第70話 許さないまま、十枚を受け取る
「受け取ったら、俺が許したことになるんですか。そういう紙なら、判は押しませんよ」
オーゼンは、卓に置かれた受領書へ手を伸ばさなかった。
仕事の途中で来たのだろう。長靴の縁には乾いた土がつき、脱いだ帽子には藁の切れ端が挟まっている。以前、黒塔へ来た時より、日焼けした額の皮が剥けていた。
「許したという書類にはしない。受け取る金の額と、その金が何に対するものかを残すためだ。文面を読んで、違う所があれば先に言ってほしい」
「俺は字を追うのが遅い。読んでもらえるなら、その方がいい」
同席した町の役人が、紙を本人へ向けたまま読み上げた。
ギル・ダーナから、盗まれた家畜の被害に対する任意の支払いとして、小銅貨十枚を受け取る。
オーゼンは、額を聞いた所で目を伏せたが、役人を遮りはしなかった。
読み終わると、帽子の縁を両手で押さえた。
「それだけで、残りを求めないと書いてあるわけじゃないんですね」
「そのような合意は、この紙にはない。被害額や今後の請求まで、黒塔で決めるつもりもない」
俺が答えると、男はようやく受領書へ目を戻した。
卓の上の銅貨は、まだ本人へ渡していなかった。
◇
ギルから金を渡したいという申し出があったのは、数日前だった。
以前の照会への返答で、任意の弁償を取り次ぐ窓口は確認できていた。ただし、黒塔が本人の金を勝手に差し押さえたり、被害者の要求額をそのまま取り立てたりする扱いではない。
その説明を聞いた後、ギルは自分の保管額を確かめたいと言った。
小銅貨十枚。
初めて倉庫の仕事へ出た日の五枚と、翌日、襲撃を受けながら戻った日の五枚だった。後の分も、商人から受け取って本人名義で保管している。
グラッドが台帳を見せると、ギルは数字を指で押さえた。
「これを、あの家畜の持ち主に渡したいんです。十枚、全部で」
「本人へ渡すには、先方が受け取るかも確かめる。まだ渡していない間なら、考え直して構わん」
「考え直したら、出さなくなる気もするんですよね。外の仕事も終わったし、これで何か買えたかもしれないと思い始めると」
ギルは笑おうとしたが、口元が少し動いただけだった。
台帳を持つグラッドは、本人の手が離れるのを待っている。
「だから、今のうちに出したい。あの人が来たと聞いてから、ずっと、家畜の代金をまだ払ってるって話が頭に残ってて」
「金を渡せば、出所した後に何も言われなくなるとは約束できん。十枚を受け取るかどうかも、相手が決めることだ」
「分かってます。これで全部返したとも言いません。ただ、何も払ってないまま、俺だけ金を貯めてるのも、落ち着かないんです」
指が台帳から離れた。
俺はすぐに送金の手配を進めず、使い道や残しておきたい額がないか、もう一度確認するよう担当へ頼んだ。
翌朝になっても、申し出は変わらなかった。
◇
目の前のオーゼンは、銅貨を一枚つまみ上げた。
「これは、あいつが働いた金なんですか。ほかの囚人から巻き上げた物を返したと言われても、俺は困る」
「商人の倉庫で働いた対価だ。二日分を本人名義で預かり、支払いの記録と照らしてここへ出した。他の者の保管金は混ぜていない」
「前に来た時は、あいつを外で働かせていないと聞きました。もう、出してたんですね」
その言葉に、役人が俺を見た。
「禁止していた外部作業は、その後の行動も見て、条件を付けて見直した。候補になってから実際に出したが、今は仕事自体を中止している」
「よいことをしたから許してやったようにも聞こえます。こちらはまだ、家畜の代金を返しているんですよ」
「刑期を減らしたわけではない。外へ出す時の危険を確かめ直し、担当を付けて仕事に出した。その判断への不満なら、こちらで聞く」
オーゼンは、銅貨を卓へ戻した。
窓の外で、門へ薪を運んできた荷車が止まった。看守が御者を呼ぶ声に、男が一度だけそちらを見る。
「俺がまだ借金を返してる間に、あいつは働いて金を貯められる。そう聞いた時は、腹が立ちましたよ」
「以前来た時にも、そう話していたな」
「今も、立ってます。十枚が来たからって、その気持ちがなくなるわけじゃない」
俺は頷き、続きを待った。
オーゼンは銅貨を指で寄せ、一つずつ重ね始めた。五枚まで積んだ所で崩れ、残りは横へ並べる。
「それでも、俺が断ったって、家畜の代金を待っちゃくれないからな。受け取ります。あいつのためじゃなく、うちの金の足しにするために」
役人が、受領書へ指を添えた。
署名か、内容を確認した本人の印を残してもらい、立ち会った者も記録する。オーゼンは読んでもらった箇所をもう一度確かめ、自分の名を、ゆっくり書いた。
紙の上へ置いた手の甲には、細かな傷が幾つもあった。
「これを受け取ったから、あいつと会って話をしなきゃならない、なんてことはありませんよね。今日は、そこまでするつもりはないので」
「面会は求めていない。こちらから勝手に会わせることもしない」
「では、それでお願いします」
男は銅貨を自分の小袋へ移し、紐を締めた。
笑顔はなく、俺へ礼を言うこともなかった。
◇
役人が書類の控えを整える間、オーゼンは椅子へ座り直した。
帰る用意をした後なのに、帽子を被ろうとしない。俺が待っていると、小袋を握ったまま口を開いた。
「あいつは、何と言って渡せと言ったんです。反省してるから、これでどうか、とでも」
「全部を返したとは言わないと話していた。自分だけ金を貯めているのも落ち着かないから、渡したいとも」
オーゼンは、しばらく黙った。
「そんな言い方だったんですか。俺のために、とは言わなかった」
「俺が聞いた時は、そういう説明だった。後から、相手に聞こえのよい理由を足すつもりはない」
「……それなら、そのままでいいです。急に立派なことを言い出したと聞いたら、かえって信用できなくなる」
小袋が、帽子を持つ手の中へ移った。
「俺が受け取ったことは、伝えてください。許したとは言わなくていい。今は、あいつの言葉より、この十枚を受け取ります」
「その通りに伝えよう」
俺が答えると、男はようやく帽子を被った。
戸口まで来た所で、門の外の空を見上げる。
「雨が降る前に、戻らないと。飼い葉を動かしている途中なんです」
看守が門番へ声をかけ、オーゼンを外へ案内した。仕事の合間に来て、十枚を持ち帰り、また家畜の世話へ戻っていく。
ギルからの金を受け取ることは、その男の一日の中の、短い用事に過ぎなかった。
◇
グラッドは、私物保管の担当と台帳を確かめた。
ギルの名義から出した十枚と、オーゼンが受け取った十枚。本人の申し出、受領書、立ち会いの記録を揃えた上で、保管額を改める。
警備や輸送の費用を差し引くことはなかった。取り次ぎについて、こちらで勝手な手数料を付けることもしない。
「これで、本人の保管金はなくなります。次の有償作業は、まだ決まっておりませんな」
「そこは本人にも伝えている。何かあれば黒塔が後で埋める、という約束もしていない」
「ええ。ただ、渡してしまった後で後悔することは、あるでしょうな。取っておけばよかった、と」
グラッドは台帳を閉じず、数字の脇へ日付を書き入れた。
「その時に、こちらが勝手に取ったことにされないよう、説明した内容も残しておきます」
「頼む。本人が決めたことでも、思い返せば不満は出るだろう。相手へ戻してくれと取りに行く話にならないよう、渡す前に確認した記録が必要だ」
保管担当が、ギルへ見せる控えを用意した。
それを受け取りながら、俺は、十枚がもっと大きな額だった場合を考えた。家族へ送りたい者、出所後のために残したい者、被害への支払いに回したい者もいるだろう。
全員が同じ使い方をするわけではなく、本人に任せれば必ずよい選択をするとも限らない。
それでも、本人の対価だと決めた金を、使い方が気に入らないからと取り上げることはできなかった。
◇
ギルは、作業を終えて戻る途中だった。
担当の看守に声をかけ、ほかの囚人の列から離れた所で控えを渡した。受け取る手には、麻縄の繊維がついている。
「オーゼン本人に渡した。ここに、受け取った額と日付が残っている」
ギルは紙を近づけ、数字を確かめた。指先についた麻の繊維が紙へ移り、慌てて払う。拭った手を衣服へ押しつけてから、もう一度持ち直した。
「全部、受け取ってくれたんですね。いらないから返すと言われることも、考えていたんで」
「受け取ると本人が決めた。許したという返事ではないから、そこを取り違えんでくれ」
「会わせろとは、言ってませんでしたか。何を言われても、今日の俺じゃ、うまく返せる気がしなくて」
「今日は会うつもりはないと話していた。お前の言葉より、今はこの十枚を受け取ると。そのまま伝える約束をした」
ギルは紙へ目を落とした。
「十枚が揃った所は、俺も見ていないんですよ。受け取った時は五枚ずつの票だったから。あの人は、数えて持っていったんですか」
「ああ。一枚ずつ確かめて、自分の袋へ入れていた」
ギルの指が、紙に書かれた額の下をなぞった。
隣に立つ看守は口を挟まず、通路を通るほかの者へ、先へ進むよう手で示している。
「怒ってますよね。金が入ったから、もういい、とはならないでしょうし」
「腹は立っていると、はっきり言っていた。だが、十枚を暮らしの足しにするとも」
「そうですか。……使ってくれるなら、よかった」
小さく言って、ギルは紙を折りかけた。看守が保管の控えとして残すことを説明すると、もう一度広げて、自分の名がある所を見た。
「俺の所は、今、何もなくなったんですね。分かってて言ったことですけど、こうして見ると、落ち着かないな」
「残っている金はない。次にいつ稼げるかも、まだ決まっていない」
「それは、聞いてます。これを払ったから、次は優先してくれとまで言ったら、また違う話になるでしょう」
「希望は聞くが、この支払いを理由に人選は変えない。外へ出す条件も、ほかの候補と同じように確かめる」
ギルは頷き、控えを看守へ返した。
「でも、次に稼げたら、今度は俺の分も残したい。出る時に何も持っていないのは、やっぱり怖いんです」
「その希望まで消す必要はない。何に使うかは、その時にも考えればいい」
ギルは、何かを言いかけてやめた。
俺が促さずにいると、口元を擦り、少し間を置いてから続けた。
「払うって言った時、少しは胸が軽くなると思ったんですよ。けど、まだ、あの人に道で会ったら隠れたい気がする」
「十枚を渡したことで、相手の気持ちまで決めることはできんからな。今日、受け取ったと分かった所までを、まずは覚えておけばいい」
「はい。それで、今日は戻ります」
看守が列へ戻る道を示すと、ギルは一歩出て、また振り向いた。
「監獄長。俺、あの仕事に出られてよかったです。襲われたのは御免ですけど、十枚をどうするか、自分で考えられたんで」
俺は頷き、通路を空けた。
◇
夕食前の私物保管室では、担当の看守が控えを綴じていた。
受領の記録は黒塔にも残し、ギル本人へ示したことも記す。オーゼンへ渡した分とは別に、役所の窓口へ回す控えも用意してあった。
廊下を通ると、食堂の入り口でギルが別の男と話していた。声を潜めていたが、相手が少し強く言い返した所だけが聞こえた。
「俺は残すぞ。出たら、まず道具を買いたい。今から全部出したら、また人に借りることになる」
「俺の真似をしろとは言ってねえよ。お前の金まで、俺が決めることじゃないだろ」
ギルはそう返し、配膳の列へ入った。
相手の男も後ろへ並んだが、納得したような顔はしていなかった。木皿を受け取ると、二人とも話をやめ、鍋から注がれる豆を見ていた。
保管室へ戻る途中、グラッドがオーゼンの受領書を持ってきた。
「こちらは確認を終えました。窓口へ渡す分と、黒塔へ残す分も分けています」
俺は文面と額を確かめ、返した。
許すという言葉は、最後までどこにも加えられていなかった。小銅貨十枚を受け取った、その事実だけが、オーゼンの名と一緒に残っている。
グラッドが紙をしまう間、食堂から椀を重ねる音が聞こえた。
俺はそちらへ向かい、入り口を塞いでいた空の桶を脇へ寄せた。ギルはもう席についていて、隣の男に皿の置き場を空けろと言いながら、パンを割っていた。
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