第35話「氷壁の抱擁、山小屋の熱帯夜」
突如として、世界から色彩が剥ぎ取られた。
視界は暴力的な白一色に染まり、猛烈な吹雪が、私たちの耳から「方向」という感覚を無慈悲に削ぎ落としていく。
「……くそっ! 来やがったな、ノルンの洗礼が!」
セドの叫び声が、至近距離にいるはずなのに、風の咆哮に掻き消されそうになる。彼は迷わずに私の腕を掴んだ。その手は、厚手の革手袋越しでもわかるほど、激しく、小刻みに震えていた。
「……セド! どこに行くの?」
「……すぐ近くに、避難小屋があるはずだ! この視界じゃ、一歩でも踏み外せば崖下だぜ。……来い、エル! 俺を信じろ!」
氷の礫が頬を叩き、呼吸さえままならない。私の纏う「恒温布のドレス」は、驚くほど完璧に私の体温を繭のように守り続けていた。けれど、ドレスで覆われていないセドの体温が、急速に、無慈悲に奪われていくのが、繋いだ手を通じて呪いのように伝わってくる。
「……あったぞ! こっちだ!」
セドが、雪に埋もれかけた木の扉を力任せに蹴破った。転がり込むように中へ入り、扉を閉める。一瞬で、風の音が遠ざかり、重苦しい、耳鳴りがするほどの静寂が室内を支配した。
そこは、石造りの、あまりにも狭い避難小屋だった。窓はなく、壁の隙間から微かな雪が粉のように降り込んでいる。部屋の隅にある唯一の設備――粗末な木枠の上に、使い古された毛布が一枚だけ敷かれた、小さなベッド。大人一人が横たわれば、もうそれだけで隙間がなくなるような、窮屈な、けれど今の私たちには唯一の聖域。
カチ、カチ、と乾いた音が聞こえてきた。セドだった。彼は冷え切った床に膝をつき、肩を激しく上下させていた。歯の根が合わず、全身が痙攣するように震えている。そのサファイアのような瞳が、焦点も定まらないまま白く濁っていくのを見て、私の胸の奥が、氷が割れるような音を立てた。
「……セ,セド……大丈夫? しっかりして!」
私は慌てて彼の側に駆け寄り、その肩を抱き寄せた。
「……あ、あ、ああ。……大したこと、な……い。……ちょっと,表面が……冷えた,だけだ……」
強がっているが、彼の指先は死人のように青白く、唇の色は完全に失われていた。
「……バカね。あんた,私ばっかり守って……」
私は、自分の胸元の熱を確認した。恒温布のドレスは、今も私の体温を過剰なまでに保持している。これを――彼に、分けなければ。
「……セド。あのベッドに、横になって。私の……その、ドレスの熱を、あんたに『転写』するわ。これは、仕立て屋としての、合理的な……救命措置よ」
私は、自分の声が情けないほど上擦っているのを自覚した。もはや抵抗する力も残っていないセドを、半ば引きずるようにしてベッドへと押し込んだ。そして――私は、震える指で自分のドレスのサイドにある「呼吸するプリーツ」の調整紐を、最大まで、乱暴に緩めた。
ベッドの端に腰を下ろす。それだけで、私の心臓は、吹雪の音さえ掻き消すほどの狂おしい音を立て始めた。
「……エル。……お前、……何を……」
「……黙って。……あんた、このままじゃ死ぬのよ。……私も、一人で生きて帰りたくない。……だから、これは……ただの、協力よ」
私は、セドが横たわる、わずかな隙間に潜り込んだ。
一つの薄い毛布の下。セドの冷え切った体が、ドレスの薄い布地一枚を挟んで、私の右半身に密着した。氷の塊を抱きしめているような冷たさに、私は思わず、掠れた吐息を漏らした。
「……っ……ぁ……」
ドレスのプリーツから漏れ出した私の体温が、セドの纏う冷気と混ざり合い、毛布の中に、むせ返るような濃密な熱気を生み出していく。
「……セド、……こっち,向いて」
消え入るような声で言うと、セドがゆっくりと、私のほうへ体を引き寄せた。
暗闇の中でも、彼の長い睫毛が震えているのがわかる。
私は、勇気を出して、彼の冷たい胸元に腕を回した。ギュッと、彼の震えを止めるように、力いっぱい抱きしめる。
ドクン。
セドの大きな心臓の音が、私の胸に、骨を通じてダイレクトに響く。
ドクン。
それに呼応するように、私の心臓も、狂ったような速さで跳ね始めた。
どちらの鼓動か、もうわからない。
「……あったけえ……。……エル、お前……」
セドの掠れた声が、私の首筋に、直接、湿った熱を持って吹きかかる。その吐息に、私の背筋を甘い戦慄が駆け抜けた。私は、恥ずかしさのあまり彼の胸に顔を埋めるしかなかった。
「……言ったでしょ。……効率的な、熱循環よ……。……それ以上、喋らないで……。はずかしくて、死んじゃうから……」
セドの冷え切っていた大きな手が、無意識に、私の腰を引き寄せた。グイ、と強く引き寄せられ、私たちの体は、もう一分一厘の隙間もなく、溶け合うように重なり合う。
セドの逞しい胸板の厚み。男らしい、骨太な肩の感触。そして、太ももの間に感じる、逃れられないほどの、切実で暴力的なまでの熱。
今まで「偽装」だと言い聞かせてきたはずの、自分の理性が、ドロドロに溶けて、足元から崩れ去っていくのがわかった。
「……エル。……お前、……顔,……真っ赤だぞ」
「……見ないでよ。……暗いんだから、見えるわけないでしょ。……バカ、セドのバカ」
私は、彼の胸を小さな拳でポカポカと叩いた。けれど、その力は自分でも驚くほど弱く、むしろ彼を求めているような、熱い縋りつきになってしまっていた。
セドが、小さく、喉の奥で笑った。その振動が、私の肌を通じて、脳の奥まで痺れるように伝わってくる。
「……そうだな。……暗くて、何も見えねえよ。……悪くない。……お前の鼓動が,……うるさくて、……全部、筒抜けだぜ」
セドが、ゆっくりと顔を上げた。サファイアのような瞳が、暗闇の中で潤み、烈火のような熱を帯びて私を射抜いていた。その指先が、私の頬を、慈しむように、そっとなぞる。もう、冷たさは微塵もなかった。
私は、その熱に吸い寄せられるように、自分でも無意識のうちに彼の腕の中に顔を埋め直した。
沈黙。外の風の音が、遠い世界の出来事のように聞こえる。
「……ねえ、セド?」
裁は、自分の心臓が少しだけ落ち着いたのを見計らって、掠れた声で彼を呼んだ。
「……わかっている。……そうだね。……バカみたいだね、わたしたち」
私は、自分の熱をすべて彼に預けるように、さらに深く彼にしがみついた。
「……こんなに、心地よい行為を。……ずっと、……『はずかしい』って、それだけの理由で。……ためらってきたなんて」
セドが、先ほどまでの震える呼吸を整え、穏やかで、そして深く安心したような声で応えた。
「……ああ、わかっている」
セドは私の髪を、指先で愛おしむように、幾度も梳いた。
「……そうだね、バカみたいだね」
彼は、私の後頭部を大きな手で包み込み、自分の胸へと優しく、けれど抗えない力強さで押し当てた。
「……でも、……ようやく、……この『心地よさ』に辿り着いたんだ。……もう、……離さないぜ、エル」
私は、ぎゅっと目を閉じた。恥ずかしさは、もう消えなかった。でも、それを隠す必要も、もうないのだと思えた。
胸元に忍ばせた、エターナルバイオレット。不滅の紫の花が、私たちの重なり合う熱と、ようやく素直になった二人の魂に当てられて、暗闇の中で妖しく、一つに溶け合う鼓動のリズムを刻んでいた。
吹雪の山小屋。
それは、二人の偽装という仮面を雪の底に捨て去り、ただの男と女として。この上なく「心地よい」真実を、ただひたすらに、夜が明けるまで抱き締め続けるための、密室だった。
外の風の音が、私たちの荒い吐息に掻き消されていく。
ドレスのプリーツが奏でる微かな衣擦れの音が、静寂の中で誰よりも雄弁に、私たちの「本当の想い」を語り続けていた。
ああ、神様。
もしこれが、寒さが見せた幻だとしても。
この熱だけは、どうか、夜が明けても奪わないで。
私は、自分自身のすべてを彼に委ねるように、熱い闇の中へと沈んでいった。




