第58話 その手では、午後は働かせられない
昼食のパンをちぎれない男がいる、と看守が知らせに来た。
俺はハイン・ロフタの倉庫建設現場で、午後の運搬路を見ていた。石を積んだ荷車が通るたび、土を締めた道に車輪の筋が深くなる。基礎を組む職人たちの槌音に交じって、昼休みに入った作業員の話し声が聞こえていた。
「右手を使いません。水の椀も左で持っている。本人は何でもないと言いますが、腫れています」
看守は俺の返事を待たず、男を作業列から外していた。
資材置き場の陰に、三十代半ばほどの囚人が座っている。膝には、裂け目だけ付いたパンが載っていた。右手を腿の下へ隠しかけ、近づいた看守に止められる。
「もう一度見せろ。何もしないから、台の上へ置くんだ」
「さっき、ぶつけただけです。午後には引きますよ」
声は落ち着いていたが、手を台へ載せる動作はひどく遅かった。指の付け根から手の甲にかけて腫れ、皮膚の色も変わり始めている。
俺は向かいの木箱へ腰を下ろした。
「いつ、何にぶつけた。荷を運んでいた時なら、場所も教えてくれ」
「午前の終わりです。西側で、石を下ろす時に……」
男は言いかけて、作業場を見た。
同じ班の囚人が二人、こちらの様子を窺っている。近くでは、雇われた人足がパンを噛みながら靴底の泥を落としていた。
「石と荷台の縁の間に挟みました。すぐ抜けたし、その後も運べたんです。本当に、大したことじゃありません」
「手を挟んだ後も、荷を持ったのか」
「持てましたから」
見せるつもりだったのだろう。男は水の椀へ右手を伸ばし、指が縁に触れたところで顔を歪めた。
看守が先に椀を押さえ、左側へ寄せる。
「もう試さなくていい。汁物もある。食べられる方で食べておけ」
男は右手を引っ込めたが、パンには触れなかった。
「監獄長。午後も出してください。運ぶのが無理なら、土を均す方へ回れます」
「鋤を使うにも、その手は要る。今日は医務へ戻す」
男の顎が強張った。
ただ休みを嫌がっている顔ではなかった。
*
ハインは呼ばれて来ると、まず男の手を見た。
「これは……。作業頭には、もう知らせましたか」
「場所を確かめてもらっている。ほかに手を挟みそうな箇所がないかも見てくれ」
「分かりました。石を下ろすところが狭いんです。午後は荷車をもう少し離して止めさせます」
その返事を聞いた男が、慌てて顔を上げた。
「俺が手を入れただけです。場所を変えるほどのことじゃありません。皆、同じようにやってましたから」
作業頭が土の付いた手袋を外しながら近づいてきた。
「同じようにはやってない。石の下へ指を掛けるなと、朝に言っただろう」
「持つところがなかったんですよ。待っていたら、次の荷車が来る」
「だったら待たせろ。手を潰してまで空けろとは言ってない」
男は黙った。作業頭もそこで言葉を切り、足元の土を靴で擦った。
荷車の列が詰まり、前の者が急ぐ。後ろの者は、その動きを見て自分も急ぐ。誰も怪我を命じてはいないが、朝の注意だけで止まる流れでもなかった。
「午後に再開する前に、下ろすところを見せてくれ。手を入れるなと言うなら、入れずに済む下ろし方ができるか確かめたい」
俺が言うと、作業頭は頷いた。
「当て木を足します。下へ隙間を作れば、持ち替えられる。余った角材もありますから」
「その分だけ荷台が高くなる。石が転がらないかも見てくれ」
ハインが口を添えた。
二人が現場へ向かってからも、男は動かなかった。左手でパンを握り、潰れるほど力を入れている。
「今日は三枚になるんですよね」
ようやく出てきた言葉に、看守が俺を見た。
半日以上働いた場合は、小銅貨三枚。契約にそう書いてあり、出る前にも説明してある。
「午前の作業分は、三枚で記録する」
「残りも働けば五枚です。あと少し座っていたら、使えるようになるかもしれないでしょう」
「それをここで待って判断するつもりはない。ラッセルに診せる」
「明日も外されたら、その次も……」
男は言い直そうとして口を閉じた。
卓上の椀から湯気が細く上がる。その向こうで、男が唇を噛んだ跡が白くなっていた。
「出た時の金を、貯めたいんです。家に戻れるか分からないし、仕事があるかも分からない。ここで取れる分くらい、取っておきたい」
五枚という額だけを見て、必死になるなとは言えなかった。
黒塔には、刑期を終えても帰る場所の定かでない者がいる。カレブのように仕事へつながる書類を持てても、雇われる保証までは付けてやれない。
その不安へ、初めて具体的な銅貨の数が付いた。
「貯めたい理由は分かった。それでも、今日の午後は出せない。握れない手で石を落とせば、お前以外にも当たる」
「俺が気をつければ……」
「さっきは水の椀も持てなかった。ほかの者へ任せるべきところまで、自分で何とかしようとするな」
男はパンを卓上へ置いた。
納得したとは言わなかったが、ようやく右肩から力が抜けた。
*
戻すと決めても、すぐに出発はできなかった。
二十人のために出している看守から二人を抜けば、現場の配置を組み直すことになる。怪我人一人を帰す都合で、残る十九人の警備まで薄くはできない。
グラッドへ連絡を送り、交代の看守を出せるか確認した。
ハインは空になった荷車を一台、作業場の端へ寄せさせた。
「これで送ってください。午後の資材は別の車で運べます。歩かせて悪くされた方が困りますから」
「助かる。ただ、看守の交代が着くまでは待つ」
「ええ。その間に飯を食べさせましょう」
ハインは男の膝に残ったパンを見て、厨房代わりの小屋へ声を掛けた。温めた汁をもう一椀持ってこさせ、硬いパンを浸せるようにする。
同情だけで動いているとも思わなかった。
ここで大きな怪我が出れば、黒塔から人を出せなくなるかもしれない。彼には倉庫を完成させる都合があり、そのためにも作業員を壊して済ませるわけにはいかなかった。
「監獄長、一つだけ確かめさせてください」
男から少し離れたところで、ハインが声を落とした。
「明日、代わりの一人は来ますか。基礎の石は、できるだけ同じ日に入れたいんです」
「黒塔の中で人を出せるかによる。二十人を必ず揃える契約にはしていない」
「承知しています。ただ、朝になって人数が減ると、職人の手配にも響くので」
「今のうちに、十九人でも進められる順を作業頭と考えておいてくれ。代わりを出せるなら、朝の確認で伝える」
ハインは顎を撫でた。すぐに満足できる返事ではなかったはずだ。
「……先に小さい石を回すか。人を待たせるより、その方がましですね」
彼が作業頭のもとへ戻ると、休憩していた囚人の一人が、怪我をした男へ近づこうとした。
看守が間へ入り、少し離れた位置で止める。
「話なら、そこからでいい」
「お前、帰ったら俺まで外されるようなことを言うなよ。同じ車をやってただけだろう」
男の顔が再び強張った。
俺が口を開くより先に、看守が相手を見据えた。
「こいつが帰る理由は、手の怪我だ。お前の午後の仕事は、作業頭が決める。口止めする必要はない」
「そんなつもりじゃ……。俺は、巻き込まれたら困ると思って」
「なら、見ていたことを聞かれた時に答えろ。隠せば、同じ場所でお前が挟むかもしれん」
囚人は舌打ちしかけて飲み込み、自分の卓へ戻った。
心配して近づく者ばかりではない。そのやり取りを見ていた別の男は、何も言わず、怪我人の落とした外套を拾って荷車へ載せた。
*
交代の看守二人が着いたのは、午後の作業を始める頃だった。
グラッドは資材庫の棚卸しを先へ回し、人を出していた。収容棟や門から無理に引き抜かずに済んだという伝言に、俺は少し息をつく。
引き継ぎを終え、元からいた看守二人が帰還の護送へ付いた。俺も荷車に乗り、男とともに黒塔へ戻った。
帰路の手枷は、腫れた箇所を避けてどう掛けるか、看守が出発前に確かめていた。右手を乱暴に捻る者はいない。それでも男は、荷車が揺れるたびに息を詰めた。
医務室へ着くと、ラッセルが手を見た途端、顔をしかめた。
「これで、昼まで石を運んでいたんですか」
「挟んだのは昼前です。それまでは普通に……」
「挟んだ後も運んだと聞いています。痛みが変わった時は、その順に話してください。大したことがないかどうかを、先に決めなくて結構です」
ラッセルは傷の有無を確かめ、指先の色や感覚を一つずつ見ていった。男が痛みを堪えるたび、動かす範囲を小さくする。
「骨を痛めているかは、今ここでは断定できません。少なくとも、物を持たせていい手ではありません。今日は冷やして支え、腫れの変化を見ます」
「明日の外仕事も、無理ですか」
「今の状態なら出せません。その先は、診てからです」
男は天井へ目を向けた。梁に溜まった埃を見ているのか、何も見ていないのか分からなかった。
「早く戻りたいなら、何をすればいいです」
「まず、その手を使わないことです。ほかの仕事ならできる、と勝手に始めないでください」
「座っていても、何か……」
ラッセルの目が俺へ向いた。
木工場のベンへ座り仕事を認めた話を、男も聞いているのだろう。ただ、脚を痛めた男と手を痛めた男では、できることが違う。
「仕事は医務の指示が出てからだ。今ここで、代わりを探す話はしない」
俺が答えると、男はようやく頷いた。
*
夕方、残る十九人は全員戻った。
下ろし場には当て木を使う手順を加え、作業頭が実際に持ち替えを見てから再開したという。午後に同じ怪我は出なかったが、それだけで安全になったと決めるには早い。
帰ってきた看守は、荷車を続けて入れると、また下ろす者が急がされる、と報告した。
「待つ車の場所を離してみます。近くへ寄せると、運び手から早く空けろと声が掛かるので」
「ハインには、その待ち時間も見込んでもらえ。予定を取り戻すために、明日だけ荷を増やすようなことはさせるな」
看守は頷き、作業記録の余白へ書き足した。
賃金の確認は、その隣で進んでいた。
十九人が五枚ずつで九十五枚。午前で戻った一人が三枚。労働対価の合計は、小銅貨九十八枚だった。
保管担当が数えた銅貨を、グラッドがもう一度確かめる。警備と輸送の費用は別にし、交代のために増えた分も記録へ残した。
「医務から、三枚の受領票は本人へ渡してよいと連絡が来ています」
「俺が行く。怪我を隠した件は、賃金と混ぜて扱うな」
「承知しています。働いた分を罰として引く契約ではありません」
グラッドは乾いた紙を選び、俺へ渡した。
医務室の男は、右手を支えられた姿で腰掛けていた。受領票を左手で受け取ると、そこに書かれた三枚という数字を見た。
「五枚にしてくれとは言いません。ただ、明日から呼ばれなくなるのかと思うと……」
「怪我を理由に外す間と、保安上の理由で外す扱いは分けて記録する。手が戻った後に仕事へ出せるかは、その時の医務と配置で決める」
「戻れるとは、言ってもらえないんですね」
「今は言えん。だが、怪我をしたという理由だけで、先々まで禁止にするつもりもない」
男は受領票の端を、親指でゆっくり撫でた。
安心させるために言えることは、思ったより少なかった。明日の五枚を用意してやることも、治る日を決めてやることもできない。
「次に痛めた時は、その場で言ってくれ。今日の手を見つけた看守も、お前を仕事から追い出したくて見ていたわけではない」
「分かっています。あの人には、椀も取ってもらったし」
少し間を置いて、男が俯いた。
「……金が付く前は、早く昼になれとしか思ってなかったんですけどね」
「俺も、金を付けた後の顔まで、よく見ておくべきだった」
戸口で看守の靴音が止まった。男の外套を預かってきたらしく、腕へ掛けている。
男はその看守へ、気まずそうに目を上げた。
「明日、下ろす連中に言っておいてください。石と縁の間へ手を入れると、抜けても後からこんなに腫れるって。抜けた時は、まだ使えたんです」
「そこも朝に伝える。誰の話かまで広める必要はないな」
「手を見られてますから、もう分かるでしょうけど」
看守が外套を椅子へ掛けると、男は受領票をその内側へしまおうとした。右手を浮かせかけ、途中で気づいて膝へ戻す。
看守は黙って外套を開いてやった。男は左手だけで紙を奥へ押し込み、今度は礼を言った。
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