12.別に強くもならないけどセーブしたところからコンティニュー
ハッとなって目覚めると、目の前には義母が鬼の形相で立っていた。
私は激しく混乱した。何故なら今日は私の一人暮らしの自宅に義母が乗り込んできたまさにその日だと認識している自分がいて、先ほどまさに衰弱死したであろう生々しい記憶も同じく私の中にあって、いったい今自分がどこで何をしているのかがさっぱり分からなかったからだ。
先ほどまでのあれはなんだったのだ!?
予知夢!? 死に戻り!? それとももっと別の何か!?
だがじっくりと考えている余裕はなかった。
義母が手を大きく振りかぶって、こちらにそれを振るってきたのだ。
そうだ! あの時私の身体は『篤史くん』に自由を奪われて、その篤史くんが抵抗しなかったせいで私はあの張り手を食らい、鼻血が止まらなくなったのだ。
けれどもあの時と今とで決定的に違うことがある。
今は私の身体が動く!
私は素早く身体を横に動かすと、目の前を義母の張り手が空を切って空振りしていった。
鍛えてもいない女性の非力な暴力だ。充分に注意していればいくらでも躱すことが出来る。
「……あなた!」声を上げようとする義母の機先を制して、私は大声を張り上げる。
「お前なんて大嫌いだ!」
義母が怯んだ。
私は畳みかけるようにして今までのうっ憤をぶつけてやる。
「お前なんて母親じゃない! お前なんて大っ嫌いだ!」
「……な!」義母が唖然とした顔になる。そりゃあそうだろう。『篤史くん』がずっと心のうちに秘めていた想いを、今初めてこいつにぶつけてやるのだから。
『篤史くん』がこいつを今までどう思っていたのか、この女は今初めて知るのだから。
「ぼくはお前がずっと前から大っ嫌いだった! 機嫌のいいときは何でも押し付けて! 機嫌が悪ければ理不尽な命令ばかりをしてきて! お前のどこが母親なんだ! お前はぼくの敵だ! ぼくの人生を滅茶苦茶にする悪い奴だ! だからぼくは逃げ出したんだ!」
義母は声にならない声を上げ、口をパクパクとさせている。
だがこんなものでは『篤史くん』の心の叫びは収まらない。もっと言いたいことがあるのだ。もっとこの女にぶつけたいのだ。
「ぼくはお前が大っ嫌いだ! お前なんて母親じゃない! お前なんて死んじゃえ!」
その時だった。騒ぎを気にしたのか、隣の住人がガチャリとドアを開けて、一瞬顔を覗かせてきた。
義母の斜め後ろの扉で、音に驚いた義母は思わずといったていで振り返ってしまう。
隣人も驚いて、すぐに扉を閉じてしまった。
今がチャンスだ!
私はそう判断し、首だけ振り返ったままの義母の脇を通り抜け、一挙に階段を駆け足で飛び降りる。
「待ちなさい!」
声を上げて追いすがってくる義母の物音が背後から聞こえるが、誰が待ってやるものか!
そのままダッシュで通りを駆け抜け、一気に先へと進んでやる。
ちらりと振り返ってみたところ、義母は何やら地べたに倒れこむようにしてうずくまっていた。
どうやら慌てて追いかけようとして転んだらしい。いい気味だ!
後はわき目も振らず、とにかく闇雲に走れるだけ走って、少しでも遠くへと逃げてやった。
犯人は必ず現場に戻ってくるなどとドラマなどでは言ったりするが、私は別に悪い事をしたつもりもないので、あの家に戻るつもりはいっさいない。
また、本来であればこのまま仕事に向かうところだが、どうやって義母が我々の住処を特定したか定かでない以上、このまま職場に向かうリスクも大きすぎる。
残念ながら新居にも仕事先にももう二度と近寄ることが出来なくなってしまった。
幸いにして財布もスマホも持った状態で飛び出したので、差し当って必要なものは全て持ち合わせている。
ただ、あまりにも突然の事だったので全く戦略が練れておらず、この先どうすればいいか全く思いつかない。
まずホテルの宿泊は難しい。未成年は保護者の同意確認が必要になることがあるからだ。確認不要な宿泊施設を探すのは知識や経験のない私ではすぐには思いつかない。
それよりもすぐに頭に浮かぶのがネットカフェだ。ネカフェ難民などといった言葉がすっかり定着した現代において、住所不定者のとりあえずの仮宿としてこれほど心強い場所はないだろう。
しかしここでも未成年者の壁が邪魔になる。我々のいる東京都では身分証明必須となり、その上で未成年となると深夜帯の利用が制限されたりと使い勝手が悪くなる。
※注:東京都では2010年より都条例によってネットカフェ利用時の身分証明確認が必須となりました。
そこで私としては、身分確認の緩い他県へと移動することを考えなければならない。今の地域から考えると、具体的には北上して荒川を渡り埼玉へと向かうことになる。
よし、まずは北へ向かおう。
当面の目的が定まった私は、埼玉方面へと向かっててくてくと大通りを北へと歩き出した。
移動の途中、歩きスマホで埼玉県内の身分証不要のネットカフェを物色していると、突如NETが繋がらなくなった。
アンテナマークは出ているのに、右上に「通信サービスがありません」と出て反応がなくなったのだ。
あれれと思い電源入れ直しやSIMカードの脱着をしてみたが直らない。
機内モードON、OFFやモバイルデータ通信の設定を見直しても変わらない。
すわ大規模障害か!? と辺りを見回しても周りの誰も慌てている様子はない。
小一時間ほども悩みながら移動している最中、たまたま道路わきに公衆電話が見つかったので試しに自分の端末に掛けてみた。
「お架けになった電話は現在使われておりません……」
私の顔面から血の気が引いていくのが感じられた。
これは解約されたときのガイダンスだ。
私の携帯電話の契約は解約されたのだ。
※注:Androidスマホの解約時の挙動はこれであっているはず……!? 違っていたらゴメンなさい。あと、即時解約の際の情報反映が30分くらいとすぐだったような覚えがあるんだけど、これも潤覚えなので間違ってたらすみません。
何故!? どうして!?
理由はさっぱり分からなかったが、こんな事をしてくる相手についてははすぐに思い至った。
義母が何かをしたのだ!
あの女! どういうつもりだ! 畜生っ!
だが、怒りはすぐに不安へと取って代わった。携帯電話を解約してくるような女だ。次に義母がどんな手を打ってくるかまるで想像もつかない。
私が今されて一番困ることはなんだ!?
真っ先に打つべき手はなんだ!?
私はすぐさまコンビニに駆け込んだ。
そして、コンビニATMを操作して、残高いっぱいの現金を全額引き下ろした。
普段は手数料が馬鹿馬鹿しいのでコンビニATMなど絶対に使わないのだが、今は一刻も争う状況だ。
法定代理人である義母にそこまでの権限があるとは考えづらいが、万に一つでも銀行口座を押さえられてはこの先目も当てられない。
幸い今日は給料日からそれほど日が経っていない。少ない給料から少しづつ積み立てて貯金した金額と合わせ、24万円程度の現金を確保する。
この24万円は命をつなぐための今後の貴重な生命線だ。
一銭たりとも無駄には出来ない。
このお金が尽きる前に私はなにがしかの収入源を得て、新たな生活基盤を築き上げねばならないのだ。
だがさっぱり思いつかない。
こういう時はあくせくしても仕方がない。まずは腹いっぱい食べる事だ。
私は目についた牛丼チェーン店に入って、がつがつと大盛り牛丼とサラダのセットをかっ込む。
もしかしたらこれが最後の贅沢な食事かもしれないが、私にとってはなじみのある安っぽい牛肉のぼそぼそした食感が、却って精神を安定させてくれた。
セミプロクラスの料理人である『篤史くん』には申し訳ないが、この手のジャンクフードが私にとってはかけがえのないソウルフードなのだ。
人心地ついた私は当初の目的通り、身分証不要のマンガ喫茶にたどり着き、NETも出来る個人ブースをパック料金で契約しパソコンにかじりつく。
今の私が真っ先に探すべきはすぐに手に入る現金収入だ。
その為の手段をNETを通じて得なければならない。
私は適当にぽちぽちとアルバイト情報サイトなどをななめよみしながら、この先の戦略を考えてみる。
例えば年齢詐称、経歴詐称をした履歴書片手に適当な派遣業に登録して、バレずに短期のコールセンターなどの業務にもぐりこめないだろうか?
あるいは今どき流行りのウーバーイーツというのか? 配達のバイトなどは出来ないだろうか?
だがこれらの仕事を得るには、とにもかくにも携帯電話がないと話にならない。
連絡先の電話番号がないとNETを通じてエントリすら出来ないのだ。SMS二段階認証などといったちょっとした確認手続きが行く手を阻み、そもそもの登録手続きすらままならない。
※補足:SMS認証ってソーシャルエンジニアリングの格好の餌食にされたりと色々問題も多いですが、それなりに充分強力な実在確認手続きだと個人的には思います。利用者確認には使えるけど、実在証明にするにはさすがに危険って印象?
それでは例えば、日雇い労働で仕事をあっせんしてくれるようなものはないだろうか?
地方の温泉旅館などはどうだったろうか? いわくありげな人間を匿ってくれる飲食店などはどこかにないものだろうか? パチンコ店はどうだったか?
このあたりのアンダーグラウンド気味な情報は、私には知識も経験も伝手もないのでそもそもの想像もつかない。
あるいはこの「売り子」「出し子」といった仕事はどうなのだ? SNSなどを通じて募集している胡散臭い仕事。いまいち中身が見えてこないがどう見ても非合法だろう。とてもリスクが高いように見える。ダメださっぱり分からない。
いっそのこと可愛い『篤史くん』の顔と身体を武器に、新宿二丁目あたりに体一つで乗り込むか?
思わず浮かんだ悪魔の妄想に、私はぶるぶると首を横に振った。
これは最悪の選択だ。この身体は私一人のものではないのだ。『篤史くん』の心と身体に傷をつけるような選択は可能な限り避けなければならない。
つくづく義母が携帯電話を解約してしまったことがクリティカルに私を苦しめる。
携帯電話さえあればもう少し仕事の選びようもあった。それすらない現状では、本当に打つ手が限られてしまう。
義母も考えてやったことではないだろうが、動物的嗅覚で私が困りそうな事を狙ってきているに違いない。
本当に腹立たしい!
怒りで脳味噌が沸騰しそうになった私は、慌てて深呼吸をして心を落ち着かせる。
ダメだ。これ以上考えてもよいアイディアが浮かばない。
幸いにして今手元にはそれなりのまとまった額のお金があるから、すぐに結論を出さずとも何日かは考える余裕が作れる。
今日はもうこのまま仮眠を取ってしまおう。
今日は本当にいろいろありすぎた。今朝方の私は杏奈ちゃんのことで頭がいっぱいで、なかなか寝付けずに殆ど徹夜で朝を迎えたのに、奇妙な白昼夢を経て義母と直接対決し、気が付けば荒川を越えて見知らぬネットカフェの一室で一晩を明かそうとしている。
まさに『篤史くん』のもっとも長い一日だ。
どこか興奮した脳味噌がぐるぐると頭の片隅で動き回っており、今日もあまり眠れないかもしれないと思ったが、身体を横たえると自然と睡魔が襲ってきて、いつの間にか私の意識は黒く塗りつぶされていく。
カタっという小さな音を聞いたような気がした。
気のせいかと思ったが、妙に胸騒ぎがした私はゆっくりと目を空ける。
時刻はまだ深夜の2時過ぎを回ったところ。目を閉じてから3時間程しか経っていない。
なんとなく嫌な予感がした。
テーブルの上に何気なく置いただけの財布の位置が、妙にずれている気がしたのだ。
もっと端の方に置いていたはずなのに、なんだか妙に中央に移動しているような……。
私は恐る恐る財布を手に取り、中を改めてみて愕然とした。
財布の中からは、奇麗に札束だけが空になっていた。小銭やカードなどは残っていたが、それだけだった。
私はなにものかに財布の中身をスられたのだ。
頭が真っ白になった。
私は何度も財布を空けたり閉じたりした。これは夢の続きではないのか? 私が目を覚ますと財布の中にはお金が入っているのではないか?
だが何度確認しても現実は変わらなかった。ほとんど寝ていないにもかかわらず目はばっちりと冴えていて、これが夢ではないことを全身が教えてくれた。
わたしは振り返り、ネカフェの個室の入口部分を見る。
簡単な鍵が付いたドアだが、肝心の鍵がかかっていなかった。昨日は鍵などには注意していたはずだが、睡魔に襲われる直前に喉が渇いてフリードリンクを取りに行き、そこから先の記憶があいまいになっていた。恐らく最後の最後で鍵をかけずに寝入ってしまったのだ。
どうして財布をポケットの中にしまったままにしなかったのだ。
リクライニングシートを倒して眠る直前に、札束に膨らんだ財布が尻に当たるのが嫌で、半ば無意識のうちに取り出して机の上に放ったのだ。
昨日は最初から徹夜明けだったし、本当にいろいろあって疲れていたから……。
そんな言い訳をしたところで何か問題が解決するわけでもない。
こんな場末のマンガ喫茶の危険性の高さについて、『篤史くん』ではない私は昔から充分に分かっていたはずなのに……。
だが肝心の昨日になって忘れていたのは完全に私の手落ちだった。
畜生! なんでこんな事になった!
私は大声で叫びたい気持ちを懸命に抑える。
それでともかく何か出来ることはないか頭を巡らせる。
片っ端からブースを叩いてまわって、怪しい奴を一人づつ詰めてやろうか!?
いやダメだ。騒ぎを起こして疑われるのは私の方だし、だいたいそもそもあれだけの大金を手にした犯人なら、すぐにでも逃げ出してもうこのネカフェにいない可能性の方が高い。
ネカフェの店員に相談してなんとかしてもらうか?
いやダメだ。店員ごときに何か手が打てるわけでもないし、仮に店の責任を訴えてもすげなくあしらわれるのが関の山だ。だってあちこちに書いてある。「店内での盗難に当店は一切関与しません。貴重品はご自身で管理ください。」とかなんとか。
警察を呼ぶか?
いやダメだ。そもそも今の私は義母から逃げ回っている身の上だぞ。今さら警察を呼んで義母に連絡を取られてしまったらそれこそ本末転倒だ。
クソっ!
泣き寝入り……、するしかないのか?
なにか起死回生の逆転劇があるんじゃないのか?
針の穴に糸を通すような思いがけない方法が……。
そんなもの、あるわけがなかった。
ぐにゃり。
私は世界がいびつにゆがんでいくのをただただ見守るしかなかった。
なんだこれ。
マンガみたいな表現が現実におこるんだ。へぇーっ。長い人生の中でもこんなの初めて経験した。
へぇーっ。
「は、は、は、は、は……。」
ここまでショッキングな出来事が立て続けに起こると、人はただただ笑うくらいしかできなくなる。
「は、は、は、は、は……。」
『篤史くん』の心の声も、今は何にも聞こえなかった。彼もまた、ショックのあまり何も考えられなくなっているに違いなかった。
「は、は、は、は、は……。」
涙で前が見えない。
私は今、どこで何をしているんだろう。
私はたった一晩で無一文になってしまった。
何故、義母の菜穂子さんが篤史くんの住所を知ることが出来たかについて、念のため補足説明をいたします。
それは、携帯電話の「個人情報開示申請書」です。
まず篤史くんは「5話」にて菜穂子さんに携帯電話の番号と契約キャリアがバレてしまいました。
その上で「8話」にて携帯電話の請求先情報のみ、念のためという事で新居に変えてしまいました。
あとは菜穂子さんが法定代理人の権限を持って携帯電話会社に情報開示の申請をしてしまえば、請求先に設定された住所がバレてしまうという流れになります。
この問題を防ぐためには、例えば篤史くんが携帯電話番号を変えてしまう、契約者住所も変えてしまう、あるいはリスクはあるものの請求先住所を変えずにおく、といったひと工夫があればバレずに済んだ可能性は高いと思われます。
ただ、家を出ることに成功して気が緩んでいた『私』は、そこまで気が回らずに隙を作ってしまったという悲しい裏事情となります。
どのみち1年後くらいには扶養を外れる手続きのために義母と対決しなければならなかった『私』は、その時には新居の住所などもバレてしまう可能性が高いので、あんまり深く考えていなかったのです(扶養が外れたタイミングでさらにもう一回引っ越そうなどと考えてました)。
対する菜穂子さんは篤史くんの携帯電話の番号から携帯会社にしつこく連絡をして執念で情報開示の方法を聞き出し、請求先情報のみ変更していることに気付けた為に乗り込んできた、という設定になっております。
また、スマホの解約をしたのも逃げ出した篤史くんに対して頭に血が上っての腹いせ行為となっております。
このあたりの駆け引きについてドラマに組み込めないかなぁと、ちょっとした推理小説のノリでトリックを設計していたのですが、話の流れ的に上手く使うチャンスがなさそうなので欄外でしれっとばらしてしまいます。




