第7話 家庭教師の驚愕と冷たい父
また一つ年が明け、私の体は7歳になる。
異母弟のアレクシスも4歳になり、伯爵家の跡取りとしての教育が本格的に始まることになった。
そのためにセレスティア様が王都から招いたのが、気難しさで知られる老学者ロバート先生だった。
「リゼット何ぼーっとしているの。ロバート先生のお茶のお代わりと、勉強部屋の前の廊下掃除をしなさい。 先生の邪魔をしたら承知しないわよ」
「はい、わかりました」
私はいつものように深く頭を下げ、お茶の載ったトレイを持って二階の執務室へと向かう。
部屋のドアは少し開け放たれていた。
中からは、アレクシスの退屈そうな声と、ロバート先生の厳格な講義の声が漏れ聞こえてる。
「アレクシス様、我がアルスター伯爵領の主な産物と、隣国との交易路についてもう一度お答えください」
「お花と石」
「違います。我が領地の特産は鉄鉱石と羊毛です」
ため息をつく先生とぐずる4歳のアレクシス。
私はノックをして部屋に入り、恭しくお茶のカップをテーブルに置いた。
頭を低くし、徹底して気配の薄い雑用係の子供を演じた。
「アレクシス様、古代語で書かれた初級詩集の冒頭を読んでみなさい」
「むり、ヘビみたいな文字よめないもん。もうやだお菓子たべる」
机の上の本を叩き、わがままを言い始めた。
先生は頭を抱え。
「4歳とはいえ、先が思いやられますな」
重い吐息をつく。
私はお茶のトレイを抱え、静かに部屋を出ようとした。
その去り際、ちらりと目に入った。
前世の二十歳の頭脳と、物置書庫で貪るように読み漁った知識が瞬時に結びつく。
私は何気なく、独り言のように呟いた。
「陽光あふれる丘に風が吹き抜けるですね」
「なに」
先生が弾かれたように顔を上げる。その目が驚愕で見開かれていた。
「何と言った。お前、この古代帝国方言が読めるのか」
あまりにも自然に頭に入ってきたために、うっかり口に出てしまった。
私は困ったような、幼い表情を作りおどおどと身を縮めた。
「あの書庫の掃除をするときに、絵本みたいに文字を眺めていたらそう聞こえた気がして」
「なんとなくで読めるはずがなかろう。 貴様、名前は誰に文字を習った」
先生が興奮気味に立ち上がり、私に詰め寄ろうとしたその時。
「ロバート先生。どうかされましたの」
優雅で冷ややかな声とともに、廊下からセレスティア様が姿を現した。
先生の様子と、そこに佇むボロボロの服を着た私を見て、露骨に不快そうに目を細めた。
「リゼット。あなたのような卑しい者が、アレクシスの学びの場を汚して何をしているのです。さっさと下がりなさい」
「申し訳ございません、セレスティア様」
私は深々と頭を下げ、怯えた振りをしながら退室する。
背後でロバート先生が。
「セレスティア様、いまの少女は」
何か言おうとしていたが、セレスティア様の。
「ただの雑用係の戯言ですわ」
という冷たい一言にかき消されていく。
あたたかな部屋を後にして、冷たい廊下を進んでいると、重々しい靴音が近づいてきた。
豪奢なコートを羽織った厳格そうな男性。
屋敷の主人であり、私の実の父親であるアルスター伯爵だ。
めったに三階や裏庭に来ない彼と顔を合わせるのは、実に数年ぶりのことだった。
私はすぐに立ち止まり、壁際に寄って深く頭を下げる。
伯爵は私の前で一瞬だけ足を止める。
鋭い視線が、ボロボロの服を着て痩せた私の姿を頭から足元まで見下した。
娘に対する愛おしさや情など欠片もなかった。
あるのは、まるで邪魔な置き物や見知らぬ召使いを見るような、冷淡で無関心な色だけだった。
伯爵は一言も発することなく、短く鼻を鳴らすと、私を存在しないかのように無視して通り過ぎていく。
父親の重々しい靴音が廊下の奥へと消えて行った。
私は深く下げていた頭をゆっくりと上げ、静かに息を吐き出す。
実の父親からの、冷たく無関心な視線。
前世で20年の人生を生きた私にとっては、想定通りの反応に過ぎない。
私は手にした雑巾を固く絞ると、冷たい石畳の床に膝をつき、黙々と床拭きを再開した。
雑巾を滑らせるたび、冷気が膝から伝わってくる。
7歳なら、父親に無視されたショックと冷たい労働で声を上げて泣き出している。
けれど、私は顔色ひとつ変えず、一定のテンポで手を動かし続ける。
誰も見ていないことを確認して、指先からほんの僅かにエメラルドグリーンの光を滲ませる。
魔法の光を帯びた雑巾は、力を入れずとも滑るように床の汚れを吸い上げ、拭いた先からピカピカに輝いていく。
冷たかった手足の指先に微かな温もりが巡り疲れを和らげていった。
「あら、まだそんなところでトロトロ拭いているの」
侍女の不機嫌そうな声が響く。
手際よく綺麗になっていく床を見て一瞬驚いた顔をしたものの、嫌味な笑みを浮かべて見下ろしてきた。
「手だけは早いみたいだけど、もっと奥の隅までしっかり磨きなさいよ。見落としがあったら夕飯抜きなんだからね」
「はい。すみませんすぐに綺麗にします」
私はおびえたように肩を少しすくめ、頷いて頭を下げた。
徹底的なおとなしく従順な子供の演技。
反発すれば意地悪がエスカレートし、セレスティア様や伯爵の目に余計な形で留まってしまう。
従順で扱いやすい雑用係として影を潜めることこそ、冷酷な伯爵邸で身を守る最大の武器なのだ。
侍女が鼻を鳴らして去っていくのを確認して私は再び静かに床を拭き始めた。
どれだけ冷たい視線を向けられようと、過重な労働を押し付けられようと関係ない。
雑巾を握りしめる手に魔法の温もりを感じ、私は冷たい屋敷の片隅で、静かに賢く生き抜いていくことを改めて心に誓った。




