第十二章 - 世界が必要とするもの
「あいつ、本当に噂通り世界レベルの選手なのか?」
樹海は答えなかった。彼と二人の友人は、壁にもたれてだらしなく座り、体育館の向こうにいる徹を見つめていた。
「田中くん、去年一年生で県代表になったんだろ? もしかして、あいつと会ったことあるんじゃないか?」
それでも答えない。樹海の視線は、監督と話し込んでいる徹に釘付けのままだった。
「おい、聞いてるのか?」
「新しいやつの話はもういい。聞き飽きた」
樹海の声に突然鋭さが走り、友人たちは面食らった。
「なんだよ、どうしたんだよ」
樹海はまた黙り込んだ。
友人が重ねて言う。
「あいつ、帰り支度してるみたいだぞ。部活ももう終わりだしな」
もう一人が付け加えた。
「明日、練習試合があるだろ。おまえ、シングルスであいつに挑んでみるか? あいつ、シングルスの選手だって話だぞ」
今度は樹海が答えた。
「わからない」
「なんだよ、おまえもシングルスの選手だろ? あいつの実力が気にならないのかよ」
もう一人が口を挟んだ。
「それを聞いても無駄だって。あいつの試合、昔テレビで放送されてたし、名前で検索すればネットにいくらでも動画があるし……」
「マ、マジかよ……」
「俺も見てないけど、『高尾徹』ってGoogleに入れたら……まあ、あとはわかるだろ……」
樹海が突然、苛立ったように言った。
「あいつの話はもうやめろって言っただろ」
友人たちは一瞬で黙り込んだ。
樹海は立ち上がった。
「俺は帰る。明日、さとるとやる」
さとるはにやりと笑った。
「勝てるもんならな」
樹海が監督に挨拶をするために歩いていく後ろ姿を、彼は笑いながら見送った。
一方、徹と和美は一緒に帰り道を歩いていた。家はそう遠くない。和美は何かを言おうとしては、言葉が出る前に失ってしまう、という様子を繰り返していた。視線は前の道に据えられ、沈みかけの夕日でも、頬にのぼった薄紅色を隠しきれなかった。
先に沈黙を破ったのは徹だった。
「明日の練習試合、相手はどうやって決めるんだ?」
「あ、ああ……うん……き、決められないなら、監督に頼めば誰かと組んでくれると思うけど」
「ランダムなのか?」
「わからない……」
それから徹は言った。
「俺とやってみるか?」
「え、えっ? な、なんで?!」
「まだ部員のことよく知らないからさ。おまえがダブルスの選手なのは知ってる……嫌ならいいんだ……」
「嫌とかじゃなくて……今はダブルスから離れられないだけ。大会が近いし、監督もそのへんすごく厳しいから……」
少し間を置いて、和美は続けた。
「よかったら、明日は千秋に頼んでみようか? 前にあの子とやったことあるでしょ? まあ、最後はああなったけど……」
「あはは……千秋ちゃんがいいなら、俺は誰とでもやるよ」
和美はためらい、それから尋ねた。
「そういえば、茜とはどうなの……け、喧嘩したって聞いたけど!」
突然の質問に少し戸惑いながら、徹は何気なく答えた。
「仲直りしたよ。正直、前より仲良くなった気がする」
彼は笑った。
気がつけば、ふたりは分かれ道に着いていた。
「和美、また明日な」
徹が言った。
彼女の返事はほとんど聞こえないほど小さかった。
「またね……」
そして、突然駆け出して自分の家の方へ走り去っていった。
徹はその後ろ姿をただ見つめることしかできなかった。予測不可能な彼女の行動には、とっくに慣れていたはずなのに。
家に帰る前、徹はコンビニに寄って、昨晩妹にねだられていたお菓子を買った。店を出ようとしたとき、誰かとぶつかりそうになる――樹海だった。
入口を塞いでしまったことに気づき、徹はすぐに「すみません、どうぞ」と言って道を譲った。制服を一目見ただけで同じ学校だとわかり、徹は挨拶しかけた――しかし、目が合った瞬間、樹海の視線に宿る冷たく重い何かを見て、思いとどまった。
「上級生……?」
そう思いながら、徹は家への道を急いだ。
数分後、「ただいま」と徹は玄関をくぐった。父と母が出迎え、ソファでくつろいでいた妹が早速叫んだ。
「約束のデラックスチョコプリンはどこ?」
「着替えくらいさせてくれ」
しばらくして、高尾家は夕食を囲んだ。父が、バドミントンを再開した今の調子を尋ねた。
徹は軽く答えた。
「全部うまくいってるよ。最初は慣れるのが大変だったけどね」
「それも無理はない。三年以上もラケットを握っていなかったんだ。焦らずにな。それから、無理はするなよ」
母が付け加えた。
「新しいシューズ、もう調べてあるのよ。いつものお店に、あなたの好きなモデルの大きいサイズがあるって。買っておきましょうか?」
「いや、後で自分で買うよ」
母は続けた。
「和美ちゃんにシューズを借りたお礼も、忘れちゃだめよ」
「わかってる」
妹が口を挟んだ。
「お兄ちゃん、また大会に出るの?」
今度は徹が黙り込んだ。両親は、彼を見つめながら待っていた。
「わ、わからない」
それを聞いて、父はあることを明かした。
「徹……メディアの人間から連絡があった。おまえがまたバドミントンをやっていることを知っているらしい。できるだけ早く取材をしたいそうだ」
「あなた! まだその話は早いって言ったでしょ!」
「ちょっと待って、なんで知られてるんだ?」
徹はあからさまに戸惑っていた。
「詳しくは言っていなかったが、おまえがバドミントンの練習をしている動画をネットで見たと言っていた」
母が推測を口にした。
「もしかしたら、そこにあなたのファンがいて、練習してるのをこっそり撮ったのかもね」
父は続けた。
「要するに、徹――こんなことを言うのは申し訳ないし、おまえには重荷になるかもしれないが――世界はおまえの復帰を待っているんだ……」




