第4話 泥水と深夜の灯台
「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまったわ」
嫌な音とともに、泥と埃で黒く濁った水が床一面に広がった。
私が小さく華奢な手で何時間もかけてピカピカに磨き上げた三階の廊下。
侍女がニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべながら空のバケツを手に立っていた。
「まあ、大変。せっかく綺麗にしたのに台無しね。もう一度最初から拭き直しなさいよ。お嬢様」
白々しい言葉とドブネズミを見るような蔑みの視線。
理不尽な意地悪の裏に誰がいるのかは、言われなくてもわかっている。
奥様セレスティア様のあの子に余計な暇を与えないように、という暗黙の指図だ。
前世が20歳の大人の私は、取り乱して泣くことも怒鳴ることもしない。
ただ、感情を完全に殺しおびえたように小さく頭を下げた。
「はい、すぐにやり直します」
「要領の悪い子」
侍女は嘲笑を残して去っていった。
一人残された廊下で私は静かに吐息をつく。
誰もいないことを確認して指先から小さなエメラルドグリーンの光の球を呼び出す。
光の球が水たまりへ飛び込むと、泥水は一瞬で澄んだ水へと変わり、雑巾へと吸い込まれるように集まっていく。
魔法のおかげで、絶望的な拭き直しもほんの数分で元通りになった。
意地悪はそれだけでは終わらない。
「廊下が終わったら一階の銀器磨き」
「次は厨房の皿洗いと裏庭の薪拾い」
次から次へと押し付けられる終わりのない労働。
一階の広間、湿っぽい厨房、凍えそうな裏庭。
普通の5歳なら倒れているような作業量だ。
私は従順でおとなしい子供を演じ続け、隙を見ては魔法で体の負担を和らげ黙々と仕事をこなした。
そんな労働の中、私が唯一息をつけるのは、二階の奥にある使われていない物置兼書庫の掃除を命じられた時だけだ。
掃除のフリをしながら、棚に並ぶ古書を手にとる。
『初級生活魔法の理論』
『アルスター伯爵領の歴史と地理』
前世の20歳の集中力でページをめくり、この世界の知識を貪るように頭へ叩き込んでいった。
自分の持つ無詠唱でイメージ通りに発動する魔法がこの世界では特殊であることも知った。
だが、知識に浸れるのも束の間。
次の仕事を呼びつけられ、休む間もなく働き続けた。
全ての雑用を終え、体のきしみと悲鳴を上げる足を引きずって屋根裏部屋へと戻る頃は、深夜を回っていた。
「はあ、さすがに疲れたわね」
灰色の光すら差さない真っ暗で冷え切った屋根裏部屋。
泥のように疲れ切った体を固いわらのベッドに横たえ息を吐いた。
ふんわりとあたたかく、静かに両手を広げると、指先からふたつの光の球が生まれた。
光の球は私を労わるように周りをクルクルとまわると、部屋の隅へ移動してあたたかな明かりを灯してくれる。
冷たいベッドに温もりの魔法を染み込ませると、じわじわと温かさが身体を包み込み疲れで強ばっていた体が解けていく。
温かく揺れる光を見つめながら、私はそっと目を閉じた。
どれだけ仕事を押しつけられようと、意地悪をされようと、冷たい目を向けられようと、絶対に折れない。
蓄えた知識と手に入れた魔法の力を胸に冷たい屋敷の片隅で、賢くしぶとく生き抜いてみせる。
小さな手に残る魔法の余韻を感じながら、私は静かに深い眠りにつく。




