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第9話 商人とは、帳簿で喧嘩しろ

「先に申し上げておきますが、ベルガ商会は黒塔への小麦納入を止めるつもりはございません」


 応接室へ入るなり、ベルガ商会の番頭マルセルはそう切り出した。


「こちらも、取引を打ち切る話をするつもりはない。まず用件を聞こう」


「ありがとうございます。その点を誤解されたままでは、話が進みませんので」


 四十歳前後だろうか。


 茶色い髪をきっちり撫でつけ、濃紺の上着にも皺がない。食料の短納品と北壁の補修、その両方にベルガ商会の名前が出ていたから、もう少し胡散臭い男を想像していた。


 だが、目の前のマルセルは落ち着いている。


 もちろん、見た目がまともだから信用できるという話でもない。


 俺は向かいへ座った。


 隣にはガイラス。机の上には黒塔とベルガ商会の契約書、それから昨日届いた小麦百袋の受領記録がある。


 今回は袋数も中身も確認し、帳簿との差はなかった。


「書状には、黒塔が近隣の村から豆と芋を買い始めた件を確認したいとあったな」


「はい」


「契約書を見る限り、豆と芋はベルガ商会から独占的に買う品目には入っていない」


「その通りです。別の相手から購入されたこと自体に異議はございません」


「では、問題は何だ?」


 マルセルが契約書の写しを開いた。


「小麦です」


「注文量の話か」


「はい。これまで黒塔は、一度の定期納入につき百袋以上をご注文くださいました。その数量を前提に、現在の単価を設定しております」


 豆や芋を食事へ組み込んだことで、小麦だけに頼る必要は減った。


 昨日の百袋も無駄にはならないが、この先も毎回同じ量を買い続ける必要があるかは別だ。


「次回以降、小麦を減らすと単価が変わる?」


「七十袋まで減れば、一袋あたり一割二分ほど上がります。八十袋なら六分、九十袋なら三分ほどです」


「ずいぶん差があるな」


「小麦そのものの値段だけではありませんから」


 マルセルは指を折る。


「御者の賃金、馬の飼料、護衛、荷車の整備。荷を百袋から七十袋へ減らしても、黒塔まで一便走らせる費用が三割減るわけではありません」


 筋は通っている。


「ガイラス。現在の食事内容を維持した場合、一便あたりどの程度が妥当だ?」


「今すぐ断言するなら八十袋です」


 以前なら、


『計算しておりません』


 と返されたところだが、今回は書状が届いた時点で先に数字を出していたらしい。


「七十では?」


「平常時なら足ります。ただし、一度納入が遅れただけで余裕が小さくなりすぎます。黒塔は囚人八百二十四名に看守百二十七名。千人近くの食料です。七十袋まで削るのは勧めません」


「俺も同意見だ」


 少しの節約で、街道が止まった瞬間に食料が尽きるようでは意味がない。


 そこで一つ気になった。


「マルセル。今の契約は、小麦そのものと運送の費用をまとめて一袋いくらで計算しているんだな」


「はい」


「なら、分けられないか?」


 マルセルが目を上げる。


「小麦一袋の価格と、黒塔まで一便運ぶ費用を別にする。八十袋でも九十袋でも、同じ荷車で来るならその方が分かりやすい」


 隣でガイラスが頷いた。


「妥当ですな。運送費が別なら、注文量が変わるたび一袋あたりの単価を計算し直す必要もない」


 マルセルは少し考えてから答えた。


「可能です。ただし、定期便とは別に急な追加注文をいただく場合、運送費は通常より高くなります」


「新しく御者や荷車を用意する必要があるからか」


「その通りです。おおよそ通常の五割増しになります」


「なら、追加便を出さなくて済む程度の余裕は持たせる」


「私どもとしても、その方が助かります」


「基本八十袋。必要量に変化があれば早めに知らせる。それでどうだ?」


「異論ございません」


「納品時は、黒塔側でも袋数を数える。中身も抜き取りで確認する」


「もちろんです」


 そこで、机の上の空気が少し変わった。


「帳簿では百袋、実際は八十袋という納入は、二度と認めない」


 マルセルの表情が硬くなる。


「その件についても、本日ご説明するつもりでした」


 新しい書類が差し出された。


「弊商会で内部を調査しました。以前問題となった納入について、百袋分を請求しながら、黒塔へ八十袋しか出していなかった事実を確認しております」


「関与した者は?」


「仕入れ担当が一名。荷運びを取り仕切っていた者が一名です。それに、黒塔側のロアン」


「三人で余らせた小麦を別へ流していた?」


「はい。売却した金を分けていたようです」


「商会ぐるみだった証拠は出たか?」


「現時点では出ておりません」


 そこは分けて考える。


 ベルガ商会の人間が二人関わった。


 だから商会全体が共犯だ、と即座に決めるつもりはない。


「確認できた二十袋分はどうする?」


「返金いたします」


「過去分は?」


「調査を続けます」


 マルセルは別の帳簿を開いた。


「ロアンが一年ほど前から関わっていたと話している以上、それ以前の納入も照合する必要があります。ただし、一年分すべてを今日までに確認することはできませんでした」


「それでいい。今日だけで全部分かったと言われる方が信用できない」


 ガイラスも頷く。


「黒塔側にも一年程度なら受取記録がかなり残っております。保存状態は良くありませんが、照合は可能です」


「ベルガ側は、どれくらいで揃う?」


「十日ほどいただければ」


「黒塔側からも記録係を付ける。双方の帳簿を突き合わせよう」


「承知しました」


「ほかにも不足が確認できた場合は?」


「その分も返金いたします」


「それで進めよう」


 過去の金を今日一日で全部決着させる必要はない。


 確認できた分から返させ、その数字を記録に残せばいい。


「関与した二人はどうした?」


「一人は商会から外し、町の衛兵へ引き渡しました。もう一人は二日前から姿を消しています」


「逃亡した可能性が高いか」


「はい」


「名前と人相書きを一部置いていってくれ。黒塔周辺へ現れた場合に確認できるようにしたい」


「用意しております」


 マルセルはすぐ別の紙を出した。


 準備がいい。


 商人として当然なのかもしれないが、少なくとも話は早い。


     ◇


「もう一件確認したい」


 俺は北壁の補修記録を机へ出した。


「排水路ですね」


「商会側にも問い合わせが行ったか」


「はい」


 北壁には十二本の排水経路があり、その出口が石と瀝青で塞がれていた。


 今はノエラたちが調べているが、一ヶ所や二ヶ所ではない。


 十二ヶ所すべてだ。


「二ヶ月ほど前に北壁へ入った職人は、ベルガ商会が手配したんだな?」


「正確には、弊商会から町の石工組合へ人選を依頼しました。その後、三つの職人組を黒塔へ候補として提示しています」


「最終的に最も安い組を選んだ」


「はい」


 マルセルが一度言葉を切る。


「決定したのは、ディルク所長です」


「俺の名義で残っているわけだな」


「はい。費用をできる限り抑えるよう、強く求められております」


 今さら驚きはしない。


 安い業者を選ぶこと自体が悪いわけでもない。


 安くて仕事ができるなら、それに越したことはない。


「問題は工事後だ。完成確認は誰がする契約だった?」


「黒塔側です」


「その記録が見つからない」


「弊商会にも、完了確認の写しは届いておりません」


「ベルガ商会側では現場を見なかった?」


「契約上、弊商会の役割は職人の手配までです」


 そこも契約書に書かれている。


 ベルガが職人を探し、黒塔へ候補を出す。


 誰を雇うか決めるのは黒塔。


 工事終了後、出来を確認するのも黒塔。


 その最後が抜けている。


「つまり黒塔は、工事終了の報告を受けて金を払い、誰も出来を確かめなかった可能性が高い」


「記録を見る限りは」


 マルセルは言い逃れをしなかった。


「ただ、弊商会が手配した職人である以上、まったく責任がないと申し上げるつもりもございません。当時の職人組について、こちらでも調査を始めています」


「組頭は今も町に?」


「おります。ただし、当時黒塔へ来た者全員が現在も所属しているかまでは確認できておりません」


「作業者の名簿は残っているか?」


「こちらです」


 また書類が出てくる。


 組頭の名。


 黒塔へ来た職人たち。


 請負額。


 使用したと申告されている石材や瀝青。


「この写しを一部もらえるか?」


「そのために持参しました」


「助かる」


 マルセルが少し間を置いた。


「こちらからも、一つお願いがございます」


「聞こう」


「ベルガ商会が意図的に黒塔の壁を壊そうとした、という噂が出ているそうです」


「監獄の外にまで広がっているのか」


「荷を運ぶ者の耳にも入りますので」


 短納品。


 北壁。


 二つ続けてベルガの名が出たのだから、そう考える人間が出るのも無理はない。


「現時点で、俺はベルガ商会が北壁を壊したとは判断していない」


 マルセルがこちらを見る。


「短納品については、お前たちの商会員が関わっていた。だから調べる。北壁についても、ベルガが職人を手配している。だから調べる」


「はい」


「だが、一つで不正があったからといって、別の件まで同じ犯人だと決めたら調査にならない」


「……ありがとうございます」


「礼を言われる話じゃない。資料は全部出してくれ。それで判断する」


「もちろんです」


 黒塔の中には、ベルガ商会とまったく関係のない管理不良もいくつもあった。


 第三井戸の汚染は、長期間放置された汚水槽の亀裂が原因らしい。


 採石場の危険な運用も、ベルガとは無関係だ。


 何でも一つの悪党へまとめれば話は分かりやすい。


 だが、監獄はそんなに都合よく壊れてはいなかった。


     ◇


 その後、新しい取引条件を詰めた。


 小麦は一便八十袋を基本とする。


 小麦そのものの代金と運送費は分ける。


 納入時には双方で袋数を確認し、中身も抜き取りで確認する。


 不足があれば記録した上で補填する。


 豆や芋など、契約対象外の品を黒塔が別の相手から買うことは妨げない。


 ベルガ商会も同じ品を扱えるなら、見積もりを出していい。


「支払期限についても、明文化していただきたいのですが」


 マルセルが言った。


「これまではどうなっていた?」


「期限自体はございます。ただ、実際の支払い時期にはかなり幅がありました」


 誰のせいかは聞かなくても想像できる。


「新しい条件では、納品確認から十日でどうだ?」


「王国施設ですので、十五日で構いません」


「商人側から期限を延ばすのか」


「無理な期限を決めて遅延扱いにするより、実際に守れる期限を設定する方が互いに得です」


「なるほど。十五日にしよう」


「承知しました」


 ガイラスが出来上がった条件書を確認する。


「こちらは問題ありません」


「マルセルは?」


「異論ございません」


 結局、ベルガ商会との取引を切る話にはならなかった。


 不正に関わった人間は調べる。


 不足分は返させる。


 それとは別に、黒塔へ定期的に大量の小麦を運べる商会は使う。


 全部を敵か味方かで分ける必要はない。


「一つ確認させてください」


 ガイラスがマルセルへ向き直った。


「街道事情で定期便が遅れた場合、これまで最長でどの程度遅れていますか?」


「大雨で道が崩れたり、橋が傷んだりした場合ですと、一週間近く遅れた例がございます」


 ガイラスの眉が寄った。


「やはり、通常在庫とは別に非常用備蓄を持つべきですな」


「今の黒塔にはないのか?」


「備蓄らしい備蓄はありません。食料庫に入っているものを順番に使っているだけです」


「必要量は計算できる?」


「現在の消費量と保管可能量を確認してから出します。明日の昼までには」


「頼む」


 追加で小麦を買う場合の条件だけ、マルセルにも確認しておいた。


 早めに数量を知らせれば対応できるらしい。


「では、本日はこれで失礼いたします」


「過去一年分の納入記録も頼む」


「十日以内に揃えます」


「こちらも同じ期間で照合できるところまで進める」


 マルセルが立ち上がり、一礼して応接室を出ていった。


     ◇


 夕方。


 ガイラスが執務室へ戻ってきた。


「非常用備蓄の計算は、明日の昼までだったな」


「その予定です。ただ、計算する前に一つ問題が出ました」


「何が足りない?」


「場所です」


「食料庫は使えないのか?」


「現在分だけでも余裕は大きくありません。余剰を積み上げれば、古い袋を奥へ押し込み、先に傷ませることになります」


「薪倉庫は?」


「七割ほど埋まっています。それに食料を薪と同じ環境へ置くのは勧めません」


 当然だ。


「空いている倉庫はないのか?」


「すぐ使えるものはありません」


 南棟の旧作業倉庫は臨時療養室として使っている。


 そこへ小麦を積むわけにもいかない。


「閉鎖した建物なら?」


「いくつかあります。ただし、長く使われていないため状態が分かりません」


 窓から中庭を見る。


 板で入口を塞がれた石造りの建物。


 屋根の一部が傷んだ旧作業場。


 使われなくなった武具修理所。


 黒塔には、理由も分からないまま放置された場所が多い。


「新しく建てる話は最後だ。まず既存の建物を調べよう」


「ノエラ殿を呼びますか?」


「北壁からは外さない。まず閉鎖区画の一覧を出して、使えそうな場所だけを見る」


「承知しました」


 その日のうちにグラッドへ調べさせた。


 古い洗濯場。


 使われなくなった武具修理所。


 屋根の傷みで閉鎖された小倉庫。


 そして、十六年前から使用記録が途絶えている石造りの建物が一棟。


「旧東倉庫、とあるな」


「はい」


「何を保管していた?」


 グラッドが古い台帳をめくった。


「記載がありません」


「閉鎖した理由は?」


「そちらも残っておりません」


「鍵は?」


「保管庫に一本あります。ただ、今でも開くかどうかは分かりません」


「明日の朝、確認しよう」


     ◇


 翌朝。


 グラッドと看守二人を連れ、旧東倉庫へ向かった。


 石造りの平屋。


 窓は細く、入口には古い板が打ち付けられている。


「最近、人が出入りした形跡は?」


「見当たりません」


 板を外し、錆びた鍵を差し込む。


 一度では回らない。


 何度か押し込みながら捻ると、内部で重い音がした。


 扉を押す。


 湿った古い空気が、ゆっくり外へ流れ出した。


「倉庫……ではなさそうだな」


 荷物はない。


 棚もない。


 代わりに、石壁へ文字が刻まれていた。


 名前。


 名前。


 また名前。


 古く薄れたものから、比較的新しく見える傷まで、壁のあちこちに残されている。


 その周囲には、短い線や印も刻まれていた。


 グラッドが入口で足を止める。


「所長」


「どうした?」


「ここは、倉庫ではありません」


 顔色が変わっている。


「古い記録で、一度だけ別の名称を見た覚えがあります」


「何と呼ばれていた?」


 グラッドは壁に残る名前を見たまま答えた。


「処分房です」




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