気が遠のく朝
「早くそこから離れて!」
銃こそは持ってはいなかったが、思ってもいない恰好をした人物の登場に篤司の動きが止まった。
そんな篤司に苛立ちを覚えたようにガスマスクの声が大きくなる。声の感じから女性のようだが、マスクのせいではっきりしない。
「えっと……これ僕のテントなんで……」
「いいから!離れてって言ってるのがわからないの?」
「いや、ちょっと待てよ!」
自分の言葉をさえぎる口調が更に強くなったのにつられて、篤司の声が大きくなった。男の大きな声にガスマスクがビクっとしたのがわかる。
「あ、すみません。でも、いきなり現れて、一体何なんですか?これは僕のテントです。何で……」
「近づいたら指の一本は覚悟しなさいよ!」
ガスマスクはまた篤司の言葉をさえぎり、今度は物騒なことを言い出す。
「え?指って?一体何言ってるんですか?あなたが……」
「いいから早くそこから離れてよ!何でわからないの!」
「いや、わかる訳ないでしょう!あなたが僕の指を折るとでも言うんですか?」
「はぁ?何でそうなるのよ?」
「ていうか、あのボーリングのボールはあなたの物なんですか?」
「ボーリングのボールって……君はアレが何だかわからないとでも?」
「だからわかる訳がないって言ってるでしょう!そもそも、あなたは一体……」
篤司は相手と全く会話にならない会話の途中で、息苦しさとめまいを感じていた。大声を出したせいだろうか。理解が追いつかないせいだろうか。
こんなことは今までなかった。いや、一度中学生の頃40度近い熱が出た時に似ているかと思いながら、膝をつき倒れ込んだ篤司は意識を失った。
「え?ちょっとうそでしょ?ねぇ君!大丈夫?!大丈夫ですか?!」
驚いた迷彩服が倒れた篤司のそばに駆け寄り、しゃがみ込んで肩を叩き声をかける。反応がないとみると、今度はグローブを外し白く細い指で篤司の鼻からはきだされる呼気を確認する。篤司の呼吸はしっかりしていた。
そのことに安心したように、迷彩服はテントに向かい声をかけた。
「コロちゃーん!コロマルちゃーん、帰るよー!」
篤司が目を覚ましたのは、堅いベッドの上だった。
見覚えないの無い天井に、ここはどこで、俺何してたんだっけ?と寝起きのぼんやりした頭で考えようとした時。
トントントン
ノックの音がした。
「え、あ、はい」
篤司が音につられて返事をすると、カラカラと引き戸が開き、真っ先に珈琲の良い香りが入ってくる。
次に白衣を引っ掻け、黒縁メガネをかけた色白の女性が入ってきた。左の掌にマグカップが二つ乗ったお盆を乗せている。
「あ、良かったー!目が覚めたんだねー!」
「え、あ、はい。うっ……」
まるで知り合いのように話しかけてくる全く見ず知らずの女性に、篤司は慌てて身体を起こそうとして、血の気が引くのを感じ動きを止めた。
「あー!まだ寝てていいから!」
「……あ、いえ大丈夫です。急に体を起こしたからだと思います」
今度はベッドに手をつき、ゆっくりと身体を起こす。部屋を見回すと何とも形容し難い部屋だった。
作りはプレハブだろう。が、その簡素な室内に見たことのない機械がぎっしり並んでいる。
自分の枕もとには病院のICUや救命室にある、モニターに数字や横線グラフが表示される機械が置いてあった。
「……飲む?」
女性に珈琲を勧められ、篤司は
「はい」
と素直にマグカップを受け取った。良い香りのする珈琲を一口飲みこむと急に頭が冴えてきたような気がした。篤司はキャンプで飲む珈琲が好きだ。都会でも良い香りはするのだが、山の澄んだ空気の中で淹れる珈琲は格別だった。
「あ、これ美味いですね」
「そお?良かった」
女性はそう言うとベッドに腰掛ける篤司に向かい合うように、置いてあった折り畳み椅子に腰掛け自分もマグカップに口をつけた。
「あの、僕、どうしてここに……」
「あー、そう。そうよね。その前に自己紹介しませんか?」
篤司の言葉をさえぎるように女性が話し始めた。
「私は越智斗貴子。ある国立大学の理工学部生物学科、昆虫学教室の助教授です。簡単に言うと昆虫学者ね」
「昆虫学者……大学の先生がなんで?」
「はい!君!質問の前に自己紹介!」
「あ、はい。僕は馬場篤司といいます。この春食品メーカーに正採用されました。今は工場勤務で管理の仕事をしています」
越智と名乗る女性のいかにも先生っぽい口調につられ、この春まで学生だった篤司は答えてしまう。
「馬場篤司さんね。では、馬場さん、あなたはなぜあそこにいたのですか?」
「え?ちょっと待ってください。僕の質問は……」
「こちらも聞きたいことがいくつかあります。あなたの質問にも答えるので先に質問させてください」
「ええ……」
突然の事務的な越智の物言いに篤司は曖昧に返事をする。
「では、質問。あなたはいつから、何の目的であそこにいたのですか?あそこまでのルートは?」
「え、ちょ、質問、多くないですか?」
「いいから早く答えてください」
越智の勢いに負け、篤司は昨日キャンプ場までバイクで来て、登山をして、あそこにテントを設置して、と経緯を話す。
「何故キャンプ場に戻らずにあそこに設営したのですか?」
「何故って……どこに設営しようが僕の勝手じゃないですか」
「何を言っているのですか。自治体の許可のないところではキャンプはできませんよ?あなた登山計画書は出したのですか?」
「え?この山くらいじゃ誰も出しませんよ」
越智のはぁと厭きれたようなため息が聞こえた。
「まぁいいわ。じゃあ、ここからが本題。あの場所の情報でどこで仕入れたの?」
「は?」
越智の声色に若干凄味が混ざり、今度は篤司が間の抜けた返事をする。
「へえ、しらを切るんだ。あそこ寝心地どうだった?」
「寝心地?ですか?」
「フカフカだったでしょ。あ、それともお友達がちょっと騒がしかったかしら?」
越智の今までとは全く様子の違う物言いに驚いたが、篤司は昨夜のことを思い出した。
「え?昨夜はカサカサって音がすごくて全然眠れなくて。って、何で知って……」
「あははー。あそこいい場所だもんね。あ、テントに危害加えられた?大丈夫だったでしょ?」
「え?あ、いえ。音だけで危害は何も……って、まさかあなたがあれを操作してた犯人なんですか!?」
確信を持った篤司は言葉に力を込め、笑って話す越智を睨みつける。
「は?操作?犯人?何を言ってるの?犯人はあなたで……」
「くっそ!あんなおもちゃで僕のテントをボロボロにして!弁償してくださいよ!この夏のボーナスで買った新品なんですから!」
「ちょっと!おもちゃとはひどい言い方ね!あんたたちみたいな密猟者からすればおもちゃかもしれないけど、れっきとした生き物なのよ!」
と、お互い大きな声を出す。篤司は肩で息をつき、越智は顔を真っ赤にし涙目になっている。
お互いの様子に篤司は落ち着こうと冷めた珈琲をゴクゴクと飲み干す。越智も同様に一口含むとコクンと飲みこんだ。
それが合図だったかのように今度は篤司がゆっくりと話し始めた。
「先生、大きな声を出してすみません。もしかして、先生は僕のことを誤解をしているのではないでしょうか?」
「誤解?」
「そうです。先生が今生き物と言ったのは、今朝僕が見たボーリングのボールのことですか?」
「だから、あれはボーリンクのボールじゃなくて!」
「じゃあ、あれは一体何なんですか?」
篤司の本当にアレが何なのか知らない様子に諦めたように越智が答えた。
「あの子はコロマル。『ダンゴムシ』のコロマルよ」




