第59話 門の外には、取り戻せないものがある
ギル・ダーナの外部作業禁止を解く書面へ、署名を入れようとしていた。
机の向こうで、グラッドが確認に使った記録を揃えている。荷袋へ潜った逃走未遂も、火災時に見つけた警備の穴の報告も、油布を使う脱獄計画を知らせた件も、別々の日付で並んでいた。
「解除後は候補へ戻します。ただし、荷車の積み込みや搬出品の扱いには付けない。現場の構造と監視の配置を確認してから選びます」
「本人にも、解除と出勤の決定は別だと伝えてくれ。誰かが休んだから、すぐ代わりに出すわけではない」
「昨日の怪我人の穴へ入れてもらえると、期待するでしょうね」
グラッドが、少しだけ眉を寄せる。
医務室へ戻した男は、今朝も運搬作業を止められていた。代わりの人選は、すでに条件を満たしている候補の中から済ませてある。
「期待するのは構わん。期待どおりになると、こちらが思わせなければいい」
俺が羽根ペンを取ったところで、扉が叩かれた。
正門から来た看守は、来訪者の名を書いた紙を差し出した。
「ギル・ダーナの件で、監獄長に話があるそうです。面会の希望ではなく、申し入れだと言っています」
紙にある名は、ギルの収監書類で見たことがあった。
家畜を盗まれた側の人間だった。
*
男は、門に近い来訪者用の部屋で待っていた。
五十を幾つか越えた頃だろう。外套の裾には乾いた泥が付き、膝に載せた帽子は縁が擦り切れている。俺が入ると立ったが、頭を下げる動きは浅かった。
「オーゼンさんですね。お待たせした。監獄長のディルク・ハーゼンだ」
「顔は知ってる。川の仕事で見た」
俺が椅子を示すと、男は腰を下ろした。戸口には看守が残り、グラッドが俺の隣へ座る。
オーゼンは外套の内側から、布で包んだ紙を取り出した。
「ギル・ダーナが、ここにいるのは間違いないんだな」
「その名で収容している。あなたとの件も、書類で確認した」
「なら、話は早い。あいつら、外へ働きに出て、金までもらってるそうじゃないか」
声は大きくなかった。
ただ、布を解く指が、結び目を一度滑った。
「黒塔から民間の仕事へ出ている者はいる。ギルは、まだ出していない」
「まだというのは、明日には出るかもしれない、ということか」
俺はすぐには答えなかった。
机へ残してきた書面のことを、グラッドも考えただろう。こちらを見たが、口は挟まない。
「将来まで出さないと決めているわけではない。今日は、その扱いを見直していた」
「俺が来る前に、決まってたというわけか」
オーゼンは紙を机へ置いた。
当時の届け出の控えと、地区の裁定所から来た通知だった。紙の端は何度も開いたために毛羽立ち、折り目に沿って土埃が染み込んでいる。
「あいつが刑を受けたのは知ってる。俺も、それで済んだと思おうとした。だが、うちの損は戻ってない」
窓の外を荷車が通った。車輪が石を噛み、部屋の床へ細かな振動が伝わってくる。
「なくなった家畜の代わりを買うのに、借りを作った。働かせなきゃ畑が回らないからだ。今も、その分を返してる」
「戻ってきた物や、返された金はないのか」
「少なくとも、俺の手元にはない。役所からそんな話も来ていない」
男は帽子を机へ置いた。
「それなのに、あいつの出所の金だけが貯まる。そう聞いたら、黙っていられると思うか」
*
黒塔の中では、銅貨を本人のものとして残すところまで、ようやく辿り着いた。
その外側には、まだ損を抱えたままの人間がいた。
前世の制度を、そのまま持ってきて答えるわけにもいかない。この国で被害の回復をどう扱っているか、俺は十分に把握していなかった。
グラッドが通知を読み、日付と裁定所の名を確かめた。
「これは刑が定まったことを知らせる書類ですね。被害の弁償については、記載がありません」
「だから、ここへ来た。金を払う仕事をさせるなら、その前に俺へ返すよう言ってくれ」
「黒塔へ届いている収監書類にも、あなたへいくら支払うかを定めた書付はなかったはずだ。そこは改めて確かめる。ただ、俺の判断で囚人の保管金を引き出して、渡すことはできない」
オーゼンの目が細くなった。
「盗んだ奴の金は守って、盗まれた方は帰れというのか」
「帰って済ませるつもりなら、書類を確かめたりはしない。あなたの損がどう扱われたか、裁定所へ照会する」
「返事を待つ間にも、あいつは稼ぐんだろう」
「働けば対価は残る。そこを止めても、あなたの借りは減らない」
口にしてから、俺は男の指を見た。
爪の際が割れ、細い傷が幾つもあった。働いても借りが減らない日を、この男は何日も過ごしてきたのかもしれない。
「……言い方が悪かった。金を貯められる方だけ見ていれば、不公平に感じるのは当然だと思う」
オーゼンは返事をせず、紙の折り目を押さえ直した。
「飯を減らせと言いに来たわけじゃない。あいつの腹を空かせたって、俺の畑は戻らん。それくらいは分かる」
少し間を置き、男は低く続けた。
「だが、働いて立派になりました、もう昔のことです、とやられたら困る。俺には、今のことなんだ」
「黒塔の仕事をきちんとしたからといって、被害まで消えたとは扱わない」
「なら、それをあいつにも言え」
男の視線が、廊下の奥へ動いた。
会いたいのかと尋ねる前に、オーゼンの方から首を振った。
「顔を見たら、何を言うか分からん。今日は話を聞いてもらえればいい。俺が来たことは、伝えてくれ」
俺は頷いた。
囚人を出所へ向かわせる仕事と、被害を受けた人間の暮らしを立て直す仕事は、重なるところがあっても同じではなかった。
後者まで黒塔で全部引き受けると言えば、この男を別の約束で待たせることになる。
「通知は持って帰ってくれ。必要なところをこちらで写す。返事が来たら、あなたへも知らせる。そのための宛先を確認させてほしい」
オーゼンは長く息を吐き、グラッドへ紙を渡した。
*
ギルを呼んだのは、午後の仕事が一区切りついてからだった。
取調べ用の部屋へ入ってきた男は、机にある記録を見て、顔を明るくしかけた。
「外仕事の件ですね。今度は、俺の番も回ってくるんですか」
「その話もする。先に、今日ここへ来た人間のことを伝える」
オーゼンの名を出すと、ギルの口が閉じた。
椅子を引く途中だった手が止まり、看守に促されてから腰を下ろす。
「……家畜の件の人ですか」
「そうだ。盗まれた分の穴を埋めるために借りを作り、まだ返していると言っていた。被害の弁償がどう扱われたかは、裁定所へ確認する」
ギルは机の木目へ目を落とした。
「俺に直接話をしたいと来たんですか。正直、顔を合わせるのは怖いです」
「今日は望んでいない。お前が金を稼いで出所へ備える話を聞いて、自分の損はどうなるのかと来た」
「まだ金なんか、もらってませんよ。村の銅貨も、俺にはない」
「それは本人にも伝えた。お前だけがすでに貯め込んでいる、という話にはしていない」
ギルは膝の上で手を擦った。
金を持っていないと言った時より、返事に時間がかかった。
「判決は、六年でしょう。その分は、ここにいる。それとは別に、まだ何かあるんですか」
「その六年の裁定で、被害の回復までどう扱われたかを確認する。ここで勝手にお前の刑を増やす話ではない」
「だったら、俺にどうしろと」
語尾が荒くなった。
看守が一歩動いたが、俺は手で止めた。机へ手を伸ばしたわけでも、誰かに掴みかかったわけでもない。
「今すぐ答えを出せとは言っていない。ただ、お前がここで過ごしている間も、向こうの暮らしは続いていた。そのことは知っておけ」
「それを言われたら、何も言えないじゃないですか」
「言い分があるなら聞く。確認できることは確かめる」
ギルは口を開きかけて、閉じた。
やがて、喉の奥から絞るように言った。
「……盗んだことは、違うと言いません」
続く言葉はなかなか出なかった。廊下を歩く看守の鍵が鳴り、その音が遠ざかるまで、誰も口を開かなかった。
「捕まった後は、自分のことばっかりだったんです。何年入る、どこへ送られる、飯は出るのか。それからは、ここのことばっかりで」
ギルは顔を上げた。
「だから許してくれと言うつもりはありませんよ。ただ、借りがまだ残ってるって、今、初めて聞いた」
「今日聞いたから、明日には気持ちを決めろとも言わん。オーゼンさんも、今すぐお前の謝罪を聞きたいとは言っていなかった」
ギルはしばらく俺を見てから、再び机へ目を落とした。
*
俺は、朝から保留になっていた書面を手元へ引いた。
「外部作業禁止は、解除する。ただし、その場で外へ出す決定ではない」
ギルが顔を上げた。喜ぶより先に、訝しむ表情になった。
「今の話をした後で、解除するんですか」
「オーゼンさんが来る前から、記録を見て判断していた。荷袋へ潜った事実は残るが、その後の行動も評価する」
「報告したことも、評価に入れてもらえたんですね」
「火災で見つけた穴を知らせたことも、脱獄計画を持ってきたことも含む。だが、報告の褒美として外へ出すわけではない。日々の作業や指示に従えているかも見た」
グラッドが、条件を書いた部分をギルへ向けた。
「荷車の積み込みや、搬出する荷の扱いには付けない。お前が選ばれるとしても、現場を確認した上での作業になる。保安と医務、その日の黒塔内の配置によっては出さない」
「今日、帰ってきたら、また駄目になってるようなことは……」
「新しく理由が生じれば見直す。何もなくても気分で戻す、という扱いにはしない」
ギルは条件を指で追った。
字を確かめている間、俺は署名欄を空けたまま待った。やがて男が頷いたのを見て、ペン先をインクへ浸す。
「先ほどの被害の件を、お前がどう受け止めたかで、この判断を変えるつもりはない。反省したと言えば明日出す、黙っていれば出さない。そういう選び方はしない」
「それなら……分かりました。仕事は、やりたいです」
署名を入れると、ギルはわずかに身を乗り出した。
外仕事に出る保証をもらったわけではない。それでも、ずっと閉じられていた候補の欄へ、自分の名が戻る。
その紙を見る顔には、朝の軽さがなかった。
「もし金が貯まったら、あの人へ回せるんですか」
グラッドが俺へ目を向けた。
囚人の金を家族などへ送る仕組みも、まだ黒塔には整っていない。被害を受けた相手へ払うなら、宛先だけでなく、何の支払いとして受け取るかも確かめる必要があった。
「今すぐできるとは答えられん。裁定所への確認と、保管金を本人の意思で支払う手続きの両方を調べる」
「五枚で済むとも思ってません。ただ、俺が一枚も持たないままなら、何も回せないでしょう」
「そうだな。ただし、払えば会ってもらえるとか、許されるとか、そういう約束にはできない」
「……そこまでは、言ってません」
ギルは背もたれへ身体を戻した。
「まだ一枚も稼いでないのに、何を話してるんだか」
乾いた笑いが漏れたが、すぐに消えた。
*
夕方、正門から届いた連絡を、グラッドが持ってきた。
オーゼンは書き写しが終わるのを待って、自分の紙を受け取って帰ったという。門番へ礼を言ったそうだが、俺への言伝はなかった。
「怒りが収まった、という顔ではなかったようです」
「収まる材料は、まだ何も渡せていないからな」
机には、ギルの作業禁止解除の控えと、裁定所へ出す照会文が並んでいた。
外仕事の候補へ戻すための判断は、今日で終えた。一方、オーゼンが負った損については、金額も残っている借りの扱いも、これから確かめなければならない。
「照会は、刑の執行と被害回復の扱いが分かる形で出します。黒塔の保管金を、すでに差し押さえたと受け取られないように」
「頼む。本人が払う意思を口にしたことも、支払い済みのようには書くな」
グラッドが頷き、紙を一枚引き寄せた。
窓の外では、夕食へ向かう囚人たちが歩いていた。石床を踏む靴音に交じって、厨房の扉が開く音がする。
列の後ろの方に、ギルがいた。
隣の男に何か尋ねられ、首を振っている。やがてこちらの窓に気づいたが、手を上げることも、笑ってみせることもなかった。
俺も呼び止めなかった。
ギルが角を曲がると、窓の下を、昼間オーゼンが座っていた部屋の看守が通った。椅子へ忘れかけた帽子を、門まで追って渡したのだと言う。
あの擦り切れた帽子も、今は街道のどこかを黒塔から遠ざかっている。
俺は照会文へ宛先を書き入れ、明朝の便へ回すようグラッドへ渡した。
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