第7話 訴えは聞く。全部信じるとは言ってない
「まだ増えてるのか」
翌朝、中庭を見下ろすと、昨日より長い列ができていた。
ドルガンの過去の懲罰を調べ始めたことで、それまで黙っていた囚人たちまで自分の扱いを調べてほしいと言い始めたらしい。
「昨夜まで七十三件でした。今朝、新たに四十一名が申し出ています」
隣でグラッドが答える。
「合わせて百十四件か」
「はい。受付を続けていますので、まだ増える可能性があります」
現在の収容者は八百二十四人。
一晩で七人に一人近くが何らかの申し出をした計算になる。
「これを全部、俺が直接聞くつもりだったのか?」
「昨日は所長が調べると仰いましたので」
「調べるとは言った。でも一人で百十四人と面談するとは言ってないぞ」
一人十分で終わったとして十九時間近い。
実際には記録を探し、関係者へ聞き取りをして、必要なら医務記録まで確認する。一件十分など到底無理だ。
俺が一日中、
『それは大変だったな』
と頷いて回っている間にも、食料は減るし、北壁は直さなければならない。第三井戸も止まったままだ。
「受付は続ける。ただし、全部を同じ順番で俺のところへ持ってくるのはやめよう」
「優先順位を付けますか」
「ああ。死人や重傷者の話と、隣の奴のいびきがうるさいって話を同列には扱えない」
「いびきの申し出もあるのですか?」
「ありそうだろ」
冗談半分で言ったのだが、執務室へ戻ると本当にあった。
◇
「……『隣の男のいびきが大きく、夜眠れない』」
申立書を読み上げると、ガイラスが真顔で頷いた。
「本人にとっては重大でしょうな」
「分かるけど、俺にどうしろっていうんだ」
「一人部屋へ移す」
「八百人分の個室を造れるようになったら考える」
ガイラスの口元がわずかに緩んだ。
机には百十四件の紙が並んでいる。
食事を減らされた。
怪我をしたまま働かされた。
看守に殴られた。
同房の囚人に私物を盗まれた。
仕事内容を変えてほしい。
没収された物を返してほしい。
内容も重さもまるで違う。
「まず四つに分ける」
机の上へ空間を作った。
「死亡、重傷、それと現在も治療が必要なもの。これは最優先だ」
「妥当でしょう」
「次が懲罰関係。食事制限、懲罰房、看守による暴力。三つ目が作業配置や房についての相談。最後がその他」
ガイラスはいびきの申立書を迷うことなく最後の山へ置いた。
「随分早いな」
「他の三つではないでしょう」
「それはそうだ」
グラッドが別の紙束を確認しながら言った。
「もう一つ決めていただきたいことがあります」
「どういう点だ?」
「囚人の間で、『所長へ言えば過去の処分を取り消してもらえる』という噂が出ています」
「始めたばかりなのに早いな」
「黒塔では良い話も悪い話も広がるのが早いので」
ここは先に線を引く必要がある。
「全棟へ伝えてくれ。申し出は受け付ける。必要なら調べる。ただし、本人がそう言ったというだけで、看守を処分したり、昔の懲罰を無効にしたりはしない」
「虚偽の申告だった場合は?」
「今まで正式に話を聞く仕組みがなかったんだ。今日までに出た分は、故意の嘘でも警告までにする」
ガイラスが俺を見る。
「今後は?」
「自分に有利にするため、わざと事実を変えたと確認できた場合は規律違反として扱う。ただし記憶違いや勘違いまで嘘扱いするな」
「看守側からの報復については?」
グラッドの質問に頷く。
「同じだ。申し出たことを理由に仕事を不当に変えたり、殴ったりしたら調べる」
「反発する看守は出るでしょう」
「その代わり、名前を書かれただけで処分されるわけじゃないことも説明してくれ。見るのは記録と証言だ」
囚人だから嘘をつく。
看守だから正しい。
逆に、囚人だから被害者で、看守だから加害者。
どちらも雑すぎる。
監獄長として見るべきなのは、誰がどちら側かではなく、実際に何が起きたかだ。
◇
午前中。
百十四件の中から、死亡や重傷、現在の治療に関わる十八件を先に抜き出した。
全部を俺が聞くのはやめた。
グラッドと記録係の看守二人が最初の聞き取りを行い、記録と証言が食い違うものや、俺の判断が必要な案件だけ上げてもらう。
最初に来たのは二十代後半の男だった。
「三ヶ月前、看守に腕を折られました」
「看守の名前は?」
「エバンです」
男が左手を見せる。
手首が少し不自然に曲がっていた。
「どういう状況だった?」
「何もしていません。突然、棒で殴られました」
「何もしていないところを?」
「はい」
記録係へ調べさせる。
三ヶ月前。
左手首骨折。
怪我そのものは記録に残っている。
ただし、原因が違った。
「食料庫から干し肉を盗んで逃げ、階段で転倒したと書かれている」
男の視線が泳いだ。
「それは……追われたからです」
「さっきはエバンに殴られて折れたと言ったな」
「追ってきたのがエバンです」
もう話が変わった。
「医務記録も確認してくれ」
ラッセルが残した記録には、骨折した男を医務室まで運んだ看守としてエバンの名がある。
休養申請を出したのもエバンだった。
「お前を殴って腕を折った本人が、そのまま医務室へ運び、休ませるよう申請したということか?」
「……」
「当時近くにいた囚人を二人呼べるか?」
グラッドが手配した。
しばらくして連れてこられた二人へ、別々に聞く。
答えはほぼ同じだった。
干し肉を盗んだ男が逃げた。
エバンが追った。
男は階段を下りる途中で足を滑らせた。
エバンが触れる前に転んでいる。
「干し肉を盗んだのは事実か?」
改めて尋ねると、男はとうとう俯いた。
「……はい」
「なら、この申し出は認められない」
「所長、でも腕が――」
「折ったことまで嘘だとは言ってない。骨折したのは事実だし、痛かっただろう。でも、誰に折られたかまで都合よく変えることはできない」
申立書へ、記録と証言から認められず、と残す。
「今回は警告だけだ。これから先、望む結果を取るために故意に話を変えたら別の規律違反として扱う」
「……分かりました」
男を戻した後、グラッドが俺を見る。
「何か気になるか?」
「いえ。最近の所長は、囚人側の申し出をかなり重く扱っておられるので、今回は認められると思っていました」
「囚人の言うことを全部信じるために始めたんじゃない」
「看守側を守るためでもない?」
「俺は監獄長だ。どっちかの味方を選ぶ仕事じゃないだろ」
前世で刑務官をしていた頃だって同じだった。
職員の言うことだけ聞けばいいわけでも、収容者の主張を全部通せばいいわけでもない。
次に入ってきた五十代の男は、逆だった。
◇
「右膝を痛めたまま十二日間、荷車を押させられました」
「当時の記録を見せてくれ」
こちらは医務記録も作業記録も残っていた。
ラッセルの診察。
《右膝腫脹。五日間、重量物運搬禁止》
その翌日の作業記録には、
《荷車班》
とある。
「医務判断を無視して戻したのは誰だ?」
「当時の副主任です」
理由まで残っていた。
《人手不足のため》
五日後。
膝の状態が悪化し、今度は十日間の休養指示が出ている。
「ラッセルを呼んでくれ」
医務室から来てもらい、当時の記録を見せた。
「覚えているか?」
「はい。この頃は珍しいことではありませんでした」
「重量物禁止と書いても?」
「私には診察内容を記録する権限しかありませんでした。実際に作業へ出すかどうかは各主任が決めていましたので」
それでは診察しても止められない。
「今日から変える」
グラッドを見る。
「医務係が休養、あるいは重量物禁止と判断した囚人を、作業主任だけの判断で元の仕事へ戻すのは禁止だ」
「人員が足りない場合は?」
「できるなら軽作業へ回す。それも無理なら休ませる。状態が変わって元へ戻せそうなら、主任が勝手に判断せずラッセルへ再確認させろ」
「医務記録の写しを各作業場にも渡します」
「その方がいい」
これなら現場側も、
『知らなかった』
では済まなくなる。
申立てをした男が、少し遠慮がちに聞いた。
「俺の十二日間は、どうなるんですか」
「過去の十二日を無かったことにはできない」
「……そうですよね」
「ただ、お前と同じことが起きないようには変える」
男はしばらく黙ってから、ゆっくり頭を下げた。
「それで十分です」
◇
昼までに、優先した十八件のうち七件を確認した。
記録や証言から問題があったと判断できたものが四件。
記録不足で保留が二件。
明らかな虚偽が一件。
「全部本当でも、全部嘘でもないな」
俺が記録を見ながら言うと、グラッドが頷く。
「当然と言えば当然ですが」
「その当然を、今まで確かめる場所がなかったんだろ」
午後には百十四件すべての一次分類が終わった。
死亡・重傷関係が十二件。
懲罰や食事制限についてが三十四件。
作業配置や房についてが二十七件。
私物や没収品関係が十六件。
その他が二十五件。
合計百十四。
「配置変更が二十七件か」
何枚か取り上げる。
《左目が見えにくく、石切り作業が怖い》
《腰痛があるため水桶運びから外してほしい》
《以前は靴職人だったので革仕事を希望する》
ノエラやベンのように、後から国を変える天才ばかりが埋もれているわけじゃない。
普通に働いてきた人間が、経験に合わない仕事をさせられている例もある。
「こういう希望まで、過去の懲罰調査と同じ窓口で毎日処理するのは無理だな」
「配置変更を分けますか?」
「ああ。二週間に一度まとめて見る。前職、現在の配置、医務上の制限、それぞれの作業場の人数を確認して、移せそうなら試す」
「試用期間を設けましょうか」
「一週間程度でどうだ?」
「現場主任にも結果を書かせれば判断しやすいでしょう」
「それで頼む」
グラッドはその場で記録係と相談を始めた。
少し前なら、
『どうしましょう』
と全部こちらへ聞いていただろう。
今は必要な枠だけ決めれば、細部は自分たちで詰め始める。
この方がいい。
◇
もう一つ、今のうちに止めることにした。
「食事を減らす懲罰は廃止する」
グラッドが手を止めた。
「完全にですか?」
「懲罰を受けても、健康を維持するだけの食事は出す」
ヘルム・カーンの記録を見たばかりだ。
盗みへの処分として食事を減らし、空腹でパンを隠したらさらに減食期間を延ばす。
あれで規律が良くなるとは思えない。
ガイラスも頷いた。
「食事を懲罰へ使えば、空腹の者が次に狙うのは食料庫でしょう。管理上も得策ではありませんな」
「懲罰房そのものは残しますか?」
「必要だ。ただし、『反抗的だった』みたいな曖昧な理由だけで何日も入れるのは無しにする。何をしたのか、何日入れるのか、誰が申請して誰が承認したかを全部残せ」
「作業制限も同じ扱いで?」
「ああ」
食事を減らさないからといって、処分までなくすわけではない。
暴力を振るえば隔離する。
逃走を企てれば、必要な範囲で行動も制限する。
ただ、腹を減らして身体を壊すことと規律維持を同じものにはしない。
◇
夕方になる頃には、中庭から長い列が消えていた。
受付をやめたわけではない。
各棟で申し出を預かり、緊急性を確認したうえで毎朝まとめて上げる方式へ変えただけだ。
「看守側も少し落ち着いたようです」
グラッドが言う。
「そこまで警戒されていたのか」
「自分の名前を書かれただけで、すぐ処分されるのではないかと考えていた者もいました」
「そんなやり方をしたら、今度は看守が何も報告しなくなる」
「最初の虚偽申立てを認めなかったことも、すでに広まっています」
「本当に噂だけは早いな」
囚人には、言えば何でも通るわけではない。
看守には、訴えられた時点で有罪になるわけではない。
両方へ伝わったなら、少なくとも受付初日としては悪くない。
執務室へ戻ると、ガイラスが何枚かの紙を持って待っていた。
「今度は何を持ってきた?」
「随分嫌そうですな」
「お前が紙を持って待ってる時は、大体仕事が増える」
「では捨てましょうか」
「それは困る。見せてくれ」
差し出されたのは、看守の勤務表だった。
「申立ての聞き取りへ人員を回した分、他の持ち場に無理が出ていないか確認しました」
「結果は?」
「かなり偏っています」
ガイラスが一ヶ所を指した。
「南棟の看守、エド。昨日の朝から今日の夕刻までに、まともに休めたのは仮眠を含めて四時間ほどです」
「四時間しか寝ていないのか?」
「はい。そのほかは巡回、水運びの監視、夜勤、今朝からは申立て受付の補助にも入っています」
昨日の朝から今日の夕方までなら、ほとんど一日半だ。
「どうしてそこまで勤務が重なった?」
グラッドが申し訳なさそうに答える。
「第三井戸を止めたため、水運びの監視を増やしました。北壁の作業、臨時療養室、新しく入った二十四名の警備、採石場の体制変更。それに今日の受付です」
「全部、同じ時期に増えたわけか」
「はい」
囚人側の問題を見つけるたびに、
『看守を付けろ』
と言ってきた。
水を運ばせる。
北壁を直す。
病人をまとめる。
新入りを受け入れる。
申し出を聞く。
どれも必要な仕事だった。
ただ、その仕事を誰が何時間やっているのかまで見ていなかった。
二十二年も刑務官をしていたのに、そこを落としていたのは情けない。
「エドだけか?」
「いいえ」
ガイラスが別の集計を出した。
「昨日から十六時間以上勤務している看守が十一名おります。途中に短い休憩は入っていますが、この状態を続けるのは勧められません」
「当然だ。勤務を全部洗い直そう」
「すでに集計を始めています」
「仕事が早いな」
「食料も薪も人員も同じです。どこへどれだけ使っているか分からなければ、足りるかどうかも判断できません」
ガイラスらしい。
そう思った直後だった。
廊下の向こうで、何か重いものが落ちる音がした。
「おい!」
「誰か来てくれ!」
俺たちは同時に執務室を出た。
廊下の床に、看守が一人倒れている。
グラッドの顔色が変わった。
「エド!」
さっき勤務表で名前を見た男だ。
顔は青白く、呼びかけても反応が鈍い。
「ラッセルを呼べ! 急げ!」
近くの看守が医務室へ走る。
俺はエドの腰に下がった鍵束を見た。
囚人を怪我したまま働かせないようにした。
病人を休ませた。
作業の仕組みも変え始めた。
その一方で、それを回す看守の勤務時間を増やしていた。
「グラッド。エドは今、どこの担当だ?」
グラッドの表情がさらに強張った。
「南棟の夕刻点呼です」
「代わりの担当は決まっているか?」
「……いいえ」
南棟には三百人近い囚人がいる。
その点呼を担当する看守が一人倒れただけで、誰が穴を埋めるのか決まっていない。
問題は単純な人数不足ではなかった。
人が一人抜けただけで持ち場が空くような仕事の組み方をしている。
「勤務表を組み替えるだけじゃ足りないな」
エドが医務室へ運ばれていくのを見ながら、俺はグラッドへ言った。
「明日は、仕事そのものを洗う。必要のない仕事や、二重にやっている仕事がないか全部見るぞ」
「承知しました」
囚人を壊さないようにした結果、看守を壊していたのでは意味がない。
増員を考える前に、まず今ある百二十七人をまともに働かせられる形へ直す必要があった。
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