第5話「泥流と錆びゆく歯車」
◇ガルヴェス視点
空を厚く覆う灰色の雲から、重たい雨粒が絶え間なく落ちていた。
都市の北部を曲がりくねって進む峡谷の道は、ぬかるんだ泥の海と化している。
ガルヴェスは革のブーツを泥に沈めながら、足の裏から伝わる不穏な柔らかさに微かな舌打ちを漏らした。
冷たい雨が顔の側面を叩き、金属の胸当ての隙間から入り込んだ水滴が彼の体温を容赦なく奪っていく。
数日前までの装備であれば、少しの撥水機能と保温効果が維持されていたはずの防具が、今はただの重い鉄の塊に過ぎない。
彼に続く他の探索者たちの歩みもまた、鈍く引きずられているようだった。
弓兵の放った矢の残弾は平時より早く底を尽きかけており、魔術師の手先は寒さで白く強張っている。
本来この程度の気象条件であれば、歩みを止めずとも一日で走破できる道程であった。
だが今の彼らには、普段であれば気づくことのない小さな石の凹凸でさえ、足を挫く大きな痛手となって牙を剝いていた。
風に削られた峡谷の岩肌の様子すら見定める余力はない。
「もう少しで目当ての住処があるはずだ。休むな」
ガルヴェスが雨音に負けまいと声を張る。
しかしその声の端には疲労のかすれが混じっていた。
彼自身、いつからこんなに視界が定まらなくなったのか説明がつかないでいる。
常に保たれていた万能感が霧のように失われつつあった。
視界の奥、土気色の景色が広がる谷の終端に、微かな異常がうごめいていた。
雨を弾く無数の暗色の皮膜が丘陵を覆い尽くすかのように広がっている。
通常は群れないはずの腐肉食の飛龍種や、地下に潜むはずの鉄線虫などが幾重にも固まり、うねるようにして一つの方向へと進行を始めていた。
まるで大規模な災害から逃れるように、あるいは何か理不尽な引力に引き寄せられるようにして、異常な大移動が発生している。
ガルヴェスの顎が一瞬強張った。
本来の生息域や生態など何一つ一致していない、数万という魔物の混成群。
その巨大なうごめきは、偶然にも彼らが本来向かうはずであった辺境の町を正確に射程に捉えている。
彼の右手は本能的に剣の柄を握りにかかった。
しかし引き抜こうとした寸前、硬く締まったまま潤滑されずに錆びかけた鞘の留め金が、わずかな抵抗を見せて彼の動きを半拍遅らせた。
このわずかな隙間こそが、かつてなら決して生まれなかった決定的な隙である。
その間隙を狙い澄ましたかのように、先陣を切る飛龍種の下顎が彼の腹部めがけて鋭利なくちばしを突き込んできた。
避けるべき思考はできても、両足が泥濘を蹴る力がわずかに足りない。
浅く切ったつもりの胸当ての表面が、紙切れのように裂ける嫌な音が響いた。
彼は後方へ大きく弾き飛ばされ、濁流のような泥の中に背中を打ち付けた。
口の中に砂利と鉄の味が広がるのを感じながら、彼の中で「自分は特別ではなかった」という恐怖の種が土の中から頭をもたげ始めていた。
◆ ◆ ◆
同じ空の下、辺境の宿場町では穏やかな朝が立ちこめていた。
エルインは食堂の横で丸太のベンチに座り、ただ流れる雲の形をぼんやりと目で追っていた。
早朝の空気は澄んでおり、呼吸をするたびに肺が清廉な真水のようにならされる。
彼にとって、遠く離れた地で進行している大魔境からのうねりも、かつての仲間が恐怖に震えている事実も、認識の外側を流れる木の葉のようなものだ。
少し離れた場所では、ラピスが人の形をしたまま宿の女将に頭を下げられている。
彼女は言葉巧みに朝飯のパンの端を取りに行っている様子だった。
視界の右側から、軽い足音が近づいてくる。
セリアが小さな籠を二つ下げて彼の下へとやってきた。
髪を質素な麻紐で結い上げ、以前の泥や破れ目こそ整えられているものの、飾り気のない質実な立ち姿だ。
手渡された籠の一つをエルインが無造作に受け取る。
そこにはわずかばかりの野菜と果実が入っていた。
「宿主からもらってきた。朝の市場に出た残りだそうですよ」
「そうか。ありがたい」
声はただ淡々としており、そこに感謝の熱は見えない。
ただの交換条件の完了として彼は小さくうなずき、籠の取っ手を指に引っ掛ける。
セリアは彼の顔の横へのしかかる沈黙の行方を、微細な観察で埋めようとしていた。
昨日、街を救ってくれた時のあの人外の暴力性と、現在こうして籠をぶら下げている間の抜けた横顔が、彼女の中でいまだに上手く噛み合っていない。
その両方を受け入れるには、没落したとはいえ自身が教え込まれてきた貴族的な正当性があまりにも邪魔をしている。
彼女は自分の指先を薄い手袋で隠すように握りしめ、言葉を選ぶ。
「あなたは……このままここに残るつもりなのですか?」
「別に、急ぐあてがあるわけじゃない」
短めの会話。
それだけのやり取りで彼の無頓着さと本質の遠さが知れる。
セリアは一歩だけ踏み込もうとする足を途中で止め、うつむいた。
その距離のとり方は、畏怖とも異なる、微かな当惑を多分に含んでいた。
何者でもない青年がただそこに在り、世界すらも無視して朝食の残りを眺めている。
その平和な輪郭のすぐ裏側で、彼の生み出した因果が無慈悲な刃となって遠い空を焦がし始めていることに、エルインは少しの疑念すら持っていなかった。




