第55話 その銅貨は、監獄のものじゃない
堤の応急補修が終わったのは、それから三日後だった。
崩れていた十八メートルの斜面には土籠が重ねられ、その上へ新しい土が締め固められている。
完成したわけではない。
本格的な補修は水位が下がってから改めて行うらしい。
それでも、次に多少水が増えた程度で村まで一気に持っていかれる状態ではなくなった。
「ここまでです」
現地の作業頭が泥だらけの長靴で堤を踏み、何度か体重を掛けた。
「これ以上やるなら、今度は石材と木材を揃えてからになります」
「黒塔の人手は、もう要らない?」
「ええ。助かりました」
初日に比べると、随分素直な返事だった。
水際で働く者には村人も囚人も同じように命綱を付けるようになり、昼食も重労働へ入る者には同じ量が出るようになった。
昨日など、村の男が自分から、
「こいつの縄、緩んでるぞ」
と囚人の腰縄を直していた。
仲良くなったわけではない。
仕事の邪魔になる扱いをやめただけだ。
それで十分だった。
「監獄長殿」
役所の担当官がこちらへ歩いてくる。
泥の跳ねた外套は、最初に会った時よりさらに汚れていた。
「こちらへ来てもらえますか。村の者から話があります」
「俺に?」
「正確には、黒塔から来た方々へです」
嫌な予感はしなかった。
ただ、何をするつもりなのかは分からない。
◇
作業道具を洗っていた二十八人を一か所へ集めた。
看守六人もいる。
手枷はまだ付けない。
作業区域の片付けと人数確認が終わるまでは、これまでと同じ運用だ。
そこへ村人が何人かやってきた。
先頭は、昼食の量で文句を言っていた中年の男だった。
手には木箱を持っている。
「監獄長さん」
「何だ」
「これ、あんたに渡しゃいいのか?」
木箱の中を見せられる。
小さな銅貨が入っていた。
思わず役所の担当官を見る。
「聞いていない」
「私もさっき知りました」
「何の金だ」
村の男が眉を寄せた。
「何のって、礼だよ」
後ろの村人たちも頷く。
「この五日、こいつらが働いた分だ。役所から労役の金が出るとか、そういう話じゃないぞ。村で少しずつ出した」
「囚人に?」
「囚人にだよ」
男は少し不機嫌そうに言う。
「最初は俺だって嫌だったさ。何で罪人に余計な飯まで食わせるんだってな」
「覚えている」
「忘れろよ、そこは」
周囲から笑いが漏れた。
男も頭を掻く。
「でも働いたのは働いた。あそこの水際なんて、村の連中でも嫌がる場所だ。縄付けてからは俺らも降りたが、それまではこいつらが先に入った」
一度、二十八人を見る。
「だから一人二枚。大した額じゃねえ」
木箱の中には五十六枚あるらしい。
「直接渡しても?」
俺はすぐには答えなかった。
囚人に金を持たせる。
監獄の中では、かなり面倒な話になる。
賭け。
物の売買。
看守への賄賂。
脅して奪う者も出る。
「少し待ってくれ」
「駄目なのか?」
「礼を受け取ることが駄目なんじゃない。持ち込めない」
村の男が首を傾げた。
「金を?」
「ああ」
列の中の囚人から、不満そうな声が上がる。
「せっかく貰えるのに没収ですか」
「没収とは言っていない」
そちらを見る。
「黒塔へ入った時、持っていた私物を預けただろう」
「ああ……」
「金もそこへ入れる」
別の男が口を挟む。
「出るまで触れない?」
「基本的にはな」
「俺、あと六年あるんですけど」
「六年あるから監獄の金にしていい、とはならない」
何人かが顔を見合わせた。
村の男も木箱を覗き込む。
「本人に渡したことになるのか、それ」
「本人名義で保管する。受領票も出す」
「面倒だな、監獄って」
「俺もそう思う」
担当官が横で咳払いをした。
「監獄長殿が言うことではないのでは」
「働けば分かりますよ」
「遠慮しておきます」
◇
その場で銅貨は配らなかった。
まず、誰から誰への贈り物なのかを確認する。
村全体から、五日間働いた黒塔の二十八人へ。
一人二枚。
看守分はない。
「俺たちは?」
若い看守が冗談交じりに言う。
村の男が即座に返した。
「あんたら給金出てんだろ」
「囚人も働いてますよ」
「だから出してんじゃねえか」
「それもそうですね」
看守は素直に引き下がった。
木箱ごと黒塔側で預かり、村と役所の担当者に数量を確認してもらう。
五十六枚。
グラッドが受領書を二通作った。
一通は村へ。
もう一通は黒塔で保管する。
「これでいいか?」
村の男に聞く。
「俺には半分も分からん」
紙を睨んでから、役所の担当官へ押し付ける。
「お前が見ろ」
「私ですか」
「字が読めるだろ」
「あなたも読めるでしょう」
「細かい字は嫌いなんだよ」
どうやら村の中でもこんな調子らしい。
担当官が一通り確認し、問題なしと判断した。
◇
「金だけじゃありません」
後ろにいた年配の女性が、今度は布を掛けた籠を出した。
中には赤みの強い小さな果実が入っている。
林檎に近い。
「これは?」
「畑の端で採れたものです。人数分あります」
また二十八個。
「こっちは本人に渡してもいいでしょう?」
俺より先に、列から声が上がった。
「監獄長、果物まで保管庫に入れたら腐りますよ」
「分かっている」
笑いが起きる。
さっき銅貨を没収されると思っていた男だった。
「食べ物は確認してからだ」
「毒なんて入れてないよ」
女性が少しむっとする。
「疑っているわけじゃない。外から監獄へ食べ物を持ち込む時の確認だ」
「全部切るのかい?」
「そこまではしない」
役所側にも確認してもらい、傷みや異物がないかを見る。
問題なし。
「夕食と一緒に出す」
囚人の一人が果実を見ながら言う。
「今食べちゃ駄目ですか」
「帰るまでまだ歩く」
「だから腹減ってるんです」
「手枷を掛けて果汁まみれになりたいなら止めない」
自分の両手を見る。
「夕食まで待ちます」
「賢明だ」
村の女性が吹き出した。
◇
帰還前の確認を始める。
二十八人。
一人ずつ名前を呼ぶ。
返事を確認。
身体検査。
工具の持ち出しなし。
村人から勝手に物を受け取った者もいないか尋ねる。
「何もない」
「俺も」
「ないです」
最後の一人まで確認する。
そこまで終えてから手枷を掛けた。
村の男が、その様子を黙って見ている。
「やっぱり付けるんだな」
「帰り道はな」
「五日働いて、一人も逃げなかったんだろ」
「ああ」
「それでも?」
「それでもだ」
男は少し考えてから頷いた。
「まあ、俺でも家の金庫は毎晩閉めるか」
「そういう話だ」
「俺は囚人じゃないぞ」
「金庫の話だ」
「分かってるよ」
二十八人の列が動き始める。
後ろから、
「また崩れたら頼むぞ!」
と声が飛んだ。
列の中の誰かが、
「崩すなよ!」
と返した。
看守が振り返る。
「列を乱すな」
「声だけです」
「前を向け」
「はい」
村人たちの笑い声が背後へ遠ざかっていった。
◇
正門へ戻る頃には日が傾いていた。
いつもどおり、門の内側でもう一度名前を確認する。
二十八人。
全員。
その後、グラッドが木箱を管理棟へ運んだ。
「まず五十六枚を二枚ずつ分けます」
「二人で確認してくれ」
「保管担当も立ち会わせます」
入所時に預かった私物を保管する部屋へ行く。
棚には番号の付いた袋や箱が並んでいる。
カレブが出所した時に返した硬貨や首飾りも、ここに保管されていた。
担当職員が二十八人分の保管記録を出す。
一人目。
小銅貨二枚。
本人名義の袋へ入れる。
日付。
理由。
《堤防応急作業に対する村民からの贈与》
受領数。
二枚。
確認者。
グラッドと保管担当。
「本人にも受領票を渡す?」
「渡す」
「房へ紙を持ち込ませますか」
「危険物になるような物ではない。なくした場合に備えて控えは残す」
一枚ずつ作っていく。
地味な作業だ。
五十六枚を箱へ投げ込んで、
《いつか出所する時に適当に分ける》
では済まない。
誰のものか分からなくなった金は、誰のものでもなくなる。
◇
夕食時、二十八人には果実が一つずつ付いた。
当然、ほかの囚人は気づく。
「何だ、それ」
「川仕事の礼だって」
「外へ出た奴だけ?」
「村の人間が俺らにくれたんだから仕方ねえだろ」
「俺も行けばよかった」
「お前、外仕事外されてるだろ」
そんな会話が聞こえる。
大きな揉め事にはならなかった。
通常の食事量を減らして彼らへ回したわけではないからだろう。
ギルなどは隣の卓から果実を見ていたが、何も言わなかった。
外部作業から外されている理由は本人が一番よく知っている。
俺が食堂を通ると、二十八人のうち一人が声を掛けてきた。
「監獄長」
「何だ」
「これ、半分やってもいいですか」
隣には別の囚人がいる。
「強制されていないなら好きにしろ」
「取られたら?」
「それは別の話だ」
「分かりました」
果実を二つに割れるほど柔らかくはない。
男はしばらく考え、木匙の柄で押そうとしている。
「それで割れるのか」
「やってみます」
「食器を壊すなよ」
周囲から笑い声が上がった。
結局、厨房から小さな包丁を持った係が来て、看守の前で切った。
半分を隣へ渡す。
残り半分は本人が齧った。
全員が分けたわけではない。
自分の分を一人で食べる者も当然いる。
それでいい。
◇
夕食後、銅貨の受領票を二十八人へ渡した。
一人ずつ。
自分の名前と二枚という数字を確認させる。
「本当に俺の金になるんですか」
六年残っていると言った男が紙を持っている。
「ああ」
「六年後まで?」
「刑期どおりならな」
「途中で使えない?」
「今の黒塔には囚人が自由に買い物をする仕組みはない」
「家族へ送るのは?」
そこはまだ決めていない。
「現状では送金制度もない。必要なら、どう扱うか別に確認する」
「じゃあ、とりあえず預けるだけ?」
「そうなる」
男は受領票を見つめる。
「二枚だけなのに、随分大げさですね」
「二枚だから雑にしていいなら、二十枚でも同じことを言い始める」
「なるほど」
紙を折る。
「なくしても金は消えませんよね」
「保管記録は残っている」
「じゃあ安心だ」
それで房へ戻っていった。
◇
最後の受領票を渡し終えた後、グラッドと保管庫を確認した。
二十八人分。
小銅貨二枚ずつ。
合計五十六枚。
数字は合っている。
「こういう贈り物、今後も増えるでしょうか」
グラッドが尋ねる。
「分からない」
「外部作業へ出せば、同じことは起こり得ます」
「金を直接持ち込ませない。それだけは変えない」
「所有まで認める?」
「ああ。違法な物でないならな」
「揉めませんか」
「揉めるだろう」
誰がいくら持っている。
自分は貰っていない。
あいつだけ多い。
そういう話はいずれ出る。
「だから記録を残す」
「禁止する方が簡単ですが」
「簡単ではある」
ただ、今日村人が渡した銅貨は、看守を買収するためでも、脱獄道具を買うためでもない。
五日間働いた人間へ渡した礼だ。
囚人だから受け取れない、で全部を片づける必要はなかった。
「鍵を掛けます」
保管担当が扉を閉じる。
金属の錠が落ちる。
二十八人分の小さな袋が棚へ並んでいた。
それぞれに違う名前が書かれている。
保管棚のどこにも、黒塔の収入と書かれた札はなかった。
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