第2話「空っぽの青年と原初の竜」
踏み出した一歩は、泥濘ほどの柔らかさすらない空間の底抜けな感触に迎えられた。
靴の裏側が石の冷たさを拾い上げるのと同時、空間を満たす見えない鉛が全身の筋肉へと重くのしかかる。
瘴気と呼ばれる高濃度の猛毒が可視化された紫煙となって、空気中を不規則に漂流していた。
その粒子が一つ肌へ付着するたびに、通常の人間であれば即座に皮膚から組織を分解されていく領域である。
エルインは軽く首を回して、こめかみ付近の違和感を振り払った。
肺へ取り込んだ空気が粘液質のように重い。
彼は一つ深呼吸をする。
酸素の代替となる猛毒を含んだ気体が気管支を通過した瞬間、微細な咳が一度だけこぼれた。
だがそれで終わりだった。
内なる空洞は異常な速度で毒素という概念そのものを解体し、血液の組成を瞬時にこの環境の法則に塗り替えていく。
次の一歩を踏む際、先刻まで鉛のように重く感じていたはずの自身の脚が、羽根のように軽いことに彼は気づく。
重力が圧し掛かる圧力という外部要因を、彼の器は無尽の防壁として自らの強靭さへ変換してしまった。
太ももの筋肉がわずかな伸縮で地形を蹴り飛ばせるほどの密度へ作り替えられている。
彼は首を傾げる。
『なんだかやけに歩きづらいな』
不均一に隆起した石畳がいけないのだと、眼下の影へ無頓着な思考を投げた。
靴先が欠けた石版の端に引っかかり、少しばかり勢いをつけて足を前へ振り下ろす。
着地の瞬間、大地そのものが悲鳴を上げるような深い破裂音が鳴った。
靴の底面から広がった波紋状のかすかな風圧が、足元の硬い岩床を粉塵のレベルまで粉に分解して周囲へと撒き散らす。
細かい砂粒が跳ね返り、歩くたびに足元の世界が崩れていく。
歩幅に合わせて強大な破壊力が勝手に出力されているが、薄暗闇に視界を遮られ、エルインはそれに気を留めることがない。
周囲に群生していたはずの古代の怨念や影の魔物たちが、彼の一歩の飛沫による強烈な空気の圧迫だけで原形を残さず消滅し続けている。
エルインの額をほんのりとした汗の膜が覆う。
温度の低い空間の奥底から流れ込んでくる微熱が、肌をジリジリと焦がそうとする。
彼は開襟の紐を片手で一つ外し、首筋へとわずかな空気を招き入れた。
視界の最奥。
暗闇の帳を突き破るように、二つの巨大な黄金の眼球が上空よりエルインのことを見下ろしていた。
息を吸うたびに、眼球の周囲から青白い炎が細かく漏れ出ている。
床そのものだと思っていた壁面の一部が静かにうごめき、山脈のように硬い爬虫の皮膚が輪郭を現す。
空間の天井を擦るほどの背丈を持つ巨山のような存在。
始まりの時代よりこの地の果てに腰を下ろし、すべての生命を毒と絶念で等しく蹂躙してきた原初の精霊竜ラピス。
その吐息が一つ漏れるだけで空間が歪むほどの超高温の灼熱が産まれ、黄金の瞳孔は無慈悲な殺意を湛えて侵入者を釘付けにする。
ラピスは巨大な顎を左右に開き、エルインという豆粒の存在を消し炭にしようと首を反らした。
光の塊のような白熱の炎が喉の奥で明滅するのを、エルインはただ下から見上げていた。
まばたきすらしない真っ直ぐな双眸。
エルインは視線を下げず、巨大なトカゲの前へとゆっくりとした足取りで歩み寄る。
『こんな奥底で迷子になっているのか』
暗い洞窟の中で威嚇を繰り返す哀れな動物である。
エルインにとって、見上げるほどの大きさを持つ生き物という以上の感想は湧いてこない。
彼の脳内では、かつて森の入り口で見た、傷ついて怯える大きめのイグアナという程度の認識で事象が処理されていた。
エルインは手を伸ばす。
そのまま踏み出した右足が床を無造作に踏み砕くのと同時に、強烈な空気の断層が上方へ捲れ上がり、精霊竜の巨大な顎元を直撃した。
炎を吐こうとしていたラピスの喉から炎が押し戻され、内側で自爆するような鈍い破裂音が響く。
巨岩で顎を下から殴り上げられたような衝撃に、ラピスは巨大な頭部を天井へ打ち付け、重苦しい唸り声を引きずる。
エルインは何も気づかずに、ただ少し背伸びをする。
ちょうど自身の目線の高さへと降りてきた鼻先付近の硬い鱗。
刃すら通さぬ硬度を誇るその部位に、熱を失った素手をただ置いた。
その瞬間、途方も無い力の上澄みが皮膜を伝い、精霊竜の霊核そのものを無慈悲に捕食して上書きするのを感じたためである。
すべてを砕く波のような強大さが無造作に触れ回るだけという事実が、強烈な絶望の反転によって畏怖を引き起こした。
ラピスは自身の巨体を地の果てに溶かして消してしまいたくなるほどの恐怖に支配され、身体を限界まで小さく折って地面の床へと擦り付ける。
エルインの手が、わずかに温かみを帯びた硬い鱗のうねりをゆっくりと往復する。
「よしよし。狭くて暗いところは嫌いか」
なだめる言葉から漏れ出す音色すら、圧倒的な実力差を覆い隠せない暴力的な響きを含む錯覚をラピスに落とし込む。
黄金の瞳は細められ、喉の奥から絞り出すような情けない鳴き声が漏れる。
その巨大な顎がエルインの足首にそっとすり寄り、擦り上げられる。
恭順と命の保全を願う無意識の儀式を自ら執り行うことしかできなかった。
『かなり人語を理解するタイプかもしれない』
エルインは自身の手のひらをズボンでごしごしと拭うと、振り返って来た道へと足の向きを変える。
暗闇の底で独りを過ごすには退屈しなさそうな出会いだ。
エルインの一歩が再び空間の大気を揺るがし、ひき潰された空気の圧力が竜の顔面に風として微かに叩きつけられる。
後ろ脚を縮こませながら、世界を支配していた最強の災厄は新しい飼い主の背中を、見失わないようにと懸命に這いずるようにして後を追いかけ始めた。




