出航
第6話。
水の神は、普通にご飯に誘ってきた。
カナマが、ゆっくりと立ち上がる。
リースから視線を外し、てんへ向ける。
「てんさんも、はじめまして」
穏やかな声。
ただの挨拶。
ほんの一瞬——
その目が、わずかに細くなる。
「あ……はい、こんにちは」
てんの返事が、ほんのわずかに遅れる。
カナマは何も言わない。
ただ、軽く頷くだけだった。
食事が運ばれてくる。
海鮮丼。
色とりどりの魚が、綺麗に盛られている。
リースはじっとそれを見る。
スプーンで一切れすくい上げ、横から観察する。
「それ、マグロっていう魚よ」
エヒが横から言う。
リースは少しだけ間を置いて——
「……マグロ」
小さく、繰り返す。
確かめるように。
そのまま口に運ぶ。
一瞬の沈黙。
次の瞬間——
表情が変わる。
目がわずかに開き、口元がゆるむ。
隠す気がない。
「……おいしい」
その一言で、十分だった。
エヒが小さく笑う。
「でしょ?」
空気がやわらぐ。
笑い声が混じる。
穏やかな時間。
——だが。
カナマが、ふと口を開く。
「ミクマ」
軽く呼ぶ。
「明日、漁に出るんでしょ?」
ミクマが箸を止める。
「ああ、そうだよ」
何気ない返事。
その会話を——
リースは聞いていた。
次の瞬間。
立ち上がる。
流れを切るように。
そのままミクマの前へ。
「ミクマ」
真っ直ぐ見る。
「海に行きたい。連れてって」
一切の遠慮がない。
「ちょ、ちょっと——」
てんが止めようとする。
だが、リースは見ていない。
ただ、答えを待っている。
ミクマは、少しだけリースを見る。
その奥で——
カナマの視線が、わずかに動く。
ミクマは、少しだけ考える。
すぐには答えない。
そして——
「……死ぬかもしれないよ」
間。
「……本気で」
軽さはない。
リースは——
何も変わらない。
「……けど」
「見てみたい」
ミクマが小さく息を吐く。
「……はぁ」
少しだけ呆れたように。
「保護者さんの許可があればいいよ」
その瞬間——
リースはもう動いていた。
てんの元へ一直線。
「お願いします」
「お願いします」
てんは眉をひそめる。
「あんたさ」
少し呆れた声。
「私が親に見えんのかい」
自分の体を指す。
「このテカり。どう見ても石やろ」
リースは何も言わない。
ただ——
じっと見る。
逃がさない目。
「……」
てんが黙る。
数秒。
そして——
「……はぁ」
視線を逸らす。
「わかったよ」
小さく言う。
「ただし」
指を立てる。
「言うことはちゃんと聞くこと」
「あと——無事で帰ってくること」
一拍置いて、
「お土産の魚、持ってくること」
最後だけ少し軽くなる。
「うん」
即答。
てんは、ほんの少し目を細める。
「……ほんまに分かってんのかね」
その声は、わずかに揺れていた。
カナマが、少しだけ笑う。
「よかったね」
どこか、気の抜けたような表情。
「てんは、行かないの?」
リースが振り返る。
「行かないよ」
即答。
「死にたくないし」
軽い言い方。
だが、冗談ではない。
その日は、そこで解散した。
翌朝。
まだ空気が冷たい時間。
漁港。
大きな船。
屈強な漁師たち。
縄を引く音。
木が軋む音。
低い声のやり取り。
その中に——
てんとエヒの姿。
見送りだ。
「カナマさんも乗るんですね」
てんが聞く。
「うん、よく手伝いに来てくれるの」
エヒが答える。
「普段は色んな国を回ってるみたいだけどね」
「へー」
短く返す。
視線は、どこか探るようだった。
船が動き出す。
リースはもう乗っている。
岸を見る。
てんと目が合う。
ほんの一瞬。
「……死ぬなよ」
それだけ。
リースは、わずかに頷く。
船が離れる。
岸から。
安全な場所から。
ゆっくりと——
海の奥へ。
陸は、もう小さくなっていた。
船は一定のリズムで、波を越えていく。
ミクマが口を開く。
「今日行く場所だけどさ」
軽く振り返る。
「海と空の境界から、三十キロくらい離れたとこ」
「……海と空の境界?」
リースが呟く。
カナマが、口を開く。
「海と空の境目が、曖昧になる場所」
少しだけ間。
「上も下も分からなくなる」
風が、わずかに強くなる。
「重力も、ない」
波の音が、少しだけ遠くなる。
水面が、やけに静かだった。
「船で入ったら——戻ってこれない」
リースは、海の奥を見る。
まだ何も見えない。
ただ、青が続いている。
「……行ってみたいな」
「さすがに行かないよ」
カナマが軽く言う。
「この船で入ったらさ」
「君も、乗組員も——」
少しだけ間。
「ミクマも、僕も」
さらに一拍。
「……死ぬからね」
リースは、一瞬だけ固まる。
そして——
「……神なのに?」
「神でもね」
穏やかな声。
「できること以外は、できないよ」
カナマは前を向く。
もう何も言わない。
リースも、何も言わない。
ただ——
海の奥を見る。
まだ何もない場所。
その先を。
それでも——
離れなかった。
ご愛読ありがとうございます。
海は、見ているだけなら綺麗です。




