境界に触れた代償
『君は、もう人間じゃない』
冷たい氷で刺された様だった。指先が冷えていく。
「は…?な、にいってんの」
焦燥感を誤魔化す様に笑おうとするが、頬が引き攣っているばかり。人間じゃないなんて失礼な。一言言ってやろう。噛み付く寸前、白綴明神は、いや、とかすかに首を振る。
『人間じゃない、とは少し語弊があるかもしれない』
「じゃあ、なんだって言うんだよ」
『人間に近いものの方が正しいか』
「同じだろ!!」
勝手に期待を込めていた俺が噛み付く。だが、彼はそんな勢いに動じることはなく、静かに俺を見つめていた。その温度のない視線に、俺の中の戸惑いが、じわじわと広がっていく。
『その血の力を使わなければ、君は今のまま生涯を終えれるさ』
「……どう言うことだよ」
今にも膝をついてしまいそうな己の体に力を込めて言い返す。
『しっかり説明しよう』
お座りなさい。との有無を言わせない命令に素直に従った。
白綴明神は、じっと俺を見ていた。その視線が、妙に落ち着かない。
『今の君の血はね、人間でも神でもないものなんだ』
「は?」
思わず左手を見つめる。まっさらな手のひらだ。
白綴明神はお構いなしに言葉を続ける。
『確実に、過去に神に触れたことが原因だろう』
「なんだよそれ!」
我慢ならないとばかりに、腰を浮かして迫った。
小さな抵抗は、白綴明神の労るような手に押し戻されてしまう。
彼は、極めて冷静な口ぶりで、静かに続けた。
『君は、一度触れてしまった。神という存在に』
「……」
『人間が、神に触るという行為は境界を崩してしまう』
「境界…?」
『人と神を分ける境目さ』
「………なんだよ、それ」
何も言えなかった。
言葉だけが、胸の奥に沈んでいく。
『それと、君の血だけど』
「あぁ…」
『治癒能力に長けているようだ。倒れた私を救い、己の左手の傷も治してみせた』
俺の左手を手に取り、手のひらを優しく撫ぜられる。優しく撫でられるたび、怒りが少しずつ引いていく。
「じゃあ、俺の血は病気や怪我を治すってことか?」
『…それはただの副産物だよ』
「副産物?」
居心地悪そうに呟く彼を訝しげに見つめる。
一呼吸おいて、呟かれた。
『神にとってはね、あれはものすごい力を持つ』
『そして、それは回復なんて生易しいものではない』
『もっと強く、もっと直接的に作用する』
「どういうことだよ…それ」
『…使い方次第では、取り返しがつかなくなるということだよ』
釘を刺す様に、低く言い放つ。
無意識にズボンを握りしめ、震えを押し殺す。
「何が起こるっていうんだよ」
曖昧な言い方につい強く当たる。
白綴は、ただゆっくり首を振った。
『…知らなくて良い』
「は?」
『もう使うな』
俺を無視するその白綴明神の態度が気に食わず、濁す言い方に俺は食い下がった。
「勝手に決めるな!」
『君を守るためだ』
温和な男が強く言葉を重ねる。その強さに言葉が詰まる。
「…守るってなんだよ」
『君のそれはあまりにも危うい』
再度手を取られる。両手で包み込まれ、体温のない手が熱を奪っていく。
強張りが抜けた俺に、味方だと言う様に微笑みかけられる。だが、なんだか居心地悪く、視線を逸らした。
『知られれば、狙われてしまう』
「誰に」
『神、だけには限られない』
それ以上、白綴明神は何も言わなかった。
聞いてはいけない気がして、俺も口を閉じた。
白綴明神から告げられた話は重く、体にまとわりつく。
信じられない話ばかり。急展開が多くて目が回る。
俺の血が、特別
先ほどの出来事を思い出す。
緑の光が、彼を覆って、死にかけのところを治した。目の前に起きたことだ。夢、ではないだろう。
真実味を帯びていく話。
俺の血は狙われる
誰に?神、と呼ばれるものから、それを悪用しようと企む人間がいるのか。
知らぬ間に危険に身を投げ出していたのか。俺が呑気に日常を過ごせていたのは奇跡に近かったんだ。
足音のない死があると自覚した途端、拳は震えた。そんな俺を、隣に静かに鎮座する白綴明神が背中をさする。
『私は君の味方だよ』
「どうだか。知らない間に俺を喰うかも」
思ってもない言葉が、口からついて出る。怒るかと思いきや、ふふ、上品に笑う。
『君の血は確かに魅力的だよ。でもね、これは信じてほしい。私はこの地で子供の願いを受け止める任をもった神だ。守るべき地の子を食べてしまうなんて本末転倒のことはしないよ』
「………ごめん」
毒気を抜かれてしまうほど、暖かな雰囲気が肩の力を抜いていく。自然と謝罪が口から溢れた。段々と先ほどの不安は解けていき、脳がひんやりしていく。
「白綴明神…様。その、俺、有馬蛍。」
『ふふ、白綴で構わんよ。蛍』
控えめに手を差し出すと、温度のない手が握り返す。血の気を感じない、人ではないとやっと頭が理解できた。
「なぁ、また来てもいい?」
どことなく漂うこの祠の土地は、先ほどよりも心地が良く感じた。
白綴は一瞬、動きが止まる。何かを思案する様に、視線が右往左往していた。
『あまり、おすすめはしない』
「さっき守ると言ってただろ」
はぁ、と白綴は諦めた様に一息ついた。仕方ないとばかりの態度だ。
『……そうだね。じゃあ来るなとは言わない。だけどね、約束しなさい。その血は絶対に誰にも見せてはいけない、力も使ってはいけない。わかったね?』
琥珀の瞳が力強く説得する。
「危険、だから?」
『そうだ。必ず君を狙うものが現れるから』
『気をつけなさい』
子供に強く言い聞かせる様な口ぶりで俺に言う。置かれている立場を自覚しろと言いたげだ。
俺の血を取り込んだ事がある神が、危険だと忠告するなら従った方がいいだろう。
「わかった、気をつけるよ」
素直に肯定し、静かに立ち上がると宴会場の出口へ向かう。
あ、と一呼吸おいて、背中に向かって声が投げられた。白綴に振り返ると、何やら懐を漁っており、暫くすると拳が差し出される。
『蛍、これを』
手のひらを差し出すと、ころんと硬い感触が転がった。白綴の手がどかされると、それが姿を現した。
小さな筒である。近くで目を凝らすと、繊細な筆使いで、びっちりと文字が書かれていた。
「なにこれ」
指でつまみ掲げて見せる。白綴は筒を指さして言った。
『それは式神だ』
「式神??」
式神なんて、物語でしか聞いた事がない。それが今、この手に転がっている。穴が開くほどに見つめる俺を、白綴は眉を下げて笑った。
『君に何か危険が起こった時、役に立つと思う。時間稼ぎくらいにはなるんじゃないかな』
「へぇ、そっか。ありがとう」
『どういたしまして。さ、今日はもうお帰りなさい』
引き留めたくせに、早くと急かして裏道へ導かれる。
隣に並ぶと、白綴は俺より少し背が高い様だ。出口に向かう途中、俺は思い出した様に、白綴を見上げた。
「なぁ、なんでさっき倒れてたんだよ」
当然の疑問。俺のことで手一杯で忘れていた。
白綴は一瞬息が詰まった様だった。だが、気のせいか、すぐに調子を取り戻し、はにかんだ。
『…少し力が弱ってただけさ』
これ以上は答えまい、言葉の裏にそう隠されていた。
「……あっそ。白綴こそ気をつけなよ」
『あぁ。では、蛍。またね』
手を緩く振った白綴は、一瞬瞬きをした瞬間にその姿を消していた。
「ほんとに、神様なんだな……」
そう呟きながら、裏道の坂を下る。
先ほどの静寂は、突如として蝉の騒音にかき消されてしまった。呼吸をするたびに肺を埋める生ぬるい空気。日差しは形をひそめ、空は淡く橙に滲んでいた。
(腹、減ったな)
足取りは朝より軽かった。




