第4話「崩れ落ちる足場と因果の清算」
◇ガルヴェス視点
石造りの冷たい壁が、蝋燭の芯を燃やす微細な音だけを反響させていた。
大都市の中央区に位置する高級ギルドの一室。
普段であれば有力な探索者たちが勝利の酒を煽る場であるが、今日の空気は異様に重い。
卓上には銀の大きな皿が置かれているが、手付かずのまま脂が冷え固まっていた。
ガルヴェスの握った拳の震えは、先日の魔の森で見せたものとは異なる質を持っていた。
焦燥と、腹の底を這い回るような不明確な恐怖。
彼の銀の胸当てには、真新しい深い爪痕のような削れが残っている。
それは本来であれば、難なく回避できたはずの下級魔物から受けた不様な一撃の痕跡だった。
「どういうことだ。なぜこうも依頼が破綻する」
低い声が喉の奥で詰まり、歯の摩擦音が続く。
壁際に背を預けていた弓兵が、無言のままわずかに顔を持ち上げた。
エルインを追及し、追放してからわずか数日。
たったそれだけの期間で、これほどまでにすべてが狂い始めるとは誰も理解できていない。
背後で静かに様子をうかがっていた魔術師が、微かに震える声で言葉を継ぐ。
「偶然にしては……おかしすぎる。野営中に限って雨が豪雨に変わり、武器の手入れをしていれば留め具がすべて折れた」
弓矢の弦は湿気にやられて強度が半減し、ガルヴェス自身の筋力すらもいつも通りの歩調の感覚から数歩のズレが生じていた。
エルインがかつて持っていた、周囲一帯の空気を純化させ、幸運を引き寄せる強大な加護。
彼がそばに座るだけで疲労は抜け落ち、彼が息をするだけで防具の傷が塞がっていく。
その無自覚な恩恵に寄生し、すべてを己の実力だと錯覚していた事実に、ガルヴェスたちが気づく術はなかった。
「彼が何か……していたのか?」
魔術師の囁きに、ガルヴェスが卓を強く殴りつける。
銀の皿が小さく飛び跳ねて冷えた肉汁が飛び散った。
その不規則な反響音が静寂に打ち消される。
ガルヴェスの中で芽生えつつある事実への直感が、彼の自尊心を鋭くえぐっていた。
あの空っぽで薄弱な無能が、自分以上の何かであったという可能性。
それを肯定してしまえば、自分がいま築き上げている強者の地盤そのものが中空だったと証明してしまう。
「あれのせいではないっ……!」
吠えるような否定。
それは周囲へ向けてというよりは、自らの内にうごめき始めた致命的な疑念を抑え込むためのものだ。
ガルヴェスは荒い呼吸に乗せて腰の剣帯を無理やり引き締めた。
「次の依頼だ……。ここで低迷などしている暇はない」
強引に取り出した羊皮紙には、辺境への魔物討伐が書かれていた。
本来であれば下の位の冒険者が担当するような数だが、報酬だけは現在の枯渇した資金を潤すことができる。
都市の外壁を潜り抜ける際、見上げる先にある星空の美しさすらガルヴェスの目には入りはしない。
急ぎ立てられる準備の隙間で、弓兵の持つ水筒の革ひもがほんの数ミリほつれたのを、誰一人として見てはいなかった。
足場は少しずつ削れている。
◆ ◆ ◆
辺境の宿場町へ到着したエルインは、石造りの井戸の横に腰を落ち着けていた。
夜風が通り抜ける冷たさだけが心地よい。
ラピスはといえば、先ほどの馬車での騒動から一向に起きる気配を見せず、宿場へ案内してくれたセリアの尽力でようやく空き部屋へ放り込まれて眠りこけている。
セリアは馬車の事故による責任や事後処理のやり取りで街の長と話をしているらしい。
少し距離を置いた場所で、エルインはただ夜空に浮かぶ欠けた月をぼんやりと見上げていた。
手の中には宿の老店主から渡された果実が一つ。
表面にはわずかな傷がついている。
それを指先の爪弾きのような動作で口へ放り込む。
果汁の甘みが弱く広がるのを感じる。
『酸っぱいな』
遠くの大都市から伸びてくる因果の糸の端が、彼を追放したかつての者どもの破滅へと繋がりつつある事実。
彼に救われ、彼の姿を目に焼き付けてしまった落ちぶれた令嬢の視線が抱える微細な熱感。
何もかもが彼という空洞の巨大な圧力の周囲で回り始めているが、当の本人の重心は微動だにしない。
ただもう一つくらい果実が食べたかった。
その程度の浅い後悔だけが、穏やかな夜更けの冷気とともに彼の思考へ混ざり始めていた。




