エピローグ「歩幅と同じだけの風」
季節が一つだけ色を違える頃の街道。
冬が始まる前の少し冷え込んだ大気が、辺境の街の柵を一斉に揺すっている。
空の向こうから届く朝の陽光はかつての熱を失い始めているが、足元の土を踏みしめる感覚にはただの固い静寂があった。
エルインは宿の軒先から少し離れた井戸の横で、木の桶から冷水を素手ですくい上げ、無造作に顔を濡らしていた。
彼が歩くだけで起こるかもしれない数万の災厄の減退と純化。
その巨大すぎる加護や力に対し、彼自身はいまだに今日は少し水が冷たくなった程度のことしか思考の外へ出していない。
彼の背筋に一滴の水がわずかに沿って落ちるのが、太陽の光で白く乱反射した。
「出発ですか」
後ろから声が掛かる。
セリアが小さな荷物袋の結び目を肩に掛け、彼から五歩分離れた正確な位置で足を止めていた。
彼女の目は以前のような未知を見る怯えの影をすっかり払拭したわけではない。
だが、その根底にある世界を壊さずに横に立とうとする決意だけが、背筋の立ち方に微細な力となってこびりついていた。
ラピスも空の上の巨大な覇権はとっくに放棄したかのように、セリアの後ろをうろちょろと歩き回っている。
「隣町の魔力井戸の点検とかの話だったか」
エルインは濡れた顔を手で拭うだけで済ませ、水気を飛ばすように、もう一度手のひらを横へ軽く振った。
何の魔力現象も起きない。
ただ水滴が土の上に暗い染みとなって落ちただけだ。
「ええ。あなたがただそこにいてくれるだけで、修復の魔術陣を引く手間が全てなくなりますから」
彼女の声には、最初の頃にあった恐怖からの接頭語がなく、ある種の事務的な頼み事の色彩だけを持たせようとしている。
それを理解できないままにエルインは小さく肩をすくめる。
自分が特別ではないと思い込み、少し丈夫になっただけであとのことは巡り合わせ程度にすべて片付けている青年の姿。
街道の先へとつながる轍の上が、風によって一層深く形を現す。
エルインはラピスの頭を軽く一回だけポンとなでてから、足を踏み出した。
彼の一歩で空間の揺らぎがわずかに収束し、世界が呼吸を整える。
セリアは自分の歩幅がまだ彼には遠いことを承知の上で、自身の靴紐の少し固い結び目と、彼が作る風の通り道の真ん中を見上げながら二歩目を出し急ぐ。
彼の落とす底知れない無自覚な世界そのものの中空地帯を、彼女たちはただ普通の歩幅の日常として共に進もうとしていた。
ただ等しく、今日という足音が乾いた街道に細く長く溶けていくのと同じだけの温度として。




