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11.バッドエンディング

あまりに突然の事だった。


どうして義母がここにいる!?


いや今はそれを考えている余裕はない!


ともかく今すぐ逃げ出すんだ!!


ところがこれがどうにもならなかった。私の身体は一歩も動けなくなっていたのだ。

動け、動け! と心の中で声を上げる私に対し、肝心の身体はいっさいのコントロールを失ってしまい、声を上げることも出来ずその場に立ち尽くすしかできなかった。


鬼の形相で睨みつけてくる義母は、そんな私に向かって手を振り上げると、思いっきり顔をひっぱたいてきた。

身体の軽い『篤史くん』はよろめき、そのまま壁に肩をぶつけてしまう。


叩かれたところがじんじん痛んだ。私ではなく『篤史くん』が身体を動かし、頬に手を当てるとどろりとした液体が指に掛かった。

当たり所が悪かったのか、『篤史くん』は鼻血が出ており、それが滴って指に絡んだのだ。


義母はそんな『篤史くん』を慮る様子もなく、さらに手を上げ二度、三度と『篤史くん』の顔や頭などを平手で打ち据えてくる。


「勝手な事をして……!」


チラリと見えた義母の顔は嗜虐的な表情で醜く歪んでいた。

不細工なその顔を見た私の感想は「半年間でずいぶん老け込んだな」といった程度のもので、特に怖いといった印象はなかった。

『篤史くん』も似たり寄ったりの感想のようだったが、特に反抗しようという意志もなく義母に嬲られるがままとなっていた。


私はいっさいの身体の自由がきかずに混乱した。つい先ほどまでこの身体は私が好きなように動かすことが出来たはずなのに、今は全く動かせなくなっていた。

いつの間にか『篤史くん』が主導権を握っていて、けれども肝心の『篤史くん』は身じろぎもせず、ただ義母の暴力に耐えている。


そうこうしているうちに義母は暴力には満足したのか、荒い息をしながら「いいから来なさい!」などと声を上げながらも『篤史くん』の手を掴み、引っ張るようにしてその場から連れ出そうとする。

私は抵抗しようとしたが身体は動かず、『篤史くん』は為されるがまま義母に従うようにしてついていくばかりだった。


外に連れ出される途中、隣の家のドアが少しだけ空いているのが見えて、大学生の男が隙間からこちらを覗いている様子に気付いた。

騒ぎが気になって様子を伺っていたのだろう。

一瞬、「助けてくれ」と声を張り上げようかといった考えがよぎったが、恐らくそれをしても彼は助けてはくれないだろう。

場末のワンルームアパートのお隣さんなんてその程度の間柄なのだ。



アパートの外の道路には、義母の車が停められていた。

真っ赤なオープンのツーシーター。

三人家族なのに二人乗りの車ってどうなんだ……。

ある意味義母を象徴するようなマイカーだ。


久々に見た赤い色のそれは、どこかでぶつけたようで角が思いっきりへこんでいた。


義母と義姉の仲が良かったころはこの車に乗って二人でよく出掛けていた。

『篤史くん』が家を出るすこし前には、義母から「ドライブに行かないか」と何度か誘われたこともあったが、気持ちが悪かった私は何かと理由をつけて全て断っていた。


そんな悪い印象しかないこの車の助手席に無理やり押し込められる『篤史くん』。始めて乗ったこの車は想像通りの気持ちの悪いにおいがした。


ろくにシートベルトも閉めさせてもらえぬまま、乱暴な義母の運転によって荒々しく発進する車。

どこかでパトカーにでもすれ違えば異様な雰囲気を察して助けてくれるかもしれない、私はそんな淡い期待を抱いたが、当然望みはかなうはずもない。


私の家から実家までは車で15分もかからない場所にある。せいぜい同じ市内の端と端程度の距離なのだ。

あっという間に実家に辿りついてしまった。

もっと遠くに引っ越せばよかった。私は今さらながらに後悔を覚えた。



引きずられるようにして戻ってきたかつての我が家はびっくりするほど汚くなっていた。


郵便受けには大量の郵便物が突き刺さっており、いくつかは入りきらずに地面に散乱していた。

庭は雑草がぼうぼうに生い茂っており、半年の間全く手入れされていない様子が伺い知れた。


玄関を開けるとその先はもっとひどい事になっていた。

ろくにゴミ出しもしてこなかったのだろう。やれ弁当ガラやら缶ビールやらペットボトルやら割りばしやら、半年分のゴミがあちこちに散乱していた。

それらの一部は腐っているのか、すえた生ごみの臭いにおいが充満しており、たくさんのコバエがあちこちを徘徊していた。


リビングの奥の窓ガラスの一部は割れていて、そよ風に揺れるカーテンは雨水にさらされたせいか、一部が茶色く変色していた。


さらには煙の匂いが充満していた。『篤史くん』にはなじみのない匂いだったが私にはすぐに分かった。たばこのにおいだ。

私は一時期喫煙をしていた時期があるから、とてもなじみのある匂いだった。以前の菜穂子さんは煙草を吸っていた様子はなかったが、恐らく私と同じく元喫煙者だったのだろう。ストレスが溜まって少しばかり自暴自棄になり、再びタバコに手を出したといったところか。

かなり追い詰められている義母の様子が伺い知れる室内だった。


いかに義母の生活能力がないかが露呈した瞬間だった。

『篤史くん』がいないだけで、こんなにも汚く生活してしまう。

いかにこの崩壊した偽家族が『篤史くん』に寄りかかって生きていたかを逆説的に証明している。

だがちっとも嬉しい話ではない。義母や義姉がまっとうな生活能力のない生活破綻者であることは私からすれば最初から分かっている事だった。


ただ、『篤史くん』にとって思い入れのある大切な実家がこんなふうに汚されている事実だけが物悲しく感じられた。


私達はそのまま奥の寝室に引きずられた。かつて父と義母が二人で寝ていたダブルベッドはそのままに、すっかりくたびれて染みなどがついていた。

義母は片手で『篤史くん』の手首を掴んだまま、枕元にある引き出しを荒々しく開けると、中から手錠を取り出し、そのまま『篤史くん』の腕に掛けた。

さらには反対をベッドのフレームにかけて固定してしまう。


どうして手錠なんてものが夫婦の寝室にあるのか考えるのはよそう。かつての義母と亡父の性生活についてあれこれ言うのは野暮というものだ。

けれども結果として、『篤史くん』はベッドに括りつけられてしまい、身動きが取れなくなってしまった。


「あなたはそこで反省していなさい!」義母は悲鳴のような怒鳴り声を上げ、そのまま大股で部屋の外へと出て行ってしまった。


気持ちの悪い義母の香水のにおいと、染みついたタバコのにおいと、サイドテーブルに積み上げられた缶ビールから立ち上るアルコールのにおいと、吐き気しかしない気持ちが悪いにおいしかしない部屋の中で、ただただ私はベッドの上で身体を横たえているしかない。


『篤史くん』の身体はいっさいの自由がきかない。

私がいくら「動け!」と念じても微動だにしない。


『篤史くん』に主導権を握られてしまった私は、どうすることも出来ずにじっとしていることしかできない。


うすぼんやりとだが、『篤史くん』の心情が伝わってきた。

『篤史くん』は満足してしまったのだ。私と二人で逃げ延びたたった半年のおままごとみたいな二人で一人暮らしに満足してしまい、もう十分だと考えてしまったのだ。

それであの日義母が私達の家に現れた瞬間、全てをあきらめてしまった。

再び義母に捕まった後は、どんな酷い目に遭ってでもすべて従おうと考えてしまった。

だから『篤史くん』は私から主導権を奪い返した。

そして逆らわず、ただただ義母の言いなりになってついてきた。


その結果が今のこの状態だった。


なんだこれは!

なんでこんな事になっているのだ!


だが私がいくら声を張り上げても、『篤史くん』は何もしようとはしなかった。


杏奈ちゃんの事はいいのか!?

私達は杏奈ちゃんと仲良くなるのではなかったのか!?


けれども『篤史くん』は力なく首を横に振るばかりで、やはり何もしようとはしなかった。


ふざけるな!

ふざけるな!

ふざけるな!


それでも『篤史くん』はなにもしようとはしなかった。


『篤史くん』の心の中を支配するのは罪悪感だった。義母や義姉を差し置いて自分だけが幸せになることに対する申し訳ない気持ち。

本当は『篤史くん』は義母や義姉も含めてみんなが幸せになれる方法を模索しなければいけなかったのでは?

それが自分だけ楽をしようとして一人で逃げ出した結果、この家はこんなにボロボロになってしまった。

『篤史くん』の心の中には大きな後悔の念が渦巻いている。


ぼくが間違えた。ぼくが何とかしなければならなかった。僕が頑張らなければいけなかった。ぼくが。ぼくが。


そんなバカな話があるか!

人間は一人ひとりがそれぞれに幸せになる権利を持っているんだ。少なくとも日本という国では、憲法においてそれが保証されているんだ。

それが何故、『篤史くん』が幸せになることが問題になるんだ。

だいたい『篤史くん』と義母や義姉は別々の人間なのだ。彼女達自身の幸せは彼女達が自分で探すものだ。

君が代わりに努力して何とかしなければならないものじゃないんだ。

『篤史くん』は自分自身の幸せだけを望んでいいんだ。


だからバカな考えに囚われるのはやめて、今すぐここから逃げ出す知恵を絞るんだ!


だが『篤史くん』に私の声は届かない。

全てをあきらめた『篤史くん』は自分だけの心の殻に閉じこもってしまい、私の語り掛けを弾いてしまう。


ただ後悔と懺悔と諦観と悲観に溺れるようにして、じっと身体を横にするばかりだった。



そんな『篤史くん』だったが喉の渇きだけはどうしようもなかった。

カラカラになった喉を癒すため、かなりの間迷って、それからサイドテーブルの上に散乱する缶ビールを手に取り、中に残った液体を口に含んだ。


次の瞬間に『篤史くん』は吐き出した。

義母は缶ビールの中にタバコの灰を落としていたのだ。灰皿を用意するのも面倒になったダメ人間がよくやる所業だ。

そんな劇物を口に含んでしまった『篤史くん』はゲーゲーと吐いた。

このころには今朝方食べた朝食は殆ど消化が済んでいたのか、粘っこい唾液のようなものしか出なかったが、とにかく何度もえずいた。


さらには猛烈な排泄感が襲ってきた。『篤史くん』は懸命に耐え、何十分も苦しんだ末、最後はこらえきれずに脱糞した。

複雑な感情に襲われた『篤史くん』はボロボロと泣き出した。

けれどもしばらくして、涙も枯れて感情が擦り切れていった。


後はただただじっと横たわったまま、ぼんやりと天井を睨みつけるばかりだった。


夜になっても義母は帰ってこなかった。


『篤史くん』は湧き起こる喉の渇きと飢えに苦しみながら、ただひたすらにじっと耐え続けた。


次の日になっても、その次の日になっても義母は帰ってこなかった。


2階には義姉がまだいるらしく、ときおり物音がして一階へ降りてくる気配があるのだが、彼女は義母の寝室へは近寄ろうともせず、大抵は家の外へ出て行ってしまい、しばらくすると帰ってくる。

そんな義姉が一度だけふらりと寝室の方までやってきたことがあった。


ベッドに括りつけられた『篤史くん』と義姉の目が合う。

たった半年の間で、彼女はブクブクに太っていた。顔にも吹き出物が浮き上がっており、さらさらストレートの長い黒髪がなければ誰だか分からなかった程の変わりようだった。


何日も風呂にも入っていないのだろう、ベタベタした黒髪の間から覗く義姉の目はどろりと濁っていた。

『篤史くん』と彼女はかなり長い間、お互いに見つめ合った。


共に義母に振り回され、人生をおかしくしてしまった被害者同士。けれども私は義姉に同情する気になどなれない。だからといってバカにする気にもなれない。


しばらくして、義姉はのそのそと部屋の外へと出ていった。

そののち、彼女がこの部屋にやってくることは二度となかった。

これが『篤史くん』と義姉がお互いに顔を合わせる、文字通り最後の瞬間となった。

お互いに共に暮らしていたころにはそれなりに確執もあったものだが、すべてが終わってしまえばあっさりとしたものであった。

『篤史くん』と彼女は最後まで姉弟になることはなかったのだ。



それからさらに時間は過ぎてゆく。

静まり返る部屋の中で、『篤史くん』は身じろぎもせずただただベッドの上で天井を見上げている。


今日が何日目だかも分からない。

垂れ流しの小便や大便がパンツの中で蒸れてかぶれてジュクジュクと痛んだが、どうすることも出来ずにじっとしている以外に他にない。


食べ物どころか水もなく、一歩も動けない『篤史くん』の身体からは急速にエネルギーが失われていく感触があった。


命の灯火は消えかかり、このまま自分が死ぬのだとどうしようもなく実感させられた。


コバエが耳元を飛んでいる。

『篤史くん』のことを餌だとでも思っているのだろうか?

まだ早い。まだ『篤史くん』は生きている。

けれどもそれも時間の問題であるように思えた。


「おおゆうしゃよ。しんでしまうとはなさけない。」


どこかで茶化すような声を聞いた気がした。


おい馬鹿、クソ野郎! テメー他人事だと思ってバカにしてるのか!?

てめぇが神様だったとしても私はぜってー許さないからな!

よしんば私の事を悪く言う分にはいくらでも構わねーけど、『篤史くん』の事を馬鹿にするのだけはぜってー許さねーからな!!


私の叫び声もむなしく、意識はゆっくりとブラックアウトしていった。



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