第60話 その名で門は通せない
「ロイド、お前はそちらの列ではない。壁際へ寄れ」
門へ向かっていた二十人の足が止まり、列の後ろで手枷の鎖が鳴った。
朝の黒塔では、食堂から戻る者と作業へ向かう者が、看守の誘導で順に廊下を抜けていく。俺が中庭へ出たときには、その流れが門の手前で詰まっていた。
呼び止めた看守は、名簿を持つ若い同僚に列を任せ、自分は一人の囚人から目を離していなかった。
「俺はダレンだ。さっきもそう答えただろう」
「先週、洗濯場で俺に桶を渡したときは、ロイドと呼ばれて振り向いていたな。話は横で聞くから、列から離れろ」
男の視線が、看守の肩越しに門へ動いた。
外扉はまだ閉じており、先頭の囚人も内側にいる。男が隣の肩を押して前へ出ようとすると、看守は身体を寄せて進路を塞ぎ、応援に来た一人と両側から腕を押さえた。
「抵抗をやめろ。歩いて移るなら、それ以上は押さえない」
靴底が石を擦ったが、揉み合いは長く続かなかった。男は壁際へ連れていかれ、その間に別の看守が列を後ろへ下げていた。
俺が近づくと、名簿を持った看守が唇を引き結んだ。
「監獄長。ダレンの名に返事をしたので、通すところでした」
「門は閉じたままで構わん。残りの者も、一人ずつ顔を確かめてから動かしてくれ」
若い看守は頷き、紙へ落としていた目を上げた。
門の向こうからは、迎えの荷車につながれた馬の鼻息が聞こえている。いつもより出発が遅れていると察したのか、御者が外側の番兵に何か尋ねていた。
*
本来選ばれていたダレンは、黒塔内の作業へ向かう列にいた。
ロイドと体格が近く、同じように色の褪せた作業着を着ている。ただ、並べて見れば顔は似ておらず、声も違った。
門の看守に顔を覚えられていなければ、呼ばれた名に答えるだけで出られると考えたらしい。
「外へ出る列と中へ残る列が分かれるところで、入れ替わりました」
連れ戻した看守の説明を聞き、グラッドが名簿のダレンの欄へ指を置いた。
「人数だけなら、どちらも合うわけですな」
「火事の後、名前まで確かめるようにした。それを、名前に返事があったところで済ませかけた」
グラッドは若い看守を見たが、その場で叱り始めることはしなかった。
列には、まだ十九人が待っている。背中へ朝日が届き始めても、石床の冷えが足元に残っていた。
「この二人は外す。ほかの者の確認を続けて、問題がなければ十九人で出してくれ」
「穴を埋める者は、今から呼びますか」
「急いで選び直して、確認が雑になっては困る。ハインには、こちらの保安上の都合で一人減ると伝える」
最大二十人という契約で、二十人を必ず送り出す約束にはしていない。
先頭にいた囚人が、苛立ったように踵を動かした。
「こっちは朝から待たされてるんだ。遅れた分まで、俺たちの金が減るのは御免だぞ」
「出発が遅れた時刻と理由は、こちらで記録する。働いていない分を働いたことにはできんが、お前たちの怠けとして処理もしない。賃金の扱いは商人側と確認する」
男はまだ不満そうだったが、隣から「先に確認を済ませてもらえ」と言われ、口を閉じた。
ロイドを睨む者もいれば、関わりたくなさそうに顔を背ける者もいる。揃って憤るほど、囚人たちの利害は同じではなかった。
確認を終えた十九人が門を出るまで、看守は一人の顔を見てから名簿へ印をつけていた。
*
ロイドから話を聞いたのは、門から離れた部屋だった。
机の向こうに座らせ、看守を二人つけている。廊下から鍵を受け渡す音が届くと、ロイドの目が一度だけ戸口へ向いた。
「ダレンが頼んできたんだ。今日は中の仕事をしたいから、代わってくれとな」
「本人には別の部屋で聞いている。お前が外部作業の候補に入っていないことは分かっていたはずだが、名を偽って出た後は、どうするつもりだった」
「働いて帰るつもりだった。使えるかどうか、やらせてから決めればいいだろう」
俺は返事を急がず、ロイドの手元を見た。
握った指の関節が白くなっている。怒っているのか、捕まった後の扱いを恐れているのか、そこまでは分からない。
「仕事の腕を見てほしいなら、申出はできる。別人として門を通ろうとした理由にはならん」
「申し出たって、外すんだろうが」
「申出どおりに配置できるとは限らん。それでも、他人の名を使えば、外へ出る判断を任せられるとは考えにくくなる」
ロイドは椅子の脚を床へ擦りつけた。
「俺より後から来た奴が、外で飯を食って、金まで貰ってる。俺はずっと壁の内側だ。あいつらと何が違う」
「少なくとも、今日の十九人は、自分の名前で出ていった」
「そんなことを聞いてるんじゃねえ」
声が大きくなり、背後の看守がわずかに立つ位置を変えた。ロイドはその動きに気づくと、机へ身を乗り出すのをやめた。
俺は、もう一度だけ先ほどの問いを口にした。
「門を出た後、ダレンの名で戻るつもりだったのか。それとも、戻らずに済む機会を探すつもりだったのか」
壁の高い位置にある窓から、細い光が机へ落ちていた。
ロイドはその端を見つめ、しばらくして鼻から息を吐いた。
「……外に出てから考えるつもりだった」
逃走の具体的な手順を持っていたかは、まだ確認が要る。
ただ、仕事をするためだけに名を借りたという説明を、そのまま受け取ることはできなかった。
*
ダレンの部屋には、冷めた水の入った杯が置かれていた。
俺が入ると、ダレンは杯から手を離し、膝の上で両手を重ねた。看守が記録用の紙を整える音にも、肩を小さく動かしている。
「ロイドは、お前から交代を頼まれたと言っている。食い違っている部分があるなら、今のうちに聞かせてくれ」
「俺から頼んではいません。ただ……代わるのは、承知しました」
「どの範囲まで承知した」
「向こうが俺の名前で外へ出て、俺が向こうの仕事に入るところまでです。帰ってくれば、誰にも損はないと言われて」
ダレンはそこまで話して、唇を噛んだ。
「今は、馬鹿なことをしたと思っています。だが、あの場で断ったら、後で何を言われるかと」
「殴ると脅されたのか」
「そうは言われていません。前に石運びを代わってもらったことがあって、今度はお前が返す番だと。断っても同じ房の連中に話されるだろうし、仕事のたびに借りを言われるのも……」
はっきりした暴力の予告はなくても、断りにくい関係はできる。
一方で、断りにくかったという説明だけで、本人が何をしたかを消すこともできなかった。
「外でロイドが逃げた場合、お前の名でいなくなることになる。そこは考えなかったか」
「考えました。だから、逃げるつもりはないのかと聞いたんです。金が欲しいだけだと言うから、それなら一日だけと」
「それで、承知したわけだな」
ダレンは頷いた後、顔を上げた。
「俺が断れば、止まっていた話です。そこまで、あいつのせいにするつもりはありません。ただ、知っていて一緒に逃がそうとしたことには、しないでください」
「お前が知っていたことと、後から分かったことは分けて確かめる。今、話した内容も、そのまま記録する」
ダレンの指が、膝の上でゆっくり解けた。
今日の外部作業には出さず、配置もロイドと接触しにくいように調整する。ただし、関係を調べている間の措置と、確認後に決める処分は混ぜない。
部屋を出る前に、ダレンが俺を呼び止めた。
「また稼げるかどうかは、まだ決まらないんですね」
「今、約束はできん。だが、調べ終わっても理由を知らせず放っておく扱いにはしない」
ダレンは杯を取り、両手で包むようにして水を飲んだ。
*
昼前、門の勤務を終えた若い看守が、グラッドと一緒に来た。
本人は胸を張ろうとしていたが、腰の鍵束を押さえた手に力が入っている。
「名前を読み上げて返事を確かめるのが、本人確認だと思っていました。外部作業の名簿なら、選ばれた者だけが並んでいるものと」
「途中で入れ替わるとは考えなかったわけだな」
「はい。顔を知らない者がいるとは、言い出しにくくもありました」
八百四十人を収容する黒塔で、全員の顔と名を、すべての看守が覚えているわけではない。
俺だって廊下ですれ違った相手を、一人残らず名前で呼べるほどの記憶力は持っていなかった。
「知らん顔がいるなら、分かる者を呼べばいい。そこで時間を使うのは仕事だ。覚えているふりをして通す方が困る」
「応援を呼ぶほどのことかと思いまして」
「門を通してから呼ばれるより、ずっと助かる」
グラッドが言うと、若い看守はようやく鍵束から手を離した。
ロイドを止めた看守にも、後から事情を聞いた。
洗濯場で顔を覚えていたのは事実だが、最初から誰がいるか全部見えていたわけではないという。荷車へ持たせる水の確認を終えて列へ戻り、そこで気づいたらしい。
「私が水を見ている間に出発していれば、止められませんでした」
「気づいて止めた働きは、そのまま評価する。毎朝お前が偶然見ることを当てにした勤務にはできんから、受け渡しのところをグラッドと確かめてくれ」
新しい紙を一枚増やせば済む話でもない。
誰が顔を確かめ、確かめ終わるまで誰が列を止めるのか。すでに決めてある確認を、実際の人の動きの中で続けられるかを、門の看守たちに見直してもらうことにした。
*
午後、高警戒区画の運動場を通ると、ブラムが麻縄を揃えていた。
見張りは二人で、ほかの囚人は入れていない。作業中の手枷を外した両手が、縄のほつれを探って動いている。
「朝、門の方が騒がしかったな。外の仕事が全部止まったかと思った」
「十九人は出した。名を偽って列に入った者がいたので、出発が遅れた」
ブラムは鼻で笑い、手元の縄を脇へ置いた。
「俺が並んだら、名を呼ばれる前に分かるだろうな」
「お前の場合は、そこへ着くまでに止める者がいる」
「今の二人なら、たぶんそうなる」
看守の一人が、聞こえているぞという顔でブラムを見た。ブラムは悪びれず、次の縄を引き寄せた。
「もっとも、外で働けるだけでも羨ましい奴はいるだろうよ。あんたには帰ってくる仕事でも、こっちには壁の向こうへ出る機会だからな」
「そこは、こちらも忘れてはいられん」
「飯がまともになったからって、俺の行き先まであんたに決めてもらいたいわけじゃない。今は、ここでこれをやってる方がましだと思ってるが」
ブラムの言葉に、俺は返す言葉を少し選んだ。
「その判断をしている間に、任せられる仕事が増えるかは確かめていく。ただ、逃げるつもりがないことにして、見張りを減らすつもりはない」
「それなら、話が早い」
会話を切ったブラムは、縄を両手で張って傷みを確かめた。
こいつは、俺に恩を返すために座っているわけではない。
そのことを口にしてくれる相手の方が、扱いやすい場合もあった。
*
夕方には、十九人が全員戻った。
門での遅れは、現場で予定していた資材の到着待ちの時間に収まり、昼の休みも帰路の出発も延ばさずに済んだという。本人たちの労働対価は一人小銅貨五枚、十九人分の九十五枚が、警備と輸送の実費とは別に届けられた。
受領の確認を待つ囚人が、手首を擦りながら門を振り返っていた。
「明日も、あれをやるのか。顔を覗き込まれるのは、あまり気分がよくない」
朝、ロイドを止めた看守が名簿を畳んだ。
「顔が見えれば済む。お前が別の者の名で戻ったことにされても、困るだろう」
男は少し考えてから、「それは困る」と頷いた。
アルヴァンは王都へ移され、北壁には排水が戻っている。俺が知っていた大脱獄の条件は、確かに変わりつつあった。
それでも今朝、門の前に立っていた男は、この黒塔から出ようとしていた。
ロイドの狙いとダレンとの関係は、まだ確かめることが残っている。二人をどう扱うかも、今夜のうちに片づけられる話ではなかった。
最後の一人が中へ入り、看守が外扉の閂を落とした。
俺は門の勤務表を受け取り、明朝の確認を任せる二人の名を、グラッドと並んで確かめた。
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