13.雨
まだ暗いままの外はじとじとと霧のような雨が降り注いでいた。
幸いにもパック料金の精算が先にすんでいた私はネットカフェを出ること自体は問題なく出来たが、延長が出来ないため時間きっかりで部屋を出るしかなく、まだ夜更けのこんな時間に路上へ飛び出すしか他になかったのだ。
ネカフェを出てすぐのところにコンビニがあった。
少しばかりの小銭しか持ち合わせていない今の私に買えるものなど何もなかったが、入口に置かれた傘立てから1本傘を拝借するのにはちょうどよかった。
ズキンと『篤史くん』の良心が痛むのが伝わってきたが、知ったことか! 私は先ほど財布の中身を全額スられたばかりなんだぞ! 今さら傘一本パクったところでどうという事もないだろう。
私は一時期、サバイバル動画を面白がって熱心に見ていた時期がある。一銭も持たずに手ぶらで多摩川に行って、その場にあるものだけを使って数日程サバイバルするような動画だ。
あの時は面白がって他人事のように喜んであれらの動画を見ていたが、いざ自分が現実に似たような状況に追い込まれてみると、とても笑えるような状況ではないことに否応でも思い知らされる。
まず何より雨が大敵なのだ。少しくらい濡れてもいいやと霧雨の中傘もささずに歩ける人間は、実は人生の勝ち組なのだ。
水に濡れた身体は否応なく体力を奪ってゆくから、サバイバル生活をする上ではとにかく濡れないことを一番に考えなければならない。
とりあえず大きめの傘1本は確保できたが、これだけでは心もとない。足元のスニーカーも水には弱いため、本降りになる前にまずは雨宿りできる場所を探さなければならない。
私がすぐに思いついたのは、ここに来る途中で渡った荒川の橋だ。
あの橋のたもとは雨宿りするには充分な広さ、大きさがあるように思える。
とりあえず本降りになる前にあそこまでたどり着ければ、雨については何とかなるだろう。
ぼんやりと回らない頭を巡らせながら、ゆるゆると通りを南の方へと向かって歩き出す。
ついでにどこか適当な店の裏手から段ボール箱を見繕って数枚確保する事にする。
段ボールは路上生活における緊急の防寒アイテムとしてとても優秀だと聞いた事がある。あるとないとでは大違いだという話だったから半信半疑になりながらもこれを小脇に抱えて目的の橋を目指す。
橋にたどり着くころには雨は本降りになっていた。
辺りは白んでおり、ざあざあと滝のような雨がけぶり、10メートル先がよく見えなかった。
足元はびちゃびちゃで、抱えた段ボールも半分以上が水に濡れている。
まったくやることなすこと全てダメだった。
こんな事なら適当なビルの軒先で雨宿りをしていればよかった。なんでこんな土砂降りの中、必死になって川まで戻ってこようなどと思ったのか。
ボーンヘッドにもほどがある。
惨めさに涙が溢れそうになったが、今さら泣いたところで何か問題が解決するわけでもない。
私は歯を食いしばるようにして橋へと辿りついた。
橋の下には先住者がすでに数名いた。ブルーシートで簡易小屋などを作って寝泊まりしている路上生活者の人達だ。
そのうちの一人がどろりとした目でこちらをじっと見つめてきているのに気付いた。白い髪を刈り込んだ老人の男性で、思いのほか小ぎれいな身なりをしていた。
なんとなく居心地の悪いものを感じた私は、ぺこりと適当に頭を下げつつ彼らの脇を通りぬけ奥へと進み、柱の影を居場所と決めると段ボールの濡れていない部分を上向きに敷いて腰を下ろす。
足元がぐずぐずになっていて気持ちが悪かったので、靴と靴下を脱いで裸足になる。
そのままぼんやりと荒川の水面が雨にけぶるのを眺めてみる。
路上生活なんて全くの未体験だ。
いったいこの先、どうすればいいのだろう?
真っ先に思いつくのは食料の確保だ。とにかく食い物さえ何とかなれば、病気やけがのないうちは当面生きていくことが出来る。
水についてはそんなに心配していない。日本の素晴らしいところは、そこらの公園にある水道の蛇口をひねれば、それだけで飲めるクオリティの水がいくらでも手に入ることである。後は適当な空のペットボトルさえ確保すれば水はどうとでもなる。
ただ食べ物だけがどうにもならない。
財布の中で刷られたのはお札だけだったから、小銭だけなら数百円ほどある。これを使って取りあえずの食料を確保するとなると何を買えばいいだろう?
コンビニは論外だ。コンビニはあまりに高すぎる。
業務用スーパーを見繕って炭水化物系の食料を買うのがいいだろう。例えば安くなっている食パンなりロールパンなりを手に入れれば、数日はそれだけで生きていける。
だがその先はどうする?
全く先が思いつかない。
いっそのこと万引きなり食い逃げなりをしてやろうか?
それで警察に捕まるようなことがあってもむしろいいじゃないか。
いやダメだ。とにかく義母に引き渡されるリスクが怖すぎるのだ。
手錠をかけられベッドに括りつけられて餓死したであろう生々しい記憶が頭にこびりついている。
あの記憶は今となってはただの夢のようなものであったが、私には真実であるように思えてならない。
義母はあれくらいのことは平然とやる。むろん『篤史くん』ならぬ私は精いっぱいの抵抗はするが、それでもなにがしかの面倒が起こることは間違いないように思える。
私はあの女とは可能な限り関わり合いたくないのだ。
となれば警察の面倒になるような行為は可能な限り避けなければならない。
では肝心の食料はどう確保したらいいのだろうか。
川べりに生えている草の中から食べられるものを探せばよいのだろうか? あるいは川エビだか川魚だかを捕まえて食べればいいのだろうか? 知識のない私にはどうしていいか分からない。
さらには仮にそれで食料が確保できたとしても、肝心の炭水化物が確保できなければどのみちジリ貧となってしまう。
あるいはコンビニや飲食店の廃棄を狙って漁りに行けばいいのだろうか?
コンビニなどの廃棄は、ある時期を境に扱いが大変厳しくなって手に入らなくなったような話を聞いた事がある。
それに、仮に廃棄を確保できる飲食店があったとして、そもそもそれがどこにあるかすら分からない。
とにかく食料のあてが全くない。
浮浪者の人達はどうやって食料を確保しているのだろう?
今まで自分とは無縁と考え見て見ぬふりをしてきた路上生活者たち。
改めて自分が同じ立場になってみて初めてよく分かる。こんな状況で毎日の食事を確保できる彼らはすごい。
そんなとりとめのない事をぼんやりと考えていると、一人の浮浪者がこちらに近づいてくるのが目に入った。
先ほど脇を通ったときに目が合った、髪の真っ白な老人だった。
老人は私の前までやってくると、座り込む私を見下ろすようにして声を発した。
「ここは坊主のような奴が来るところじゃねぇぞ?」
ドスを効かせた声。けれども妙に甲高い声質のおじいさんのそれは迫力がなく、さして怖いとも感じられなかった。
じっとりと睨み返しながらも返事をする。
「……ほかに行く場所がありません。」
「親はどうした?」
「……親から逃げてきました。」
「家出か?」
この質問に私はカチンときた。これは思春期の子供がちょっと家出してみたような生易しい話ではない。私は本気で逃げ出そうとしたのだ。
「あいつのそばにいると殺されます。死にたくないので逃げてきました。」
「そうか。」老人はそう呟いてから後ろを向き、そのまま立ち去ろうとした。
「……あのっ!」私は声を上げていた。いや違う、これは『篤史くん』だ。『篤史くん』がこの身体の主導権を握り、老人に向かって声を上げたのだ。
どうしたの? 『篤史くん』。
私には『篤史くん』の意図がさっぱり分からなかった。
『篤史くん』は言葉を続ける。
「あのっ! おじいさんはご飯はどうしているんですか?」
老人は立ち止まり、ゆっくりと振り返りこちらをじろりと睨みつけてくる。
『篤史くん』はそんな老人の目に恐ろしい印象を受けているようだが、不思議と私にはこれっぽっちも怖いとは思わなかった。
老人がゆっくりとした口調で口を開く。
「……まあ、色々だ。」
なんとも要領を得ないぼんやりとした回答に私はがっくりとなる。いや、私達はその『色々』の中身が知りたいのだが。
「……坊主は食い物がねぇのか?」老人が逆に質問をしてくる。
私が返事を吟味する前に、『篤史くん』が勝手に答えてしまう。
「そうなんです。お金をスられてしまって、小銭が230円しかありません。とりあえず食パンか何かを買ってくれば数日は何とかなりそうです。その先どうしていいか分からないんです。」
ばかっ! 『篤史くん』っ! この人は敵か味方か分からないんだから内情をべらべら話しちゃだめだろう!
何より所持金の話をしては駄目だ! 例え数百円でも、お金を持っていると分かったら盗まれたり暴力にあったりするかもしれないんだぞ!
だが『篤史くん』はそんな私の罵倒もどこ吹く風で、ニコニコと老人に向かって笑いかける。
「……そうか。」老人は少し困ったふうの表情になってそう呟いてから、そのまま踵を返していなくなってしまった。
なんだったんだ、あの爺さん。
老人が消えた柱の先を睨むようにしてしばらく見つめていると、程なくして彼は戻ってきた。手にはタオルやらなんやらの色々を抱えていた。
再びやってきた老人は手に持った菓子パンを突き出すようにして渡してきて、「食え。」ぶっきらぼうな口調でそう言った。
私としては胡散臭い浮浪者の老人の用意する食事などは危なっかしくて手に取るのも嫌だったのだが、残念ながら今この身体の主導権は『篤史くん』が握っている。
『篤史くん』は感激した様子でこれを受け取ると、「ありがとうございます。」と頭を下げると、その場で袋を開けてパクリと口にした。
賞味期限が切れたクリームパンは、思いのほか甘くてとてもおいしく感じられた。
さらには渡されたタオルで身体を拭くように指示される。
タオルは思いのほか清潔でふかふかだった。天日で干した衣類に特有のお日様の匂いに自然と涙があふれてきて、あっという間に目の前がぼやけて見えなくなってしまった。
老人はそんな私達をじっと見つめてくる。
老人のどろりとした濁った瞳が、不思議と優しいもののように思えてきた。
こうして私達は路上生活者のシゲさんと仲良くなった。




