第6話「弾かれた硬貨と雨上がりの予兆」
昼下がり、雲間に光が差し始めた頃だった。
辺境の街と外の街道を切り離す木製の柵の付近は、急激に低下した気配により、静電気にも似た嫌な緊張で包まれていた。
空の向こうから這い寄る重低音が耳の奥を震わせる。
エルインは右手に野菜の入った袋を提げ、左手の指先で小さくくすんだ黄銅貨を転がしていた。
少し買いすぎておつりが出たのだ。
親指の第一関節から爪先にかけて硬貨を滑らせ、チャッと鳴らしては受け止める。
特段の芸をしようというわけではない。
ただの指先の動きであるはずが、その硬貨がすり抜けるたびに空気の組成が微かに歪みきっていくことに彼は気づかない。
傍らには、どこかで拾ってきた大きな落ち葉を傘代わりに頭に乗せたラピスが張り付いている。
セリアは二人の横を少し遅れて歩いていた。
彼女の足元がぴたりと止まる。
街道の外から風に乗って届く血の匂い。
足裏に微弱に走る振動の周波によって、彼女の血の気が一瞬で退いていった。
街の外壁の先にある数本の大樹が薙ぎ倒され、視界を塞ぐほどの魔力に包まれた巨大な黒い波が谷を越えて押し寄せてくるのが見えた。
遠くの大都市から押し出された数万の魔物の混成群。
それは明確な殺意と飢餓を伴って、何の障壁も持たないこの辺境の喉首に喰らい付こうとしていた。
その進行速度は早馬すら凌ぐ。
「っ……!」
セリアは言葉を失い、声も発せずに数歩だけ後退した。
エルインはその異常ともいえる光景を視界の端へと収めた。
彼の足は止まらない。
右手の袋の持ち方を少し直す。
『少し騒がしい天候だ』
単なる急な悪天候か、せいぜい地滑りの一種としか見えていない。
彼は自身の足の裏がすでに限界の制約を超えて空間そのものの法則を捩じ伏せていることなど知る由もないのだ。
遠くで小さな人影が泥にまみれ血を流しながら走っているのが見える。
全身の防具が削がれ、使い物にならなくなった剣を杖のように突いている者たち。
かつて自分を切り捨て、今やこの押し寄せる因果から逃げることもできず追い立てられているガルヴェスとその一味だった。
魔物の先頭が彼らの膝裏へと致命的な最後の一撃を下す直前である。
エルインの親指の先端で、黄銅の硬貨がカシリと音を立てて弾かれた。
無造作に。
何の感情もなく。
ただ指の感覚を埋めるだけの些細な動作だ。
彼本人の認識の中ではそうとしか現れない。
だがその指先から放たれた極小の硬貨は、宇宙の質量すべてを圧縮したかのような隕石級の運動エネルギーへとすり替わり、音速を置き去りにした。
周囲の時間が静止して見えるような瞬間の中で、硬貨の軌跡だけが白熱の光線として空間そのものに刻跡を描く。
光線が通過した直後、谷を覆い尽くさんとしていた数万の魔の群れは、熱量で焼かれることすら許されずに光へと還っていく。
音すら伴わない静かな終焉。
街を喰らおうとしていた波ごと、背後の小山が円形にえぐり取られて空の彼方まで青の道が開かれた。
強烈な破壊の余波は不思議なことにガルヴェスの足の裏や街の壁を綺麗に避けて通り、一切の建物を損なうことなく空気を薙ぎ払っただけである。
ガルヴェスの膝が崩れるより先に、その背後にそり立った魔の群れは砂埃一つ残さずに消え失せていた。
ただ呆然と空を仰ぐガルヴェス。
その視線の先でゆっくりと振り返り、野菜の袋を抱えたままのエルインの姿が焦点に結ばれる。
己の人生から切り離したはずの無能が、この理不尽な光を放ったというのか。
己がかつて依り代としていたものの本当の大きさをその目に焼き付けられ、ガルヴェスの中にあったすべての構築物は音を立てて自壊を遂げた。
「落ちたかな」
エルインは小さくて見えなくなった硬貨を目で追うのをやめ、少し肩をすくませた。
ラピスが何一つ動じずに横でパンの欠片をかじっているのを横目に、振り返ってセリアの方を見る。
彼女は自分の両手で口元を覆い、声にならない叫びを飲み込み、ただ首を横に振ることしかできない。
そこにあるのもまた恐怖ではないのだと、彼は理解できずに少しだけ首をひねるのだった。




