第10話「微弱な境界と灰のエーテル」
暗紫色の歪みから吐き出される風が、草の一本一本から生気を奪うように枯れ落ちさせていく。
その直径数メートルの淀みは生き物としての形を持たず、ただそこにあるだけで周囲の命を飲み込む引力を見せていた。
セリアの足元が硬直し、彼女の心拍数が耳の奥で高い脈動を打ち始める。
彼女の中にある知識が、目の前の現象の輪郭を恐怖として結び付けた。
空間ごと破綻した特大の呪縛地帯。
触れれば物理装甲の意味を為さずに、そのまま魂ごと侵食される自然現象の墓標のような代物。
軍の一部隊が丸ごと巻き込まれ、砂だけを残して消滅したという古文書の記述が、血の退いた彼女の思考内で再生される。
だが、エルインの歩調は一切変化しなかった。
彼にとってそれは、ただ道の真ん中で砂が奇妙な渦を巻いているようにしか見えない。
『なんだか煙たいな』
彼の心の中には、目に入る少しの埃よけの意味合いしかなかった。
エルインは右手の手のひらを軽く前方に向け、何かを払うような動作で手首を内側から外側へ振った。
魔力を使った詠唱など存在しない。
ただの動作だ。
彼本人が認識しているのは、前を歩く際の視界の確保だけだ。
彼の手のひらから放たれた極限まで薄まった大地の引力のごとき質量が、前方の中空を断ち割った。
ガラスが割れるように呼び覚まされた高い軋みの直後。
不可侵の領域を誇っていたはずの空間の歪みが、その薄い一枚の衝撃によって真横から二つに切断された。
内部に内包されていた数万の怨念や魔力が反発する暇すら与えられず、形を崩して灰色の細かいエーテルの粉へと変換され地に落ちる。
草を枯らせていた空気の冷たさが瞬時に散らされ、元の太陽の温度が風に乗って戻ってきた。
セリアは自身の胸元を押さえながら、膝をつくのをこらえるように小さな息を吐いた。
恐怖ですくむより先に事象が消去される光景。
これならばまだ、自分の目に映る暴風として感じられた方が精神的な理解が付いたかもしれない。
彼の不可干渉の力は、一切の手応えを持たないまま世界から結果だけを奪っていく。
その孤独で無自覚な暴力性が彼女の皮膚をかすめ、かすかな震えとなって肩甲骨の裏側を這い回る。
エルインは灰のように舞い落ちる細かな砂埃を避けようと、もう一度だけ軽く顔の前で手を振り、再び一定のペースで歩き始めた。
数歩ほど遅れたまま、セリアは歩きなれない起伏を越えて彼の細い背中を追跡する。
「あなたは……怖いものは無いのですか」
唐突な問いだった。
恐怖を乗り越えようとした質問ではなく、彼という空のマントルを探る手のような低い調子の声音。
エルインは足を止めずに肩越しに視界を少し戻した。
「別に。何かあるのか」
予想通り何も掴めない木で鼻をくくったような響きに、セリアの唇がごくわずかに固く結ばれる。
無自覚な強者に弱者の感覚を説くことの無意味さ。
彼女は自分の歩幅が、これから先どれだけ追いつこうとも決してこの青年と同じ土台で足を下ろせる日は来ないのだと理解させられ続けていた。
ラピスがのしのしと草をかき分けて後方から歩いてくるのが見える。
彼女は小さな灰の山を足の指先で突いてから、特に興味もないといった様子でエルインのズボンの端に自分の頭を擦りつけて位置を保った。
人間の言語機能すら持たない精霊竜の方が、この青年との歩調を無理なく合わせてしまえる。
セリアは自分の手が届かない場所にある歪な安堵感を彼らの背中に見た。
馬車への帰途、誰一人として特記事項を持たないような静かな道のりだけが消化されていく。
彼の中での世界の規模と、自分の中で広がる世界の規模。
そのどうしようもない埋まらない体積の違いを一つ一つ皮膚感覚として溜め込みながら、彼女は視線を下にし、少し乾いた草を踏む己の足音にだけ集中して歩き続ける。




