第69話 斬りたい男と、卓を挟む
アルヴァンが布を持つ手を止めたのは、三人の名前を見つけた時だった。
旧東懲罰室には、朝でも冷えた空気が残っていた。戸を開けた看守が灯りを入れると、壁に並ぶ名前の下へ、人の影が重なった。
ラッセルには足首の状態を確かめてもらい、今日は短い移動に留めることになっている。ここまでは手枷を付け、部屋へ入ってから外した。看守は二人とも戸の内側に残っていた。
「文字の所は、そのままにしておいてくれ。下の床なら、布で払って構わん」
俺が言うと、アルヴァンは頷き、膝を折った。
バルト・レイン。
ヘルム・カーン。
ルース・バーデン。
その下に溜まっていた砂を、布へ少しずつ寄せている。大きく手を動かすと埃が舞うので、端から静かに集めていた。
「ヘルムは、自分の名を書けなかった」
壁を見たまま、アルヴァンが口を開いた。
「この三つを見つけた時から、誰が残したのか考えていた。ルースなら書けたが、あいつだと分かったわけではないんだな」
「誰が書いたかは、確かめられていない。筆跡だけで決められる状態でもない」
「そうか。本人が書けなくても、誰かが名を覚えていたのなら、それはありがたい」
アルヴァンは布の端を折り、砂がこぼれないようにした。
残っている名前は三人分だけではない。壁を端まで見渡した後、彼は立ち上がり、冷えた指をゆっくり開いた。
看守の一人が、椅子を寄せようかと声をかけた。
「今は、立っていたい。足が痛くなったら、こちらから頼む」
それきり、しばらく誰も話さなかった。
廊下の向こうで鍵が鳴り、別の棟では仕事へ出る囚人の列が動いていた。その足音が遠ざかるまで、アルヴァンは壁の前にいた。
◇
戻る前に、布を看守へ渡してもらった。
持ってきた物が揃っていることを確かめ、手枷を付ける。アルヴァンは手を差し出したが、金具が閉じる時、右の親指が一度だけ動いた。
「他にも、話しておきたい者がいる。ドルガンは、今も採石場にいると聞いた」
俺は看守へ、その場で少し待つよう伝えた。
「ハロルの下で、危険箇所の助言をさせている。以前の監督権限は戻していない」
「あの男が仕切っていた場所で、バルトは働かされていた。俺が王都へ行っている間に、また囚人へ命令する立場へ戻ったのかと思ったんだ」
「武器は持たせず、囚人へ直接命令することも、体に触れることも禁じたままだ。ただし、目の前で人が怪我をする危険を見つけた時の警告は認めている」
アルヴァンは、壁から俺へ顔を向けた。
「役に立つから残している、という説明なら、俺はそれだけでは納得できない。死んだ者の件まで、その仕事で済ませたことにはしないでくれ」
「済ませてはいない。現場で何を任せるかと、過去の責任をどう調べるかは、別に扱っている」
「その話を、本人の前で聞きたい」
声は低かった。
頼みを聞けば、その場で穏やかに終わるとは限らない。一方で、腹の中に何があるかも聞かず、会わせないの一言で房へ戻せば済むとも思わなかった。
「お前が取り調べる場にはしない。会うなら看守を付け、俺も立ち会う。脅しや手が出るようなら、その時点で終える」
「俺から殴りかかれば、ここへ残る年が増えるかもしれん。その程度のことは、分かっている」
「分かっていても、相手の言葉で考えが変わることはある。止めるよう告げたら従ってくれ」
アルヴァンは、すぐには頷かなかった。
金具に繋がれた両手を見下ろし、やがて、承知したと答えた。
◇
ドルガンには、作業の切れ目に話をした。
ハロルは採石場の指示を別の看守へ引き継ぎ、こちらへ来た。現場でどこまで任せているかは、自分からも説明したいという。
執務室ではなく、面談に使う部屋を空けた。
卓を挟み、アルヴァンの側に看守を置く。ドルガンの側にも別の看守が立ち、ハロルは俺の横に座った。アルヴァンの手枷は、そのままにしてある。
ドルガンは入ってくるなり相手を見たが、椅子へ腰を下ろすまで何も言わなかった。
「命令を出したのが誰かって話なら、何度聞かれても、俺の答えは変わらねえぞ。今になって、見ていないものを見たとは言えねえ」
「知らないことを作って話せとは求めていない。今日は、黒塔で今どの立場にいるのかも含めて話す」
俺がそう告げると、ドルガンは腕を組みかけ、途中で手を卓へ置いた。
アルヴァンは、その手を見ていた。
「バルトの名を、覚えているか。肋骨を折った後、採石場へ戻されて、熱を出して死んだ男だ」
「顔まで、今すぐはっきり思い出せるとは言わねえ。記録を見せられた時にも、そう答えた」
「俺にとっては、忘れられん顔なんだ」
ドルガンは返事をしなかった。
アルヴァンの肩が、呼吸に合わせて上下する。俺は間に言葉を入れず、看守と目を合わせた。
「お前が、あいつを休ませず戻したのかは、まだ分かっていない。それは聞いた。だが、あそこで人がどう扱われていたかまで、知らなかったとは言えんだろう」
「殴ったことも、無理に働かせたことも、なかったとは言ってねえよ」
卓の下で、椅子が僅かに軋んだ。
ドルガンは背を丸めず、相手を見返した。
「俺が仕切っていた間に、死んだ奴がいる。その記録が俺の所から消えるなんざ、監獄長にも言われてねえ。だが、誰を戻せと誰が言ったかまで、全部覚えてるわけじゃねえんだ」
アルヴァンの手が、卓の上で握られた。
「命じる側が覚えていなくても、命じられた方は死ぬんだな」
ドルガンは口を開きかけたが、声を出さなかった。
代わりにハロルが、両手を卓の端へ置いた。
「今、作業へ出す者は、私が確認しています。医務から止められた者を、ドルガンの判断で戻すことはありません。助言を使うかどうかも、私が決めます」
「あなたが、今の責任者か。あの男に、従うつもりの囚人もいるだろう」
「います。昔の呼び方で声をかける者もいます。その都度、指示を出すのは私だと伝えていますし、本人が勝手に配置を動かせば止めます」
ハロルはドルガンにも顔を向けた。
「危険を見つけて警告したことは助かりました。それで指揮を戻したわけではありません。この先も同じです」
「分かってる。俺が石を止めた後、再開を決めたのも、あんただったろうが」
ドルガンは言ってから、アルヴァンを見た。
「だから俺を許せ、なんて言うつもりもねえ。聞いたところで、許す気にはならねえだろうしな」
アルヴァンは、しばらく黙っていた。
「許すと言えるのは、俺だけではない。三人には、それぞれ家族も、付き合ってきた者もいる」
握っていた手が開き、金具が卓へ当たった。
「俺は、お前を斬りたいと思ったことがある。ここへ来て三人のことを知った時も、今、顔を見ている間もな」
看守が姿勢を変えた。
俺も椅子から腰を浮かせたが、アルヴァンは手を動かさずに続けた。
「だが、お前を斬ったところで、誰の命令だったかは分からんままだ。俺が死刑へ戻って、それで三人のためにやったと言うつもりはない」
「その気持ちを持つことまで、こちらから罰するつもりはない。だが、行動に移そうとすれば止める。今日の面談は、ここまでにしよう」
俺が告げると、アルヴァンは息を吐き、椅子の背から体を起こした。
ドルガンへ頭を下げることはなく、相手も何も求めなかった。
◇
アルヴァンを房へ戻した後、ドルガンが廊下で足を止めた。
「この先も、ああいう話をするのか。会うたびに斬りたいと言われて、平気で座っていられるほど、俺もできちゃいねえぞ」
「毎回会わせるつもりはない。相手の求めに応じれば、何度でもお前を呼べるという扱いにもせん」
ドルガンは、作業着の袖を引いた。
「俺に何か起きても、あいつは止めろって叫んでくれるとは思えねえな」
「それを期待して、お前の安全を預けることはしない。担当の看守もいる。お前自身も、個別に話をしに行くな」
「行かねえよ。何を言ったって、余計なことになる」
吐き捨てるように言って、ドルガンはハロルの方を見た。
ハロルは俺に会釈し、戻るぞと声をかけた。二人が廊下を曲がってから、俺は脇に立つグラッドへ向き直った。
「二人の移動が、不意に重ならないようにしておこう。面談したからといって、後の心配がなくなったわけではない」
「担当へ伝えます。ただ、互いの姿を一切見せないとなると、この広さでは難しい時もありますな」
「そこは承知している。顔を合わせた時に、看守が事情を知らず、本人同士で収めろと言うことがないようにしてくれ」
グラッドは頷き、手帳へ書き留めた。
誰も殴らずに終わったから、二人の関係が改善したとは言えない。ドルガンは腹を立てていたし、アルヴァンも、許す言葉を口にしていなかった。
それでも、互いの手が届く所でぶつかり合う前に、何に怒り、何を恐れているかは聞けた。
◇
午後、アルヴァンから紙と筆を借りたいという申し出があった。
担当の看守が用向きを聞くと、三人の家族へ手紙を書きたいという。俺は房を訪ね、卓の前へ椅子を寄せさせた。
「宛先は、手元で分かるのか。出すなら、相手へ届くかどうかも確かめたい」
「三人とも出身の土地は知っている。ただ、今も家族が同じ所にいるかは、俺にも分からん。軍に残っている連絡先を尋ねることはできるだろうか」
「まず、黒塔から死亡の知らせをどこへ出したか確かめる。その上で足りなければ照会する。相手の所在が分かるまで、ここで預かる形でも構わないか」
アルヴァンは頷き、差し出された紙を受け取った。
「俺の死刑がなくなったと、知らせるためだけに書くのではない。三人のことで、俺が知っている範囲を、自分の言葉で伝えておきたい」
「確認できていない命令者を名指しする内容なら、そのまま外へ出す前に確かめる必要がある。それは分かっておいてくれ」
「書かんよ。ドルガンへの怒りを、そのまま家族へ渡しても困らせるだけだ」
筆を持つ手が止まった。
「王都で、俺の口から何度も同じ話を聞いた者はいる。だが、三人の家族に向けては、俺はまだ何も言えていないんだ」
俺は筆とインクの数を看守に確認させ、書き終われば回収することを伝えた。
書いている間も看守が見守る。アルヴァンは説明へ頷き、紙の最初へ宛名を書きかけた。
途中で筆を浮かせ、少し考えてから、別の紙へ文面を書き始めた。
◇
夕方、回収した道具を確かめていた看守が、俺へ手紙のことを報告した。
三通とも書き終えてはいない。バルトの家族へ宛てた一通の下書きを預かり、残る二通は白紙のままだった。
「書けなかった二通も、捨てずに預かってほしいとのことです。また続きを書きたいと」
「本人の物として残しておいてくれ。宛先の確認は、明日、記録の担当と進める」
差し出された紙の一行目を読んで、俺は手を止めた。
そこには、三人の名誉を取り戻すだとか、必ず責任者を罰するといった言葉はなかった。
『バルト殿の最期を、私は見届けていません。まず、そのことをお伝えしなければなりません』
アルヴァンが黒塔で聞いた経緯と、自分には分からないことが、その後に続いていた。
遺族がこの手紙を望むか、読んで何を感じるかは分からない。怒りを向けられるかもしれず、もう知らせないでほしいと言われる可能性もある。
それでも、書いた本人が引き受けようとしている相手は、目の前のドルガンだけではなくなっていた。
俺は折り目をつけずに紙を戻し、本人名義の保管物へ入れるよう頼んだ。
夜の巡回で房の前を通ると、アルヴァンは寝台の端へ座っていた。手は空で、書く道具も残っていない。
「バルトは、報せを書く時に、いつも何度も書き直していた。長く書くと、妻が心配するからと言ってな」
廊下へ向けた声は、昼よりも低かった。
「俺は、あいつの家族に渡す一通さえ、まだ整えられない。明日も紙を使わせてもらいたい」
「時間を取ろう。足の様子も見ながらになるが、続きを書けるようにしておく」
アルヴァンは礼を言い、廊下から目を戻した。
看守が戸の外で立ち止まり、足首の痛みが増していないかを確かめる。その問いには、さっきより長く答えていた。
俺は二人の話が終わるのを待たず、次の房へ進んだ。
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