っているらしい。
ただし『篤史くん』が借りていた部屋の未納分の家賃や光熱費、退去費用などが連帯保証人である義母へ請求がいった点については、義母は大激怒していたようである。
とはいえ腹を立てながらも最終的には義母が未納料金を支払い、退去手続きなどもやったそうである。
義母は、訪問に行く職員に対して毎回のように「いますぐ『アツシ』に会わせろ! 全部『アツシ』に責任を取らせてやる!」などと息巻いていたそうだが、「絶対に会わせない」「お金については養育者としての義務なのだからあなたの責任」と職員は突っぱねたそうだ。
院長のタナカさん曰く、「『あつしくん』のお母さんが変に小知恵をつけてごねだすと面倒になるから、とにかく大人しくじっとしているように。」との事であった。
ともあれそんなわけで、今の私は児童相談所の温情で私文書偽造という犯罪行為を見逃されている状態なので、しばらくの間は問題を起こさないか監視されているという事情のようであった。
この話は私にとっては少しばかり納得がいかなかった。というのも、そもそも私は違法と自覚したうえで文書を偽造したのだし、いざとなったら犯罪者として捕まっても構わないというつもりだったのだ。
「なんでしたら今からでも警察に自首します。ぼくには罪を償う意思があります。」
そうタナカさんに伝えると、それはもう滅茶苦茶に怒られた。
「そういう問題じゃないだろう!」涙目になりながらも声を張り上げるタナカさん。
とにかく延々と違うとかそうじゃないとか説教された。
何故か怒ってる立場のタナカさんが泣いており、聞いている私は「はあ」とか「へぇ」とか頷くばかりの奇妙な時間であった。
「君がしたかったのは養育放棄をしたお母さんから逃げ出すことだろう!? その為に一番いい方法を私達も考えているんじゃないか! 警察に捕まればとりあえず逃げられるだなんて安易な事は考えるな! 私達も君が逃げるための方法を色々考えているところなんだから、少しはこっちを信用してくれ!」
私としてはさっぱり意味不明な話である。
警察に出頭するのが安易な考え? タナカさんたちが色々考えている? この人達の事を信用する?
タナカさんはいったい何の話をしているのか。ついこの間まで見ず知らずの赤の他人だったこの人達の事をどう信用すればいいというのか。それならば最悪の事態に備え、一人で生きていくための一番良い方法を模索する方がよっぽど良いではないか。
だが、『篤史くん』の考えは私と違っていた。『篤史くん』は、ほんの少しの間だけでもいいからタナカさん達の事を信じるべきだ、そう私に強く語り掛けてきた。
かわいい『篤史くん』に言われてしまうと、私は何も反論できなくなる。
そこで私としては腹立たしい話ではあるものの、とりあえずはタナカさんに従うことにした。
ともかく20歳になれば自分の事は自分の自由に出来るのである。家を出るのもその時にすればいい。それまで数年間我慢すればいいのだ。
だがこれが思いのほか私にとっては辛い事だった。私は他人と同じ時間にご飯を食べたり、お互いに時間を分けてお風呂を借りたり、狭い廊下でお互い譲り合ったりというのがどうにもイライラして仕方がないのだ。
そりゃあ私も最初のうちは気にならなかった。
最初の半年くらいは、新しい共同生活者達との触れ合いにおっかなびっくりで、でも少しづつ仲良くなっていって、まあ楽しかった。
それが1年が経つ頃にはもうイライラが止まらなくなっていった。
援助ホームの子たちはみんないい子達ばかりだった。職員の人達もみんないい人たちばかりだった。
私が人づきあいが苦手だと、他人との共同生活がしんどいと察してくれて随分とみんな気を使ってくれた。
それどころか、何とか私に一人の時間を用意しようと、あれこれアイディアを出し合ったりしてくれた。
キャンプ用品を譲ってもらったのはすごくよかった。原付免許を取って、中古のカブを譲ってもらって、休みの日にキャンプ場まで遠出をしてソロキャンプをするのだ。
これはとても良い気晴らしになった。アイディアを出してくれたケイくんやカブを譲ってくれたミナさんには感謝しかない。
それでも援助ホームに戻ってくると、やっぱりどうしてもイライラが募ってしまう。
『篤史くん』はそれほどでもないそうなんだ。『篤史くん』はちゃんとみんなとそれなりに仲良くやっていて、共同生活を楽しんでいる雰囲気が私に伝わってくる。
耐えられないのは私なのだ。
私はつくづく思い知った。自分がどうしようもなく他人との生活に向いていない人格であると、今さらながら強く自覚させられた。
それで、毎月恒例の職員の人との面談の中で、私はついに泣き出してしまった。
「とにかく、他人と生活をするのが辛いんです。どうしようもなく一人になりたいんです。ホームのみんなはいい子たちばかりだけど、そういう問題じゃないんです。誰かと一緒に生活しているというだけで、逃げ出したくてたまらなくなるんです。」
「そう。」タナカさんはそんなふうに軽い感じで返してきた。それからじぃーっとこちらを見つめてきた。そしてこんなふうに聞いてくる。
「このホームを出たい?」
「はい。」私は一も二もなく頷いた。
「ダメだと言ったら?」
「諦めます。」
「どうして?」
「20歳までは保護者の許可なく部屋は借りれませんから。」
「同意書を偽造しようとは思わないの?」
「もうしません。」
「どうして?」
「20歳まで我慢すれば確実に家を出られると分かりましたから。あの時は先行きが不透明過ぎたんです。いつまで我慢しても一生逃げられないという閉塞感がありましたから、悪い事でも何でもしてやろうって気になってました。今は違います。タナカさんはぼくが二十歳になっても拘束したりはしないって、それくらいは信じてますから、だから20歳までは我慢できます。」
「でも本当は辛いんだろう? さっきは泣き出していたくらいだし。……今すぐ出たいとは思わないの?」
「それは思いますけど、でも我慢します。」
「もし私が『これが出来ればホームを出てもいいよ』ってお題を出したら、『あつしくん』は挑戦してみる?」
「内容にもよります。ぼくにも出来る事と出来ないことがありますから。ぼくに出来そうなことだったら挑戦してみますが、無理をするつもりはありません。出来なさそうな事なら20歳まで我慢します。」
「そう……。出来ないこともある……ね。」
タナカさんはそうぽつりとつぶやいてから、しばらく押し黙った。
ややあってから再びタナカさんが口を開く。
「本当はね、『あつしくん』。君は今すぐにでも、このホームを出ていってくれて構わないんだよ? だって君はなんでも出来るから。」
「えっ?」意味が分からず、私は思わず聞き返してしまった。
「『あつしくん』。君はもう一人で生きていく力があるから、本当は今すぐにでもこのホームを出ていってくれていいんだ。
けれどもそれでは私が嫌だから、『あつしくん』の事は無理を言って引き止めているだけなんだよ。」
……さっぱり意味が分からない。
「どういう事でしょう?」
おずおずと私がそう尋ねると、タナカさんは申し訳なさそうな顔をしながら続きを話してくれる。
「ふつうは反対なんだよ。ここに来る子供は一人で暮らすための方法をまるで知らないから、ちょっとづつ私達が手助けしたり、時には仲間と相談したりして覚えていく。
その為にこのホームはあるんだ。
けれども『あつしくん』。君は最初から全部知っていたね? 私は最初、児童相談所の人達から君についての相談を持ち掛けられた時、びっくりしたよ。
君はこのホームに来る前すでに半年間一人暮らしが出来ていたんだ。
まだ16歳になったばかりの少年が保険や税金の事を考えて初年度から年収の計算をしたり、家計簿をつけて少ない月収の中からきちんと毎月貯金までしたり。
そんなふうにして君は半年ほど一人で暮らしていた実績があると聞いて、私達が何を教えればいいのか、さっぱり分からなかった。
君は最初から全部出来ていた。これは本当にすごい事だし、どこで君がそんな知識や技術を覚えたのか、不思議でならないよ。
君に教えることは何にもないし、周りの子供達と相談することも何もない。
だから本当は君みたいなしっかりした子はホームにくる必要なんてないだろうって最初は思ったよ。
けどね。君と直接会ってみて私は考えを改めたよ。
確かに君は何でも出来るすごい子だけど、たった一つの肝心なことが出来ていない。だから私は君を預かることにした。
それがなんだかわかる?」
私にはさっぱり分からない。いったい私に何が足りないというのだ。私は首を横に振った。
そうしたらタナカさんは残念そうな顔になり少しだけ笑った。それからすぐに真顔になり、射貫くような目で私を見据えてくる。
「『あつしくん』。君はね。人を頼ることが出来ないんだ。何でもかんでも自分一人で出来てしまうから、誰かに助けを求める事が出来ていないんだよ。だから私は君に他人への頼り方を覚えてほしくて、君を受け入れたんだ。」
なんだそれは!? どういう話だ!? タナカさんはいったい何の話をしている!?
混乱する私をよそに、タナカさんの話は続く。
「そもそも君がお母さんの同意書なんかを偽造しようと考えたのは、誰にも頼る人がいなかったからだ。
お母さんに見つかって逃げ出した時も、それこそ警察にでも何でも駆け込めばよかったのにそれが出来なかったのは頼り方を知らなかったからだ。
もっと早い段階で、学校の先生なり児童相談所なりどこへでも相談すればよかったのに、それが出来なかったのは頼るという事そのものを知らなかったからだ。
それ自体はよくある話だ。小さいうちからネグレイトや虐待をうけている子供達はそもそも他人の頼り方を覚える機会すらないから、誰にも助けを求められずに一人で頑張ろうとしてしまう。
けれども普通は君みたいにうまくいかないんだ。
もっと早い段階でボロが出て、でもそれがかえってヘルプサインになる事も多いから周りの大人も早い段階で気付ける。
だから助けてやれることも出来る。
そこで子供達も初めて学べるんだ。世の中には頼っていい大人もいるんだってね。
けれども君はうまくやりすぎた。一人で生きる術を磨きすぎた。だから本当に一人ではどうにもならないとき、助けを求めてもいいときに他人を頼る方法だけをずっと学び損ねてきたんだ。
だからね、『あつしくん』。私はこう考えていたんだよ。君がどんな小さなことでもいい、なにか一つでも、とにかく一度でも私達の事を頼ってくれる事があったら、すぐに君を望み通りにしてあげようってね。
どうしてもスマホが欲しいといえば用意したし、仕事を辞めて勉学に専念したいというのなら良い方法を考えたいと思ったし、どうしてもホームを出たいというのならその通りにしてあげようって考えていたんだ。君が私達を頼ってくれたならね。
けれども君は今日まで一度も頼ってはくれなかった。」
それからタナカさんは遠い目をした。
「正直焦ったよ。ともかく君は何でも一人で出来てしまうから、こちらが制限を掛けてもすぐに代案を考えてしまう。
スマホの件は傑作だったね。君にスマホを持たせるわけにはいかないと拒絶したら、君はあっという間に代わりの方法を考えてしまった。
フリーのWi-Fiスポットがあればアプリを使ったLINE通話とかは出来ちゃうから、コンビニのWI-Fi契約とかすればとりあえず簡単な連絡だけなら困らないとかって、私のようなオジサンにはさっぱり意味が分からなかったよ。
そんなふうにして君はなんでも自分で解決してしまうから、私達は君に対しては何も出来ることがなかったよ。
もちろん、法に触れる行為があったならすぐさま警察に突き出すつもりではいたけれど、君は一度も悪い事はしなかった。
このまま成人になるまで我慢してやり抜いて、そのまま私達の元から出て行ってしまうのかとひやひやしたよ。
私達は君に肝心な事を伝えることが出来ないまま、『あつしくん』を一人っきりのままで社会に送り出さなきゃいけないだなんてね。
君を見ていると、自分達が何でこのホームを運営しているのか分からなくなって、私は自信をなくしてしまいそうになったよ。」
タナカさんは一息つくと、私の方へ向き直る。
「だから『あつしくん』。こんな事を言ってはなんだけど、今日君が始めて弱音を吐いてくれて、私はとっても嬉しいんだ。
不謹慎な事だとは思っているけれど、君がほんの少しだけ私に心を開いてくれたことが嬉しいんだ。
それだけで私はもう充分に満足したよ。君を引き止める理由はもうどこにもない。
だから『あつしくん』。」
タナカさんはじっとこちらを見つめてくる。
「『あつしくん』がこのホームを出たいというのなら、するべきことはたった一つだ。
君がホームを出たいなら、ほんの少しでもいい、私達を頼ってくれ。何とかしてほしいと声を上げてくれ。助けてほしいと言ってくれ。
そうすれば私はいつでも君をこのホームから送り出すつもりだ。部屋さえ見つかるのなら今日にでも出ていって構わない。だから『あつしくん』。」
それからタナカさんはおもむろに深々と頭を下げた。
「ほんの少しでもいい。私達を頼ると誓ってくれ。私が君に望むのはそれだけなんだ。ほんの少しでも頼りにしてくれるなら、それだけで君はゲームクリアなんだよ。
だから頼む!」
私はどうしようもなく混乱していた。
頼るってなんだ? どうすればいいんだ?
そうしたら心の中の『篤史くん』にバカっ! て怒られた。
それで『篤史くん』がこんな時のどうしたらいいか教えてくれた。
私は『篤史くん』に言われたとおりにこうタナカさんに伝えた。
「ぼくはホームを出て一人暮らしがしたいです。どうか力を貸してください。」
そうしたらタナカさんがガバっと顔を上げて、「ありがとう。」といいながら泣き出した。
私としては思わず「えええええっ」と声を上げるところだったが、『篤史くん』もなんだか泣き出したような気配がしたから、ここは茶化したり馬鹿にしたりしてはいけない場面なんだと思い直し、とにかく神妙な面持ちでタナカさんが落ち着くのを待った。
それで私はこのホームを出られることになった。
私にはさっぱり意味が分からない一幕であったが、『篤史くん』が納得してくれているので、きっとこれは正しい事だったのだろうとそう思うことにした。
この一件でつくづく思い知ったことがある。
私はどうしようもないくらい決定的に「他人に頼ること」がヘタなのだと。あまりに長く自分一人で生きてきたために、他人をうまく頼って生きていく方法が全く分からないのだと。
ところが『篤史くん』ときたらこのあたりがとても得意なのだ。
何せ『篤史くん』が真っ先に頼ってくれた相手がまさにこの私だ。私は『篤史くん』のために何でもしてやろうと粉骨砕身で頑張ってきたが、裏を返せばそれほどまでに『篤史くん』は私を頼ってくれたのだ。だから私は彼のために努力しようと思えたのだ。
何のことはない。人たらしの『篤史くん』は頼ることのプロだったのだ。
だから他人をどう頼ればいいかなんて、全部『篤史くん』に相談すればよかったのだ。
それで私は心の底から思い知った。
私はずっと、自分が大人だと思っていた。『篤史くん』を導いてやらなければいけないと考えていた。
だが結局のところ、私は自分が思っているほどには大人ではなかったのだと思う。
『篤史くん』はある面においては私よりよっぽど大人で、私が『篤史くん』に頼らなければならない場面はいくらでもあったのだ。
いや、今まで気付かずに『篤史くん』に頼っていた局面も過去に何度もあったのだと思う。
それを私は粋がって自分の手柄にして「わたしすげー」などと思い込んでいたのだが、きっと実際は違っていたのだ。
私と『篤史くん』はとっくの昔に対等の立場で、優しい性格の『篤史くん』がわざと少し引いてくれて、私を立ててくれていただけなのだ。
それを私が勝手に自分が目上の人間なのだと偉そうにふんぞり返っていただけなのだ。
私は自分の事が大変恥ずかしくなった。
そしてこれから先どうしていいかも分からなくなった。
この先の『篤史くん』の未来は真っ白だったが、ともに歩む私自身の未来も真っ白だった。10年後の自分がどうなっているかも想像がつかず、ただただ白いばかりの世界の上で、どう生きて行けばいいのかさっぱり分からなくなった。
どう行動すれば正解で、何を選択すれば正しい道へ続いているのか、さっぱり分からなくなった。
それでもとにかく、私達は前に進まなければならない。
『篤史くん』が得られるはずの幸せな未来に向かって、少しでも前に進まなければならない。
私は今日初めて、人生のスタートラインに立った気分になった。
これはとても恐ろしい事である。けれどももう、後戻りはできない。
ともかく前へ進むしかない。
私は恐る恐る、前へと一歩踏み出した。
二度目の部屋探しは驚くほどあっさり決まった。
何せ予算が潤沢なのだ。1年半の間にコツコツ貯めた70万あまりのお金があれば準備金としては充分過ぎるほどだった。
保証人には児童相談所所長のカジタさんがなってくれるから、後ろ暗いところは何もない。不動産屋を前に堂々と相談をすることが出来る。
おまけに援助ホームのみんなが引っ越し作業やら掘り出し物の家電製品を探してきてくれたり車も出してくれたりとあれこれ助けてくれたおかげで余計な出費や面倒がほとんどなかった。
おかげでびっくりするほどらくちんな転居となり、肩の力の抜けた私はへにゃへにゃと崩れ落ちそうになったくらいだった。
人に頼る事の苦手な私ではあるが、それなりに上手くみんなを頼れたのではないかと少しだけ自信になった。そんな私のへんてこな心境を察したらしい『篤史くん』もなんだかくすくすと笑っていたようであった。
私達は数年ぶりに、二人きりの一人暮らしを再開することが出来るようになった。
今度の部屋はガス火だしベランダもしっかりしているから洗濯ものの干し場所に困ることはない。
押入れが小さいのは玉に瑕だけれど、必要以上のものを持ちたがらない『篤史くん』と私ならさして困らないだろう。
私は引っ越し初日から殆ど全て揃った家具や電化製品、食器や調理道具などを見渡して大いに満足した。
これなら私達は悠々自適の一人暮らしを始めることが出来る。
そのまま近所のスーパーで食材を買ってきて、新しい台所で調理をして、新居での初めてのご飯を二人で味わう。
なにせ『篤史くん』のご飯さえあればここは私達のホームなのだから。
新居のガスコンロは火加減が難しく、土鍋で炊いたご飯はちょっと焦げてしまったがこれはこれで美味しい。調味料の配置やフライパンなどの場所は少し考えないといけないなぁ。追加で棚を増やした方がいいかもしれない。
快適な暮らしを実現するには、しばらくはちょこちょこと微調整が必要になりそうである。
おなかも膨れてほっこりとした私達は、明日は何をしてやろうと贅沢な悩みに頭を使うことにする。
せっかくなので溜まっていた有休を使って一週間ほどのんびりする予定なのだ。
けれども特に何も予定を立てていなかったので、明日何をすればいいか、まるで想像もつかないのだ。
さあどうしよう?
何にも思いつかないぞ。
いっそのこと1日ダラダラと呆けてすごしてやろうかしら。
それで私ははたと気付いてしまった。
明日が楽しみだなんて、何年ぶりの感覚だろう!
未来が楽しみだなんて、いつ以来の幸せだろう!
私と『篤史くん』はようやっと手に入れたのだ。幼い子供のころには当たり前だったはずの薔薇色の未来を思い描ける人生を、ようやっと今取り戻したのだ。
自然と私は笑い出していた。私の中の『篤史くん』も笑っていた。
私達はいつまでも、二人で笑い合った。
笑いながら、幸せな気分で、買ったばかりのふかふかの布団の中にもぐりこみ、そのまま最高に幸せな眠りについた。
もちろん当然のことながら、明日の予定は未定のままだ。
その晩私はなんとも奇妙な夢を見た。薄暗闇の中、枕元に立つ少年がじっと私の事を見下ろしている。
うすぼんやりとした視界を見上げる私からはその少年の顔がはっきりと見えなかったが、どうもそれは『篤史くん』であるように思えた。
……そんなとこに突っ立っていると寒いよ? 『篤史くん』。布団の中はあったかいよ? せっかくだから今日は二人で寝よう?
私は自分の隣に『篤史くん』が潜り込めるよう、少しだけ位置をずらしてスペースを作った。こうしておけばいつでも入ってこれるだろう。
シングルサイズのベッドは狭いが、今までも二人で眠ってこれたのだからどうにかなるだろう。
睡魔に勝てず私はそのまま瞼を閉じる。
再びの眠りにつく直前、チラリと見えた『篤史くん』の口元は、なんだか嬉しそうに微笑んでいるように見えた。
朝起きたら『篤史くん』はいなかった。
代わりにテーブルの上に一通の置き手紙が残されていた。
『篤史くん』から私への、最初で最後の手紙だった。




