第61話 釈放された男は、鐘の音で足を止めた
「マレク・ソーンを、釈放する」
俺が告げると、グラッドは机に置いた封書から顔を上げた。
南部地区裁定所の封印が残る紙は、朝の光を透かすほど薄い。そこには、倉庫侵入事件に関する旧判決を取り消し、マレクを無罪とする旨が記されていた。
別件の取調べで実行犯が供述を変えていた件も含め、判決の根拠を調べ直した結果、共犯としての関与を認めるに足る証拠がないと判断されたという。
黒塔宛ての命令は、ほかに拘束の理由がなければ、速やかに釈放せよというものだった。
「氏名、収監番号、事件は一致しています。別件の収監命令もありません」
グラッドは確認に使った台帳を閉じ、戸口の看守を呼んだ。
「マレクを連れてきてくれ。それから私物の返却を。先にこちらで本人へ説明する」
看守が足早に出ていった後、俺はもう一度、紙の上の名前を見た。
三十九歳。七年の刑を言い渡され、すでに三年を黒塔で過ごしている。
仕事を拒み、自分は事件の現場にいなかったと訴えていた男の顔は覚えていた。あのとき俺にできたのは、確認できる情報を拾い、裁定所へ送るところまでだった。
判決が覆ったという知らせを、今日は俺が本人へ伝える。
机の隅にあった杯を動かすと、木の表面に丸い水の跡が残った。乾くのを待つようにそこを見てから、俺は封書を取り上げた。
*
マレクは作業着のまま、執務室へ入ってきた。
袖口には白い埃がついており、呼ばれた理由を考えていたのか、看守と俺の顔を順に見ている。椅子を勧めても、すぐには座らなかった。
「裁定所から回答が届いた。お前の旧判決は取り消され、無罪となった。黒塔から釈放する」
マレクは俺を見たまま、動かなかった。
廊下を通る足音が遠ざかってから、ようやく口が開いた。
「その紙を、見せてください。今度は、俺が自分で読みたい」
俺は机の上へ正文を置き、彼の方へ向けた。
マレクは椅子に腰を下ろし、紙に触れる前に、作業着で指先を拭った。上から読み、名前のところへ戻り、最後の命令まで目を進める。
「ここには、釈放と書いてあります。王都か、どこか別の牢へ移される話ではないんですね」
「移送ではなく、釈放だ。黒塔がお前を拘束し続ける理由は、もうない」
「では、今日、門を出られる」
「私物を受け取るのを待つことはできるが、手続きが遅れたからと房へ戻す扱いにはしない」
マレクは頷きかけたところで、片手を額へ当てた。
泣いているのかと思ったが、口元には、笑おうとしてうまくいかなかったような歪みが浮かんでいた。
「毎日、ここを出たらどうするか考えていたんです。ところが、本当に今日だと言われると、まず何をするのか、順番が分からなくなる」
「荷物を確かめて、行き先を考えればいい。今ここで全部決める必要はない」
「そう言われても、夕方までには戻れと、どこかで言われる気がして」
机の下で、彼の足先が椅子の脚へ寄った。
俺は手元の紙を揃えず、マレクが顔を上げるのを待った。
*
返す私物は、布包み一つに収まった。
上着と革帯、小銭の入った財布、それに入所時に預けられていた小物。それぞれを保管記録と照らし合わせ、本人が見ているところで包みを開いた。
上着には畳み皺が深く入り、布には長くしまわれていた匂いがあった。マレクは襟を持ち上げ、裏側の縫い目を指でなぞった。
「ここを繕ったのは、妹なんです。針を持つのが得意で、俺がやるより早いからと、取り上げられた」
傍らの看守が、記録から目を上げた。
「その妹さんのところへ行くつもりなら、道は分かりますか。街道の分かれ目までなら、門で説明できます」
「家は分かります。ただ、まだそこに住んでいるかは、確かめないと」
マレクは上着を膝へ載せ、少し黙った。
「最後に届いた手紙から、間が空いています。俺の方から、しばらく返事を書かなかった。まだ何も変わらないと書くのが嫌になって」
看守は、それならすぐ会えるとは言わず、保管記録の確認を続けた。
荷物が揃ったところで、門の外にある来客用の控えへ移ってもらうことにした。マレクには、そこで待つか、そのまま出発するかを選んでもらう。
その前に渡す書類があり、俺は収監期間を記した証明を机へ置いた。
「無罪の通知とは別に、黒塔へ入った日と、今日釈放されたことを証明する。必要な照会先も書いておく」
「俺の三年を、確かめるためのものですか」
「そうだ。補償を求める手続きがあるか、あるならどこへ申し出るかは、こちらからも照会する。だが、金が出るとも、いくらになるとも、今は約束できん」
マレクの指が、上着の襟から離れた。
「三年分を払ってもらえば済む、とも思えません。働いていた先はなくなったかもしれないし、近所で俺を泥棒だと言った連中が、この紙を読むとも限らない」
彼はそこで息を継ぎ、俺を真っ直ぐ見た。
「それでも、何も求めずに帰る気にはなれません。俺がここにいたことまで、なかったようにされるのは困る」
「拘束されていた事実は、黒塔の記録に残る。お前が請求する際に黒塔へ確認が来れば、その記録に基づいて答える」
「分かりました。写しを貰えるものは、持っていきます」
差し出した紙を、マレクは一枚ずつ確かめた。
無罪の通知を受け取っても、外の暮らしまで一緒に返ってくるわけではない。そのことを、本人が俺より先に考えている。
俺は封筒をもう一つ持ってこさせ、紙が折れ曲がらずに入るものを選んだ。
*
着替えを終えたマレクを、門まで送った。
作業着を返された看守が、それを受け取ったまま「次の点呼は」と言いかけ、途中で口を止めた。
マレクはその顔を見て、小さく息を漏らした。
「俺も、さっきから同じことを考えています。飯の時刻までに、どこにいればいいのかと」
「もう、こちらで決めることではありませんな」
看守は作業着を畳み直し、門内の詰所へ戻っていった。
マレクが履いている靴は、先ほどまでと同じものだった。上着だけが変わると、肩の狭さや首の細さが妙に目につく。
途中、作業へ向かう囚人の列とすれ違った。
一人が彼の服を見て足を緩めたが、看守の誘導でまた歩き始める。マレクも声をかけず、相手の姿が角へ消えるまで見ていた。
「親しかった相手なら、伝言を預かることはできる」
「同じ房で、よく言い合いをした男です。俺が無罪だと言うたびに、ここにはそういう奴が山ほどいると笑っていた」
マレクは少し考えてから、首を横に振った。
「何か言い返そうと思っていたのに、今は、あそこへ戻って話す気にはなれません」
俺はそのまま門へ向かった。
グラッドが先に待っており、釈放の記録と本人へ渡す書類を確認する。手枷を持ってくる者はおらず、マレクは自分の布包みを抱えて立っていた。
門扉が開くと、外から乾いた風が入り、彼の上着の裾を動かした。
マレクは敷居の手前で足を止め、番兵を見た。
「通って構わないと、今、言ってもらえますか。分かってはいるんですが、黙って前を横切るのに慣れていなくて」
「マレク・ソーン、釈放を確認した。ここを通って、そのまま行って構わない」
番兵が答えると、マレクは布包みを抱え直し、門を越えた。
グラッドが記録へ時刻を入れる。黒塔の収容人数は、その時点で八百三十九人になった。
*
マレクは門外の控えで、水を飲んでいた。
出発する前に、妹へ送る手紙を書いていきたいという。机と筆記具を貸すことにし、俺は照会先を記した紙を届けに行った。
開いた窓から、街道の砂埃と馬の匂いが入ってくる。塀の内側にいた頃と同じ風のはずだが、マレクは時々、窓の向こうへ顔を向けていた。
「誰かが来たら、俺はここを退けばいいんですね」
「来客が増えれば席を移ってもらうことはある。だが、今は空いている。落ち着いて書けばいい」
「こういうことまで、一つずつ確かめたくなるんです。外でもそれをやっていたら、相手は面倒でしょうね」
マレクは苦く笑い、紙に視線を戻した。
最初の一行を書いてから、筆先が長く止まった。俺が照会先の紙を机へ置くと、彼はその端を押さえた。
「監獄長。無罪になった者が出たと、どこかで話すことはあるでしょう。そのとき、俺が救われて喜んで帰ったとだけは、言わないでください」
「今日話した不安や、補償を求めたいという希望を、喜びだけで片づけるつもりはない」
「助かったと思っています。ここから出られて、今はそれだけで手が震える。だが、俺は最初から、ここへ入れられたくなかった」
言い終わってから、マレクは俺の顔色を窺った。
まだ、言いすぎたかどうかを確かめている。
「そのとおりだ。外へ出られてよかったと言う側が、そこを落としては困る」
俺が答えると、マレクは目を伏せた。
「調べてくれたことには、礼を言います。それと、ここにいたことは、別に考えさせてください」
「分かった。こちらで一緒にする話ではない」
マレクはようやく筆を動かし、妹宛ての手紙を書き始めた。
俺は立ち去る前に、封書を預かる看守の場所を伝えた。今日の便に間に合わなくても、差出しの日を確かめて送るように頼んである。
昼食の時刻が近づくと、看守が煮豆とパンを運んできた。マレクは椅子から立ちかけ、配膳の列へ並ぶ必要がないことに気づいて座り直した。
「ここで食べて構わないよう、監獄長に確認してあります。出発を急ぐなら、パンは包みますよ」
「では、半分だけ包んでもらえますか。歩く途中で、腹が減りそうなので」
答えてから、マレクは自分でパンを二つに割った。
*
午後、マレクは歩いて出発した。
まず町で、持っている金でどこまで行けるか確かめるという。先に妹へ手紙を送り、自分でも家へ向かうか、返事を待つ場所を探すかは、道中で考えると話した。
グラッドが門のところで見送ろうとしたが、マレクは、もう一度そこで止まると歩きにくくなるからと断った。
俺は控えの窓から、遠ざかる背中だけを見た。
街道へ出たところで、黒塔の鐘が鳴った。
マレクの足が止まり、肩が門の方へ向く。そのまま振り返りかけた顔が、途中で正面へ戻った。
彼は布包みを持ち替え、また歩き始めた。
「今夜の確認から、一人減りますな」
隣に来たグラッドが言った。
「今夜の点呼で呼び続けることがないよう、名簿の更新も確かめてくれ」
「済ませました。房を受け持つ看守にも、釈放の確認を伝えてあります」
俺は頷き、窓から離れた。
執務室では、ロイドとダレンの聞き取りの続きが待っている。逃げようとした者を留める仕事と、もう留めてはならない者を送り出す仕事を、同じ鍵束を持つ人間が担っていた。
机へ戻ると、マレクの照会用の紙が一枚、まだ残っていた。
俺は宛先を確かめ、補償に関する手続きを尋ねる文面へ署名した。封をする前に、本人が求めていた収監期間の証明も、添付の中に入っているか確認した。
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