第8話「沈黙の杯と温度の違い」
夕闇が空の朱色を奪い尽くす。
木樽の影が夜の闇に溶け込んでいった。
セリアは静かに息を吐き出す。
丸太のベンチの冷たい木目を指先でなぞった。
隣ではエルインが一定の間隔で生の野菜をかじっている。
セリアの胸に渦巻く畏怖の念は、いまだ形をなさないまま燻っていた。
「……あの男たちは、どうなるのでしょうね」
震えそうになる声を喉の奥で押さえ込む。
セリアはエルインへと問いを放り投げた。
戦意も生気も失ったガルヴェスたち。
彼らが泥水に顔を伏せ続けていた異様な光景が、目を閉じても鮮明に蘇ってくる。
エルインは手に残っていた野菜を口へ放り込んだ。
顎を規則的に動かし、ゆっくりと喉の奥へ流し込む。
特有の緩慢な動作で、エルインがセリアへと顔を向けた。
だがその視線の焦点は、セリアの背後に広がる暗闇の一点へと抜けている。
『なんだっけ。少し昔の知り合いのような気もしたけど』
エルインの記憶の中で、過去に出会った男たちの顔は風化した壁画のようにすり減っていた。
もはや判別すらつかない。
自身の規格外な力が周囲をどう狂わせ、どのような破滅を招いたのか。
そうした因果の帰結に向き合う機能自体が、エルインには欠落している。
「好きにすればいいんじゃないか」
重さのない言葉がぽつりと落ちた。
冷水を浴びせられたように、セリアの唇が微かに引きつる。
憎しみに駆られて復讐を果たしたというのなら、まだ人間味がある。
エルインは他者の生死すら意のままにできる超越的な力を持ちながら、そこに何の理由も目的も抱いていない。
その事実を、セリアは背筋がゾクッとするような感覚とともに理解した。
横にある木枠の扉が軋んだ音を立てて開く。
ぼんやりとした小さな影が一つ、外へ飛び出してきた。
人の姿をとったラピスだ。
厨房での食事を存分に満喫したのだろう。
厨房の女性から譲り受けたらしい木のジョッキを、小さな両手で大事そうに抱え込んでいる。
中には温かい羊の乳がなみなみと注がれていた。
ラピスは足取りを左右に揺らしながら、エルインの膝元を目指して真っ直ぐに突進していく。
エルインはその突撃を避ける素振りも見せない。
わずかに腰の重心をずらす。
自身の大腿部にラピスが全体重を預けてくるのを、無言のまま受け入れた。
「こぼすなよ。服が汚れる」
平坦で起伏のない声色。
しかし、その語尾にはほんのわずかな熱が混じっていた。
それを耳にした途端、セリアの指先がピクリと跳ねる。
銀のカトラリーが皿の端を擦ったときのような、かすかな痛痒さがセリアの喉元を通り過ぎた。
世界の理不尽をすべて等価に破壊し尽くす男。
そんなエルインが、ただの『ペット』として拾った精霊竜に対してだけは、人間の青年に近い日常の手触りを与えている。
セリアはこれまで、自分がエルインに抱いていた恐怖や圧倒的な距離感の原因は、彼の実力そのものにあると思い込んでいた。
だが、そうではないのだと気づく。
自分もまた、エルインから見ればガルヴェスと同じように道端の石ころにすぎないのではないか。
いつ踏み潰されてもおかしくない存在なのだという事実が恐ろしい。
それと同時に、自分はこのまま遠巻きに彼を眺めるしかないのかという漠然とした問いが浮かび上がる。
冷え切ったセリアの指先が、膝の上でかすかに震えた。
ラピスはエルインの膝元で丸くなる。
少しだけ上目遣いになり、飼い主とセリアの間を流れる空気を観察し始めた。
黄金の瞳はまばたき一つしない。
二人の人間の間に生じつつある微細な軋みを、ただ静かに見つめている。
「冷えてきたな」
エルインが少しだけ長く息を吐き出した。
白く濁った吐息の輪郭が、夜風に溶けて消えていく。
セリアはその静寂に身を委ねるように、薄手のショールを肩に引き寄せた。
そして、静かな夜の闇へとわずかに首を傾ける。
言葉数の極端に少ない時間が流れていく。
だが、その沈黙は決して冷え切ったものではない。
夜明けを待つ間のわずかな熱を帯びるように、二人の間に確かな輪郭を持って漂い始めていた。




