第11話「鉄の門と歩道の窪み」
昼を過ぎた頃、馬車は商業都市の分厚い城壁の前に設けられた検問所へ辿り着いた。
数日前の魔物大移動の余波からか、石造りの門の周辺には物々しい武装をした都市衛兵が集められ、出入りする荷馬車の底板までを槍の柄で念入りに叩いて検査を行っている。
金属の触れ合う乾いた音が、乾燥した風に乗って幾度も断続的に鼓膜を打った。
エルインは馬車の列が止まるなり、早々に木板から飛び降りて背伸びをした。
首の後ろで手を組み、凝り固まった肩の関節を軽く回すだけで小さな風切音がこぼれるのを、彼は自身の加減の難しさだと勘違いしたまま押しとどめている。
ラピスはといえばすでに馬車から降りていて、衛兵が荷降ろし用に積んでいる樽の隙間へ勝手に頭を突っ込み、匂いを嗅ごうとして甲高い声で衛兵に怒気交じりの声を浴びせられていた。
その後ろで、セリアが少し固い面持ちで日傘を整えながら馬車から降りてくる。
貴族としての教養が染み込んでいる彼女の目には、この異常なまでの厳戒態勢が通常のものでないことはすぐに理解できた。
門の横に立てかけられた掲示板に、薄汚れた数枚の羊皮紙が乱雑に画鋲で留められている。
最近頻発している空間異常による微少な迷宮化現象への注意喚起。
それらは外部への脅威として商業路をジワジワと侵食し、この巨大な城塞都市の内側すら警戒の対象へ巻き込もうとしていた。
「少し、空気がピリピリしていますね」
セリアが荷台から下ろした革鞄の端を握りながら小声で言う。
エルインは彼女の方へ軽く顔を向けるだけで、特別に視線を下ろすこともなく門の方へ歩き出した。
『日差しが少しあるから、人がイライラしているんだろう』
彼の中にある認識回路は徹底して平熱だ。
エルインにとっては剣を抜き放ち威嚇し合う兵士たちの気配も、彼から言わせればただの混雑による苛立ちの類に過ぎない。
事実、彼がその場に数歩近づいただけで、衛兵たちの武器を持つ手にまとわりついていた極度の緊張や不毛な敵対心は、微弱にだが着実に薄められていく。
彼の存在する領域そのものがもつ莫大な純化領域が、ただの歩幅とともに周囲の人心すら無意識の平穏へと書き換えているのだ。
剣の柄を強く握っていた兵が、なぜか急に肩の力を抜き、わずかなあくびを漏らし始める。
エルインは無造作に順番を待つ人の列へ並ぼうとした。
しかし、そのすぐ脇にあった石畳の縁から、唐突に黒い油のような小規模の歪みが地表へと滲み出す。
それは先日の平原でセリアが目撃した墓標と同種の異常であり、商業都市のような巨大な結界の中にすら根を下しかけた破綻の初期症状だ。
周囲の商人たちがその気味の悪い黒い染みに気づき、悲鳴を上げる前に足を引きずって後退する。
衛兵が反射的に槍を構えたが、異常現象の膨張速度はその場を飲み込むほどに早急であり、誰もが思考の空白に落ちる。
エルインは列へ入ろうと進めた右足のつま先で、偶然にもその黒い染みのちょうど真上を踏み抜いた。
少しだけ体重をかけ、靴底を路面の凹凸へ擦りつける動作。
黒い波の表面が大きく破裂しようとする直前、彼の上からかかった途方もない質量による抑圧が、歪みそのものをただの泥水として踏みつぶした。
現象が物理的に発動する前に、その存在論的根拠から靴底一つで潰し切られてしまった。
プツッ、という水たまりをただ踏んだような音がしただけだった。
エルインは足元をチラリと見る。
「……なんだ。まだ泥濘が残っているのか」
彼が靴底の裏側を別の石畳へ軽く擦りつけて汚れを払い落とそうとしているのを見て、衛兵も悲鳴を上げかけた商人も、自分たちの目からあの黒い影が一瞬にして消えた理由を理解できないでいた。
ただの幻だったのかと、拍子抜けの空気が伝播する。
セリアだけが、冷や汗で自分の背中を冷やしながら、あの破壊を無防備に体現する青年の恐ろしい靴先をじっと見つめていた。
これだけで強大な事象すらも書き換えられる暴力的な平穏。
自分がこれから共にするかもしれないこの日々が、どれだけ薄氷の上に組まれた不釣り合いなものなのか、彼女は革鞄を握り返して沈黙する。
◆ ◆ ◆
検問を無事に通過した頃、市街中心部では活気に満ちたざわめきが広がっていた。
赤黒いレンガで敷き詰められた大通りの両脇に、金属部品やら反物やらを所狭しと積み上げた屋台が並んでいる。
エルインは人混みを避けるでもなく、ラピスを適当に放置したままセリアと共に長靴用の留め金や冬越しの布地などを確認するため路地を行く。
セリアから渡された羊皮紙の買い物リストには、街からの公用物品の名前がずらずらと羅列されていた。
エルインはそれを片手でふらふらと揺らす。
「とりあえずこのへんの店からか」
軽い口調で一番近い金物屋へ足を向ける。




