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第10話 その壁の名前を消すな

「処分房です」


 旧東倉庫の入口で、グラッドがそう言った。


「処分房というのは、処刑場じゃないんだな?」


「違います。規律違反を起こした囚人を一時的に隔離し、正式な懲罰が決まるまで入れておくための部屋です。少なくとも、制度上は」


「『制度上は』というのは?」


 グラッドは薄暗い室内へ目を向けた。


「かなり荒い使われ方をしていた時期があった、と聞いたことがあります」


 石造りの平屋で、細い窓には鉄格子がはめられている。


 昼間でも室内は暗く、寝台も棚もない。石壁には、誰かが刃物か石片で刻んだらしい名前や短い文字が、隙間を探すのも難しいほど残されていた。


 浅い傷もあれば、爪では到底つけられそうにない深い線もある。途中で文字が途切れているものまであった。


「正式には、いつまで使われていた?」


「十六年前までです。王都から懲罰手続きを改める通達が出た後、現在の懲罰房へ一本化されたはずです」


「それから記録上は倉庫扱いになったのか」


「おそらく」


 俺は壁へ近づいた。


 人の名前らしい文字の下に、同じ形の縦線を何本も刻んでいる場所もある。


「所長」


「何だ?」


「倉庫へ転用するのであれば、壁を削って整えますか?」


「触るな」


 グラッドがこちらを見る。


「この名前が誰のものか、何のために残されたかも分かっていない。調べる前に消したら二度と戻せないだろ」


「しかし、相当な数です」


「読めるものから全部写す。囚人台帳とも照合しよう」


「数百あるかもしれません」


「だから記録係を使う」


 グラッドは少し考えた後、頷いた。


「二名回します」


「頼む。それと調査が終わるまで、この部屋は使用禁止。出入りした人間も記録してくれ」


「承知しました」


 非常用の食料を置く場所を探していただけなのに、面倒な扉を開けてしまったらしい。


     ◇


 午前中いっぱい使って壁を確認し、判読できた名前は百三十七。


 同じ名前が複数刻まれている場所もあるため、百三十七人いたという意味ではない。


 記録係に古い囚人台帳と照合させていると、昼前に報告が来た。


「所長。現在も収容中の囚人と一致する名前があります」


「何人いる?」


「九名です」


 十六年前に閉鎖された部屋だから、長期刑の囚人なら名前が残っていても不思議ではない。


「その九人の入所時期は?」


「ばらばらです。ただ……もっとも新しい者は三年前に黒塔へ入っています」


 それはおかしい。


「同姓同名の可能性は?」


「否定できません」


「なら本人へ確認しよう」


     ◇


 最初に呼んだのは、五十歳ほどの男だった。


 現在は洗濯場で働いている。


 壁から写し取った名前を机の上へ置くと、男の表情が明らかに変わった。


「これ、お前の名前だな?」


「……どこにありました?」


「東側にある、閉鎖された石造りの建物だ。そこへ入れられたことはあるか?」


 男はしばらく黙った後、頷いた。


「あります」


「時期は?」


「三年ほど前です」


 同姓同名ではない。


 グラッドの表情が硬くなった。


「なぜ入れられた?」


「同房の男と殴り合いになりました。その日の夜です」


「正式な懲罰はどうなった?」


「翌朝から五日、懲罰房へ」


 記録係が台帳を確認する。


「懲罰房五日間の記録はあります」


「その前夜の移動記録は?」


「ありません」


 俺は男へ向き直った。


「東の部屋には朝までいたのか?」


「はい」


「水や食事は?」


「水はありませんでした。飯も出てません」


「拘束は?」


「入れられた直後だけ縛られました」


「暴力は受けた?」


 男は少し迷ってから頷く。


「騒ぐな、と一度殴られました」


「誰にやられた?」


「分かりません。暗くて顔までは」


「看守だったことは分かる?」


「制服は着ていました」


 今度はグラッドを見る。


「閉鎖後にもこんな使われ方をしていたと知っていたか?」


「知りません」


「報告を受けた記憶もない?」


「ありません。正式に閉鎖された部屋を使っていたのであれば、私の管理不足です」


 言い逃れをする様子はなかった。


「囚人の間では何と呼ばれていた?」


 男が答える。


「東の冷やし部屋です」


「古株なら知っていた?」


「たぶん」


「看守側も?」


「知ってる人はいたと思います」


 もう一人にも聞いた。


 四十代の囚人で、二年前に作業場で看守と言い争った日の夜、この部屋へ入れられたという。


 翌日から正式な懲罰房へ三日。


 やはり、その前夜だけ移動記録が残っていない。


「連れてきた看守は何人だった?」


「二人です」


「名前は覚えているか?」


「一人はもう辞めたと聞きました。もう一人は、今もいると思います」


「誰だ?」


「名前は知りません。顔なら分かります」


「今はそれでいい」


 グラッドが俺を見る。


「本人を確認しないのですか?」


「する。ただし先に当時の勤務表を確認しよう」


 囚人がそう言った。


 それだけで看守を犯人扱いしたら、申立てを受け付け始めた意味がない。


「実際にその夜勤務していたのか、他の証言と合うのか。その順番だ」


「承知しました」


「それと、今夜から夜間に房を出た囚人は全員記録してくれ」


「記録項目は?」


「囚人名、房番号、出した時刻、移動先、理由、同行した看守、戻した時刻」


「医務室への緊急搬送も含めますか?」


「当然だ。理由欄へ医務と書けば済む」


「分かりました」


 これまでの夜間点呼は、房ごとの人数を外から数えるだけで済ませることが多かった。


 一房に十五人以上入っている時期もあり、暗い中で横になっている人数が合えば、個人台帳へも前日の内容をそのまま引き継ぐ。


 それでは、誰がいつ房から消えたのか後から確かめようがない。


 ルース・バーデンが本当に夜の房へ戻ったのかさえ、今になって確認できない原因の一つだ。


「東の部屋の鍵はどうする?」


「私が預かります」


「頼む」


 非常食用の倉庫候補は一つ消えた。


 ここへ小麦を積もうとは、もう思わない。


     ◇


 昼過ぎ、ドルガンを呼んだ。


 主任権限は停止したまま。


 武器も持たせていない。


 採石場ではハロルの指揮下に置き、危険箇所について助言するだけだ。囚人へ直接命令することも、触れることも認めていない。


「東の冷やし部屋を知っているか?」


 ドルガンの眉が動いた。


「どこで聞いた」


「知っているんだな」


「……ああ」


「正式には十六年前に閉鎖されている。それも知っていた?」


「ああ」


 グラッドの表情が険しくなる。


「なら、なぜ報告しなかった?」


「俺がここへ来た頃には、夜中に暴れた奴を朝まで隔離する場所として普通に使われてたんだよ」


 ドルガンは苛立った声を上げた。


「懲罰房が埋まってる時や、すぐ元の房へ戻せねえ奴が出た時にな。規則に載ってねえのは知ってた。だが夜番が使う場所として昔から残ってたんだ」


「お前自身が使ったことは?」


「二回ある」


 逃げずに答えた。


「一人は採石場で尖った石を隠してた奴。もう一人は看守の顔を殴った奴だ」


「二人とも、お前が東へ入れろと指示したのか?」


「一人だけだ。もう一人は夜番へ引き渡してからは知らねえ」


「中で殴ったことは?」


「俺はやってねえ」


「他の看守がやっていたかは?」


「知らねえよ。俺は夜番じゃねえ」


 そのまま記録させる。


「ルース・バーデンについて聞く」


 ドルガンの顔から、さっきまでの苛立ちが少し消えた。


「ルースがあの部屋へ入れられたところを見たことは?」


「ねえ」


「最後に生きているところを見たのは?」


「夕方だ。前にも言っただろうが」


 声が荒くなる。


「歩いてたし、『だから石が緩いって言っただろうが』って俺に文句まで言ってやがった。夜番へ引き渡した後は俺の担当じゃねえ」


 以前の聞き取りと内容は一致している。


「ルースを東の部屋へ送れと指示したことは?」


「言ってねえ」


「分かった」


 ドルガンが俺を見る。


「何なんだよ。あいつの名前でもあったのか?」


「今はまだ確認中だ」


「だったら確認してから聞け」


「お前があの部屋の存在を知っていたかどうかも、確認の一つだ」


「使ったことまで言ったぞ。これでまた採石場から外すのか?」


「その件は別に判断する」


「好きにしろ」


「ハロルの指示は守れ」


「分かってるよ」


 ドルガンは吐き捨てるように答え、部屋を出た。


 非公式の隔離場所を使っていたことは問題だ。


 だからといって、それだけでルースの死亡までドルガンへ結びつけるつもりはない。


 仮にルースがこの部屋へ入れられていたとしても、ここで死んだ証拠にはならない。


     ◇


 過去の調査だけで一日を終えるわけにもいかない。


 冬に備えた食料の置き場所は、まだ必要だった。


 午後はグラッドと閉鎖区画を回る。


 最初の古い洗濯場は、床が湿っていた。


「食料は置けないな」


「薪も長期間置けば傷むでしょう」


 却下。


 次の小倉庫は屋根が傷み、室内から空が見えている。


「直せるか?」


「可能ですが、かなり手間がかかります」


「後回しだ」


 三ヶ所目は、使われなくなった武具修理所だった。


 石壁に大きな損傷はなく、屋根も無事。床も乾いている。


 格子付きの窓があり、入口も荷物を運び込めるだけの幅がある。


「ここはいつまで使っていた?」


「三年前までです。看守の盾や防具を修理していました」


「使わなくなった理由は?」


「門衛棟の横に新しい修理場所を設けたためです」


「そのまま放置していたのか」


「はい」


「もったいないな」


 ガイラスを呼んだ。


 中へ入ったガイラスは、壁と床を確認した後、窓際へしゃがみ込む。


「備蓄用の食料庫に使えるか?」


「使えます。ただし、このまま袋を積むのは勧めません」


「必要な作業は?」


「小麦袋を床へ直置きしないための台が要ります。壁からも少し離して積むべきです。それと、鼠の侵入口がないか確認を」


「ほかには?」


「扉の鍵が古い」


 グラッドが鍵を確かめる。


「交換します」


「収容量はどの程度になりそうだ?」


「寸法を測ってから計算します」


「頼む」


 ガイラスが縄を取り出して測り始める。


 俺はベンも呼んだ。


 家具職人として働いていた囚人だ。


「小麦袋を床から浮かせる木の台を作れるか?」


「作れます」


「材料は足りそう?」


「壊れた寝台と、使わなくなった作業台があります。腐っていない部分を選べば足りると思います」


「まだ使える物まで壊すなよ」


「そこまで飢えてませんよ」


「木材に、だ」


 ベンが笑った。


「一度見て、使える材料だけ選びます」


「頼む」


 特別な天才でなくていい。


 普通に仕事を覚え、十五年、二十年と続けてきた人間なら、その経験に合う場所へ置くだけで役に立つ。


     ◇


 夕方。


 グラッドが一枚の新しい帳簿を持ってきた。


「夜間移動簿を作りました」


 記入欄は七つ。


 囚人名、房番号、出した時刻、移動先、理由、同行した看守、戻した時刻。


「今夜から全棟で使える?」


「はい」


「現場から反発は出そうか?」


「何人かは嫌がるでしょう。ただ、毎晩すべての囚人について書くものではありません。夜間に房から出した場合だけですから、大きな負担にはならないと思います」


「なら始めよう」


 看守の業務を整理した直後に、理由もなく帳簿を増やす気はない。


 これは必要な記録だ。


「所長」


 そこへ記録係が入ってきた。


 壁の名前を照合していた男だ。


「照合が進みました」


「どこまで分かった?」


「読めた百三十七の名前のうち、過去の囚人台帳と一致したものが六十一。現在収容中の九名を加えると七十です」


「閉鎖後に黒塔へ入った人間は?」


「現時点で十八名確認しています」


 やはり、この部屋は十六年前に完全に使われなくなったわけではない。


「懲罰記録との照合も続けてくれ」


「進めています。ただ、確認していただきたい名前が三つあります」


「誰だ?」


 記録係が三枚の紙を机へ置いた。


 一枚目。


 バルト・レイン。


 手が止まった。


 二枚目はヘルム・カーン。


 三枚目には、ルース・バーデン。


 アルヴァン・ギレスの部下だった三人だ。


 三人とも黒塔へ送られ、三人ともここで死んでいる。


「同姓同名の別人じゃないことは確認した?」


「囚人台帳を確認しました。同じ名前の収容者はほかにおりません」


「刻まれた時期は?」


「分かりません」


「本人が刻んだと確認できる材料は?」


「それもありません」


 そうだ。


 今分かっているのは、壁に三人の名前が残っていることだけだ。


 本人たちがこの部屋へ入れられた証拠ですらない。別の囚人が名前を刻んだ可能性もある。


「三人に関する記録を全部集めてくれ。懲罰だけじゃない。医務、作業、夜勤の配置、残っているものは全部だ」


「承知しました」


 バルトは後に肋骨を三本折り、ラッセルが休養を指示したにもかかわらず翌日から採石場へ戻され、十二日後に高熱で死んだ。


 ヘルムは冬に減食処分を受け、十五日目に発熱し、二十一日目に死亡している。


 ルースは作業終了時までは生きていた。


 その後の個人確認は信用できず、三日後に旧採石場区画で遺体が見つかった。


 三人とも死に方が違う。


 この部屋で三人まとめて何かされた、と結論づける材料は今のところない。


 それでも、三つの名前が同じ壁に残っている。


「アルヴァンへ伝えますか?」


 グラッドが尋ねた。


「まだだ」


「三名は彼の部下です」


「だからこそ、名前を見つけただけで話すべきじゃない」


 壁に文字があっただけなのに、


『お前の部下が秘密の処分房へ入れられていた』


 と伝えて、後から違いましたでは済まない。


「先に集められる事実を集める。そのあと本人に確認する」


「承知しました」


 グラッドたちが出ていく。


 俺は机の上の三枚を見た。


 非常食を置く倉庫が足りない。


 始まりは、それだけだった。


 そのために開けた古い扉の向こうから出てきたのは、記録から消えていた黒塔の運用と、今まで別々に見えていた三人の名前だった。


 だからといって、まだ一つの答えにまとめる気はない。


 次に必要なのは推理じゃない。


 三人を知る本人と、残っている記録を突き合わせることだった。




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YouTubeショート動画作ってみました。

https://youtube.com/shorts/_zEBpYRUMc4?si=9bu0xxStFm2Bo5Z8

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