第3話「街道に砕ける災厄と令嬢」
乾いた車輪の音が、砂利の多い街道に高く響いている。
エルインは乗合馬車の一番後ろの席に背を預け、揺れに合わせてわずかに首を右へ左へと傾けていた。
開け放たれた幌の隙間から入り込む太陽の熱が、彼の横顔を白く照らす。
彼の膝の上では、いつの間にか人の姿を与えられたのか若い女性の外見をした特大の重しが、丸まって静かな寝息を立てていた。
薄氷のような透き通った青い髪が、木枠の振動で微かに上下している。
ラピスは馬車の木製ベンチでは体を支えきれず、自身の飼い主の膝と腹部に額を押し付けるようにして丸くなっていた。
エルインはたまに前髪を整えるように彼女の頭頂部を軽く撫でるだけで、それ以上の意識を払わない。
街道の両脇を流れる背の低い緑の茂みが、風に乗って千切れた葉の匂いを運んでくる。
馬車の前方に位置する御者台から、細い金属が折れるような甲高い音が響いた。
『何事か』
エルインが半眼のまま重いまぶたを押し上げる。
車体が大きく左へ傾き、彼の足裏が床の板組みを強く踏み締めた。
外を見るよりも早く、空気が何かの質量で切り裂かれた特有の生臭い気配が、馬車の開口部から流れ込んでくる。
馬たちが狂ったように嘶きを上げ、車軸の悲鳴がそれに重なった。
数歩の足裏の感覚だけで状況を読む。
木枠が激しく軋み、前方の席から乗客の短い悲鳴が重なり合って上がった。
荷台の中央に座っていた数人の商人や旅人の姿が、急停止の勢いで一斉に前へ崩れ落ちる。
彼らの視線の先、街道のど真ん中を巨大な漆黒の塊が塞いでいた。
体表から鋭い棘を乱立させた三体の上位魔物、黒棘の甲獣である。
人間の膝ほどの高さがある牙から粘着質の唾液が一滴、土埃の舞う地面へと落ちて湿った音を立てた。
先頭にいる一体が太い前脚を振り上げ、馬に繋がれた手綱ごと御者席の木板を粉砕したのだと、破断面の木屑が物語っている。
その直下、馬車の引き具が絡みついて身動きが取れなくなった若き令嬢が一人、倒れた馬車と魔物の間に放り出されていた。
セリアの細い指先が、切れた手綱の金具を反射的に握りしめている。
彼女の灰がかった銀の髪は泥にまみれ、着古された作りの良いドレス生地が右の膝付近で無惨に裂けていた。
没落した生家の名誉を胸に秘めてなお、眼前に迫る純粋な暴力の塊に対する身体の震えは止まらない。
見開かれたセリアの瞳の奥底で、甲獣の大きく開いた顎と、そこにびっしりと並んだ牙がゆっくりと拡大していく。
呼吸を忘れたように固まる彼女の耳に、背後から奇妙な音が届いた。
カツン。
ひび割れた靴底が、馬車の側面の木枠を蹴り砕く硬い音。
次の瞬間、彼女の頭上を越えて一つの影が音もなく舞い降りた。
巻き起こったのは強風などという現象ではない。
大気の層そのものが、眼前に降り立った青年の体重移動によって物理的に叩き潰された結果だった。
「埃が立つな」
何気ないその一言とともに、エルインがほんの少しだけ強く右足を踏みしめた。
前方に迫っていた三体の巨大な甲獣の動きが、同じ姿勢のままピタリと静止する。
セリアの視界から、その巨大な影がフッと透けるように消えた感覚があった。
足元から放たれた目に見えない衝撃が扇状に広がり、魔物たちの硬質な外殻を中心から無音で粉塵のごとく解体していた。
断末魔すら上げる隙を与えられず、ただ粒子となって吹きすさぶ風の中に散っていく。
数百の刃を弾き返すと言われた外骨格が、細かな砂粒に還って陽光にさらされる。
セリアがまばたきを一度する間に事象は完了していた。
エルインは片手で軽く首の横を払い、少しだけ顔をしかめながら、残った砂塵を鬱陶しそうに遠ざける。
「大丈夫か」
一切の抑揚を含まない低い声が落とされた。
見上げれば、逆光に切り取られた青年の輪郭がそこにある。
英雄というよりもあまりに隙だらけで、少し着古した布の服は随所がすり減っている。
だが彼がいるただその事実だけで、周囲の暴虐な気配が消し飛んでいた。
セリアの喉が痙攣し、かすれた息だけが漏れ出す。
彼女は自分の震える両手を地面につき、這いつくばるようにして彼を見上げた。
神を見たのか。
それとも災厄を超える何か別のものを見たのか。
「あっ……」
声が震え、唇の端から言葉にならない音がこぼれる。
エルインは特に気を留める様子もなく、わずかに膝を折り曲げて彼女から少し離れた地面へと腕を伸ばす。
散らばっていた彼女の手荷物らしき小さな鞄を拾い上げ、埃を軽く払ってから差し出した。
泥にまみれた彼女の膝に、温かみすらない乾いた手渡しで鞄が置かれる。
エルイン自身の靴の先に、彼女の金糸の刺繍がわずかに残る裂けた裾が触れた気がしたが、彼はすぐに一歩後退して距離を作った。
『そろそろ街が近いといいが』
彼の心の中には、劇的な救済に対する歓喜も誇りもない。
乗合馬車の御者が気絶から目を覚ましたのか、後方で微かにうめき声を上げる音が聞こえる程度だ。
セリアはその場から立ち上がれず、自分の命をすくい上げた理不尽な光景に圧倒されたまま、ただ呆然と彼が歩み去る背中を見送っていた。




