番外編「透明な怪物と一つの皿」
◇セリア視点
宿の厨房は、古い油と少し焦げたハーブの匂いが染み付いていた。
壁際に掛けられた鉄鍋の並びを夕日の残灯が赤く照らしている。
私はいま、使い込まれて少し刃こぼれした包丁を不器用に握り、まな板の上にある小ぶりな芋の表面を少しずつ削ごうとしていた。
かつて屋敷にいた頃であれば、刃物に触れることすら侍女たちに止められていたはずだ。
だが今は、少しでも自身の皮膚から血流のような生温かさを世界へ残したいという、不均等な焦りが私の指先を動かしている。
食堂の向こう側から聞こえる衣のすれる音が、その元凶だった。
エルイン。
彼は私が少し離れた場所でただ彼を一介の男として見つめようとするたびに、音もなく自身への距離に宇宙と同じ暗黒と暴力を挟み込んでくる。
最初に出会ったときの魔物を砂に変えた光景。
その後も何度も、世界の前提ごと歩み一つで更地にするような、理解を拒絶する何気ない動作の連続。
指先にわずかな力が入り、芋の皮ごと少し厚く削ぎ落としてしまった。
白い断面がまな板へ不格好に転がる。
「……また、深くなりましたね」
宿の女将に気づかれないよう、ため息ともつかないほどの小さな音をこぼした。
彼の力はただ大きいだけではない。
世界との接点がなく、何者からの同意も共感も必要としない。
私がかつて信じていた貴族としての責任や、人間の持つ限界への抗いという美学すべてが、彼の前では子供の積み重ねた砂の城ですらなかった。
ガルヴェスというかつての彼の仲達が、彼の真実を見ただけで全てを擦り切らせて自らの人生を放り出してしまった理由が、痛いほど理解できてしまう。
この包丁で肉を切りながら考えていたのは、あの商業都市からの帰路で、ただ少しだけ夕飯の話をした私の声に、彼が人間らしい不満の色を返してくれたあのわずかな瞬間だ。
あれが幻ではなかったと自身に言い聞かせなければ、私は彼という底知れない穴の温度に合わせて凍えてしまいそうだった。
煮込み鍋から上がる湯気が、窓際でわずかに白く膨らんで消えていく。
私はまな板から切り分けた芋と、彼が希望していた少し多めの塩漬け肉を鍋の中へと静かに落とした。
◆ ◆ ◆
木の皿が擦れるカタッという音が、沈黙で満ちていた食堂に響いた。
他の客は少なく、わずかにともされるランプの芯が揺れている。
エルインは出された熱いシチューの鉢を前にし、特段の感慨も持たずに木のスプーンを掬い入れた。
ラピスに至ってはお皿など使いもせず、横で転がした肉の塊を丸呑みにするような行儀の悪さを見せている。
私は少しだけ背筋を伸ばし、自身のスプーンを握ったまま彼の手の動きを観察した。
世界をいとも簡単に作り変えてしまうその指が、安っぽい曲がった木製スプーンを握っている。
器が小さすぎて魔力が暴走することすら、彼の体は既に世界すべてを器として運用することで対応しきっているということを私は知っている。
エルインは一口スプーンを口に運ぶ。
わずかに少しだけ熱かったのか、あるいは塩味が強かったのか。
彼の動きが半拍だけ止まった。
「……芋が少し形が悪いな」
「……それは、すみません。私が不慣れで少し厚く」
言いよどみかけた私の声の先で、エルインはただ続きをスプーンで掬う。
「悪くない腹の満たし方だ」
極限まで熱量が削ぎ落とされた彼の評価がそこで終わる。
ただ腹が満たせる。それが等身大の彼の望んだ回答だ。
世界を消せるほどの力を持ちながら、美味しいかどうかの議論に対してのみ微細な感想を残すだけの器の空洞性。
強者の余裕でも、弱者への哀れみですらない。
私は自身の手元にあるスプーンを一回りだけ自身の皿のふちで小さく鳴らす。
そのわずかな日常の金属音が許されている空間の薄皮一枚の上で、深く呼吸をした。




