第9話「軋む馬車と不釣り合いな境界線」
数日後の早朝。
東の山際に朱色の陽が差し込み始める。
宿の板敷きを踏む足音が等間隔で鳴り、古びた階段をエルインが降りてくる。
いつも通りの薄手の衣服だ。
少し寝ぐせのついた前髪を気にすることもなく、食堂の小さなテーブルへと腰を下ろした。
周囲には木箱やいくつかの鞄が積まれており、出発前の微かな騒がしさが漂っている。
セリアが宿の壁際に立てかけた自身の革製のカバンを引き寄せ、少し硬い動作でその結び目を確かめていた。
先の魔物の大群の襲撃後、辺境の街にあるいくつかの外部機能が停止し、物資の補給や確認のために彼らも隣の大きな商業都市への買い出しに同行することとなっていた。
名目は街の長からの依頼による護衛の手伝いだが、実態としてはほとんど物見遊山の延長線上で組み込まれた行程だ。
外に出て乗り込んだのは、六頭立ての頑丈な荷馬車。
エルインが開け放たれた後方の荷台に少し足を投げ出すようにして座る。
彼の横ではすでに特等席を確保したかのように、ラピスが干し肉を抱え込んだまま丸まって惰眠を決め込もうとしている。
セリアはその対面、わずかに傾いた木箱の上に薄い布を敷き、背筋を伸ばして腰掛けていた。
馬車の車輪が音を立てて回り始め、石畳の区画から外の土道へと降りたときだった。
ガクンと車体が左後方に大きく傾斜する。
轍に刻まれた深い泥濘に後輪が滑り込んだ反作用で、木枠が耳障りなきしみを上げた。
セリアの体が放物線を描くように、前のめりに押し出される。
とっさに手を伸ばそうとした先には、無防備に足を崩していたエルインの膝があった。
「あ……」
声が漏れる前に彼女の手首を掴んで止めるでもなく、ただ差し向かいで座っていたエルインが、わずかに足首の関節を内側へ折り曲げた。
その瞬間。
馬車の車軸へかかる数トンの引力と地面の抵抗係数が、エルインの足先のわずかな筋力変化によって空間ごと固定された。
セリアの体は不自然なほどぴたりとその場で推力を削がれた。
彼女の下で軋んでいた木の波板すら、音もなく水平な一枚に戻っている。
エルインの手元は膝の上に遊ばせたまま、彼の重心すら変わっていない。
「悪い。少し泥濘が残っていたらしい」
前方の御者から聞こえてきた謝罪の言葉に、エルインはただ気のない短い返事だけを投げた。
「問題ない」
セリアは自分の中空で固定されたような不自然な体勢のまま、目をまばたかせた。
転倒の恐怖より先に、空気に生じた理不尽なまでの停滞への違和感が彼女の皮膚をなでる。
彼にとっては手をつなぐ必要すらもないのだという途方もない能力の隔絶が、透明な壁として彼女の指先に当たった。
一回だけ小さくまばたきをしてから、彼女は自力で姿勢を起こし直す。
「……ありがとうございます。少し油断していました」
セリアの言葉の中心部では、助けてもらったという安心感よりも自身がただ彼という引力に振り回されている事実を再確認した苦さが漂っていた。
その細かな声階のブレにエルインが気づくことはない。
彼はただ吹いてきた風に合わせて自身の薄い上着の襟を右手で軽く押さえただけだ。
『今日は少しだけ道が荒れているかもしれない』
彼が考えたのはただ車輪の木材の劣化度合いについてであり、先の物理的な空間跳躍に関してなど小脇に置いてあるただの日常機能の一部だ。
景色の中に広がる荒れた平原が単調に流れていくのを眺めながら、エルインは小さなくびれを描く街道の先へ視線を下ろした。
木材の隙間から入り込む陽光だけが、二人の全く交わらない認識のずれの上に等しく落ちていた。
◆ ◆ ◆
陽が高く上り、馬車が一面の枯草が広がる原野の中央付近で休憩を挟むため停車したときだ。
御者が馬に水を与える間、エルインは数歩だけ街道から逸れた草むらを歩いていた。
乾燥した茎が踏まれるたびに単調な破裂音を上げている。
少し離れて後ろをついてきていたセリアは、日傘を持たずに細い指で陽射しを避けていた。
急な無言の同行が互いの境界を少しだけ曖昧にしているが、相変わらず言葉数は少ない。
前方のわずかに隆起した丘の裏側で、突如として空気が異質に冷えた。
エルインはほんの少しだけ歩幅を狭める。
微細な砂埃が地面をなめるように円を描いて巻き上がっていた。
本来ならこのあたりの魔物の出現帯ではないはずだが、空間の裂け目のような暗紫色の歪みが突如として地表近くで旋回を始めている。
遠方で死んだ魔素が局地的に凝縮し、歪んだ残留物として結晶化した次元の歪みが、彼らの歩む先をことごとく遮断していた。




