第1話「底抜けの器と終わりの森」
喉の奥を刺すような鉄の匂いと、ぬかるんだ土の冷たさが肺に張り付いている。
木漏れ日が鬱蒼とした魔の森の天蓋を抜け、泥にまみれた革製のブーツの先端だけを薄明かりで切り取っていた。
刃の欠けた長剣が、音もなく空気を裂いて足元の湿った土に突き刺さる。
柄を握る男の指の関節が白く浮き上がり、革手袋の表面が微かに引き攣っていた。
「目障りだ」
吐き捨てるような低い声が、静まり返った森の空気を震わせる。
前大戦の英雄を模したと言う豪勢な銀の胸当てが、荒い呼吸に合わせて上下に動いている。
ガルヴェスの浅黒い顔の右半面には、先刻の索敵任務で跳ね上がった汚泥がこびりついて乾燥していた。
彼は己の太ももに沿わせた拳を、微かに震わせている。
ただの苛立ちではない。
剣の切っ先が土から抜かれ、再びエルインの首元へと向けられた。
切っ先から落ちる水滴が、首筋からわずか数寸の距離で空気を切る。
冷たい鉄の気配が皮膚の表面を素通りしていくのを、エルインはただまばたき一つせず見つめていた。
両腕を下ろし、背筋を伸ばすわけでもなく、ただそこに立っている。
「足手まといの役立たずめ」
その言葉とともに、ガルヴェスが大股で一歩前に出る。
背後の草むらで見守っていた数名の探索者たちが、同時に肩をこわばらせて視線を伏せた。
身を隠すように木の幹に肩を預ける弓兵も、顔を覆うようにフードを深く被り直した魔術師も、誰一人として前へ出ようとはしない。
泥濘の上に落ちた水滴が、小さな波紋を作って消える。
「荷を下ろせ。そして消えろ」
ガルヴェスの顎がしゃくり上げられ、剣先に夜明け前の冷たい影が宿った。
エルインの瞳の奥には、恐怖も絶望の色彩も浮かんでいない。
彼は自身の肩に食い込んでいた麻袋の紐へ右手をかける。
指先にある小さなマメの感触を確かめるように、一度だけ手のひらの内側を開閉した。
麻袋の紐の結び目をつまみ、少しの引っかかりもなくするりと引き抜く。
擦り減った麻袋が重たい音を立てて地面の泥へ座り込む。
野営用の鉄鍋や数日分の干し肉が鈍い金属音を立ててぶつかり合い、その反響が森の奥へと吸い込まれていった。
エルインはそのまま振り返り、一切の反論を口にしない。
「返事すらまともにできない無能が」
ガルヴェスの苛立たしげな声が背中へ投げつけられる。
靴底が再び湿った泥を踏みしめ、エルインの歩調が等間隔の音を刻む。
風が強く吹き抜け、背後の男たちの体温を奪うように木々の葉を大きくうねらせた。
エルインの足跡は前へ伸び、誰の声も彼を引き留めることはない。
しばらく歩くと、巨大な影がエルインの視界の端を埋め尽くし始めた。
光のない領域。
大都市の人々が恐怖とともに呼び習わす魔の森の最深層。
空気が極端に重くなり、鼻腔を抜ける匂いが腐敗した木屑のそれへと変わる。
エルインは立ち止まり、首の関節を軽く鳴らした。
先刻までの出来事に対する名残や行き場のない怒りのような熱は、胸の奥のどこを探しても見当たらない。
肺いっぱいに少し淀んだ空気を吸い込み、吐き出す。
体は空っぽだ。
何の知識も、特別な家系に生まれて授かるはずの魔術の片鱗すらも彼にはない。
周囲からは器がないと蔑まれていたが、彼自身が抱く感覚はまったく異なる。
『少し、お腹が空いた』
歩くたびに腹の底から空洞のような音がする気がした。
底がない。
満たされることのない器がそこにあるように、彼はすべての出来事をただ通り過ぎていく風のように受け入れていた。
泥濘から突き出した太い木の根が目の前に立ち塞がる。
その表面を覆う黒い苔の繊維が、微量な毒気を含んで皮膚をひりつかせる。
何も考えずにさらに数歩を踏み出した瞬間、編み上げられた靴紐の隙間にひび割れた老木の根が引っかかった。
エルインの体が前へ倒れる。
腕を前に出すよりも早く、斜度のある斜面へと滑り落ち始めた。
枯れ木と腐葉土の層が彼の背中を鞭打つように擦り抜け、数拍遅れて重力が彼の下半身を引っ張り下ろす。
視界の端を、黒曜石のような小石が高速でかすめ飛んでいく。
背中が強張る暇もなく、乾いた音とともに全身が何か硬いものに叩きつけられる。
舞い上がった土埃が鼻を打ち、エルインは小さくむせた。
土が落ちる音の隙間で、冷たくて固い質感を帯びた平らな面に頬を押し付けていることに気づく。
彼は手首に力を込め、ゆっくりと上半身を起こした。
灰色の石で作られた巨大な扉が、大地の断面を塞ぐようにそびえ立っている。
扉の表面には無気味にうごめく不可解な幾何学模様がびっしりと無数に彫り込まれていた。
空気の流れが扉の隙間から吐き出されている。
冷気とともに粘り気のある濃緑の霧が這い出しては、霧散していた。
『風穴かな』
エルインは無意識のうちに衣服の埃を手で払う。
目の前の重厚な構築物が歴史から忘れ去られた封印の証であるなどとは知る由もない。
石の表面に指先を触れさせる。
極寒の地にある氷塊のような温度が指の腹から伝わり、指先の血の気を急激に奪い去った。
皮膚が霜で焼かれるような痛みをわずかに発する。
エルインは痛みを嫌うように、指を離す代わりに体重を前方へとかけるように右の手のひら全体を模様へと強く押し当てた。
直後、彼の手首から先が扉と同化したように光の粒子が飛び散る。
石の隙間を満たしていた魔力が彼の掌を媒介にして暴走的な還流を開始した。
石扉の表面に微細な亀裂が走り、細かい砂利が頭上からバラバラと落ちてくる。
エルインは扉にもたれかかっていた体勢を崩しかけ、両足で地面を踏ん張る。
空気が破裂するような低い地鳴りが腹の底を震わせた。
千年の重みで閉ざされていた巨石の接合部が削れあい、耳をつんざくような甲高い摩擦音を発生させる。
重い扉が内側へとずれを伴って空間をむき出しにしていく。
開かれたわずかな隙間から、太陽の光とは無縁の冷酷な漆黒が森の緑を飲み込む勢いであふれ出した。
エルインは押し開けた手をだらりと下げる。
手のひらに土汚れすら残っていないことに気づき、衣服の袖口で少し顔を拭った。
肺に深く満ちる暗闇の空気を吸い上げる。
『夜を越すにはちょうどいいか』
一縷の思惑すらなく、彼はただの雨除けを探すような気安さで、始まりの人々が封印を定めた隠された深層の穴へ右足を踏み入れる。
背後の扉は自らの役割を放棄したように、少しの揺らぎすら見せずに冷酷な沈黙を守ったまま、微かに微睡む口を開け広げていた。




