第36話「氷壁の抱擁、溶け出す境界線」
寒い吹雪の夜が過ぎると、また朝が来た。
石造りの壁の隙間から差し込む、刺すような、けれどどこか祝福に満ちた光に、私はゆっくりと目を開けた。
視界のすべてを占めているのは、昨日まで見慣れていたはずの、けれど今は世界で一番愛おしい、セドの穏やかな寝顔。
……重い。
最初に感じたのは、自分の体を包み込む、逃れられないほどの確かな重みと熱だった。
セドの逞しい腕が私の腰を深く抱き寄せ、彼の胸に私の顔が埋まっている。
規則正しい、穏やかな寝息が、私の頭上から聞こえてきた。
「……っ……ぁ……」
昨夜の記憶が、温かな陽だまりのように脳内に広がっていく。
生きるための、仕立て屋としての合理的な密着。
不快な恒温布の性質を逆手に取った、体温の共有。
……そんな数々の「理屈」という名の防寒着が、今のこの、あまりにも平穏で、幸福な安らぎの中では、すべて心地よく脱ぎ捨てられていた。
私は、腕の中のセドをそっと見上げた。
いつもは嫌味なほど自信満々で、隙あらば皮肉を言ってくる彼の唇が、今は驚くほど優しく結ばれている。昨日までの険しさが嘘のように、そこには凪のような平穏だけがあった。
……バカ。
心の中でだけ、そう呟いた。
あんなに「はずかしい」という言葉一つで、この温かさを拒んできた自分たちが、本当におかしくて、愛おしい。
「……起きたか」
不意に、頭の上から低く、柔らかな声が響いた。
セドはいつの間にか目を開けていた。けれど、そこにはいつもの意地悪な光はなく、ただ私を慈しむような、深い深いサファイアの輝きだけがあった。
「……お、起きてたのね」
「ああ。……お前の鼓動が、ずっと俺の胸に響いてたからな。……心地よくて、ずっと離したくなかった」
セドはそう言うと、私の頬に添えた手に、そっと力を込めた。
皮肉も、毒舌も、もうどこにもない。
ただ、一人の男が、心から愛する女を抱きしめている、剥き出しの真実だけがそこにあった。
「……ねえ、セド。……私、昨日のこと……」
「何も言うな。……全部、わかっている」
セドが、私の言葉を遮るように、私の額に優しく唇を寄せた。
その感触があまりにも温かくて、私の視界は不意に涙で滲んだ。
「……こんなに、心地よい行為を。……今までずっと、……意地を張って、……避けてきたなんて。……本当に、バカみたいね、私たち」
セドが、小さく笑った。
その振動が、私の肌を通じて、魂の奥まで優しく響き渡る。
「……ああ。……本当だな。……だが、……ようやく辿り着いた。……この熱に」
セドの手が、私の髪を、指先で愛おしむように何度も梳いた。
「……なあ、エル。……家に、帰ったらさ」
セドの瞳が、朝日に照らされて、宝石よりも深く、優しく私を射抜く。
「……もっと、あたたかくて。……もっと,優しくて。……お前が、最高に幸せだと思える場所で。……絶対、おなじこと、しよう」
その言葉に、私は彼を抱きしめる腕に力を込めた。
「……ええ。……約束よ、セド」
それは、生きるための「救命措置」ではない。
吹雪に追い詰められた「偶然」でもない。
王都での「偽装結婚」という演技でもない。
ただ、心から愛おしい相手と、共にありたいと願う。
人間として、あまりにも自然で、美しい誓い。
「……もっと、……最高にすてきな夜に。……絶対、おなじこと、してよね」
「……当たり前だ。……最高のドレスを仕立てる以上に、魂込めてやるよ。……楽しみにしてろ、エル」
私たちは、狭いベッドの中で、最後にもう一度だけ強く抱きしめ合った。
それは、過去のすべての嘘と、すべての意地を、完全に溶かし切るための抱擁だった。
外に出ると、世界は昨日までの狂気が嘘のように、透き通った静寂に包まれていた。
雲一つない、深いブルーの空。
太陽の光を浴びて、氷の山は、無数のクリスタルを散りばめたように美しく輝いている。
私の胸元に忍ばせていた、エターナルバイオレット。
二人の熱に当てられたその紫の花は、吹雪の中でも凍ることなく、今まで見たこともないほど鮮やかに、命の輝きを放っていた。
「……行こう。……みんな、待ってるわ」
「……ああ。……行こう、俺たちの『本当の人生』へ」
セドが、自然な動作で私の手を握った。
手袋越しではない、素肌の熱。
下山の足取りは、驚くほど軽かった。
二人の歩幅は、示し合わせたわけでもないのに、完璧に揃っていた。
それは、仕立て屋として同じ型紙を追い求めてきたからではない。
一つの長い夜を越え、お互いの鼓動のリズムを、誰よりも深く知り合ってしまったからだと、私は確信していた。
山麓の拠点が見えてきた時。
真っ先に飛び出してきたのは、煤だらけの顔にゴーグルを乗せたルネだった。
「二人ともー!! 生きてるー!? 爆発的な熱源を感知したわよー!」
その後ろから、バルドが安堵の溜息をつきながら歩いてくる。
「やれやれ。俺の愛の歌が届いたのかな。……いい顔してるじゃないか、二人とも」
そして、最後尾。
ガストンさんが、腕を組み、不機嫌そうに、けれどその瞳の奥には隠しきれない安堵と喜びの色を浮かべて、私たちを待っていた。
「……ふん。……遅かったじゃないか。……花は、どうした」
私は、胸元からエターナルバイオレットを取り出し、ガストンさんの前に掲げた。
不滅の紫。
私たちの熱が、命が、この花を咲かせ続けたのだ。
ガストンさんはその花をじっと見つめ、それから私たちの顔を、一人ずつ値踏みするように見た。
「……。……いい顔になったじゃないか」
ガストンさんは小さく鼻を鳴らし、踵を返した。
「……ようやく、『職人』から『人間』になったか。……ノルン行きの準備をしろ。……氷の王子様が、首を長くして待ってやがる」
私たちは、顔を見合わせて笑った。
昨日までの「偽装」という不自然な歩幅は、もうどこにもない。
並んで歩く二人の足取りは、驚くほど自然に、完璧に揃っていた。
私たちは、本当の「夫婦」として。
最強の布陣とともに、氷の国へと、新しい、そして最高の旅立ちへと一歩を踏み出した。




