第2話 腐ったスープと小さな奇跡
まずは、目の前の危機からね。
私はテーブルの上を見つめた。
木皿の中の濁ったスープからはツンとする微かな酸臭が漂い、カチカチに乾燥した黒パンはまるで木切れのようだ。
病室でチューブに繋がれ流された物を思い出せば、自分で噛んで飲み込める食べ物があるだけマシと言いたいところだが、腐りかけた料理をお腹に入れれば5歳の小さな体は腹痛で命を落としかねない
私は屋根裏部屋の中を見回す。
傾いた天窓の下、埃を被った古い本棚。
床の隅には破れた布切れや、壊れた家具の破片が積み上げられている。
その中から、比較的綺麗な小さな木製のスプーンとボロボロになった分厚い本を一冊見つけた。
革表紙の表題には、見慣れない複雑な文字が躍っている。
不思議なことに読める。
『アルスター伯爵家略系図』
アルスターこの屋敷の家の名前なの、記憶の奥底から、この身体の元々の持ち主の記憶が浮かんできた。
私の名前は、リゼット・アルスター、伯爵家の側室の子。
頭を振って記憶を整理する。
正妻でセレスティアという女性に男児が生まれたことで、側室の子供であったリゼットと母親は不要となった。
母親は数年前に病死し、遺された5歳のリゼットはこの屋根裏部屋に押し込められ、使用人たちからも不要品として冷遇されているだ。
なるほど典型的な邪魔者扱いね。
溜息をつき、スープに視線を戻す。
名前と立場はわかった。
だが、優先事項はお腹を満たすことだ。
スープの水面をじっと見つめる。
前世の病院で、何にもできない自分に苛立ちながらもっと体が自由に動けば健康になればと強く願っていた感覚。
切実な思いを、手元のスープへと集中させる。
身体の奥底、みぞおちのあたりがじわじわと温かい熱が沸き起こった。
その熱が腕を通って指先へと溢れ出た瞬間に
ポン、静かな音とともに手のひらの上に小さな淡いエメラルドグリーンの光の球が生まれた。
何これ、驚きに目を見張る私をあざ笑うかのように光の球は楽しそうに宙へ躍りだす。
私の頭の周りを、肩の周りをクルクルと軽やかに回転し始める。
生きて意思を持っているかのように、私の周りを可愛らしく舞い踊り、あたたかな光の尾を引いていた。
綺麗、前世の無機質な病室では決して見ることのできなかった、もしかしたら魔法の光なのかしら。
見とれていると、光の球は私の周りをクルクルとまわった後に手元のスープへ飛び込んで弾けた。
小さな泡が立ち、ツンとしていた不快な酸臭が急速に消えていく。
濁っていた液体は透き通った黄金色のコンソメスープのような色合いへと変わった。
私の魔法なの、目を丸くしながら恐る恐るスプーンでひとくち掬い口に運ぶ。
ほんのりと野菜の甘みが広がり、冷えていたお腹の底がじんわりと温まる。
黒パンもスープに浸せば柔らかくなり、美味しく食べることができた。
食べ終えた木皿を眺めながら、自分の小さな両手をまじまじと見つめ、魔法が存在する世界なんだと実感した。
病気でベッドから動けなかった前世では奇跡なんて起きなかった。
この世界では、私自身の手で奇跡を起こせる。
自分の周りをまわっていたあの光のあたたかさが手のひらにまだ残っていた。
冷たい正妻も、私を蔑む使用人たちも関係ないわ。
お腹を満たし頬にほんのりと朱が差した。
この力を使って、絶対にこのお屋敷を脱出して自由に生きてやるんだから、暗く寒い屋根裏部屋に、力強い誓いが響いた。




