第53話 囚人三十人を、明朝までに出せ
その命令書は、朝食が終わる前に届いた。
「囚人三十人を、明朝までに出してほしいそうです」
グラッドが机へ置いた紙には、近隣を管轄する王国役所の印が押されている。
偽物ではない。
内容も、単なるお願いではなかった。
東側の川で堤が一部崩れ、次に水位が上がれば下流の村へ被害が出る可能性がある。その応急補修へ、黒塔から成年男子三十名を五日間出すよう求めている。
「根拠は?」
「公共災害時の労役規定です。囚人労働の徴用自体は可能です」
「断れるか」
「正当な理由なく拒めば、こちらが問題になります」
そこまでは分かった。
俺は続きへ目を通す。
作業内容、土砂運搬及び土嚢積み。
現地まで約一刻。
作業時間は日の出後から日没前まで。
工具は現地側が準備。
食事については――。
「昼食一回だけか」
「そう書かれています」
「朝と夜は黒塔で食わせるつもりだろうな」
「おそらく」
「水の記載がない」
「ありませんね」
「警備は?」
グラッドが無言で紙の下まで指を滑らせる。
どこにもない。
思わず椅子へ背を預けた。
「三十人だけ書いて、見張る人間は空から降ってくると思っているのか」
「昔の黒塔なら、こちらで勝手に用意して出していたのかもしれません」
「だから昔の話は参考にならないんだ」
命令そのものを拒む理由はない。
堤が危ないなら、人手は必要だ。
だが囚人三十人は、荷車へ三十袋積めば終わる話ではなかった。
「現場責任者を呼べるか」
「使者はまだ外門にいます。役所の担当官も一緒です」
「通してくれ」
◇
担当官は四十前後の男だった。
泥の乾いた長靴と、裾の汚れた外套を見る限り、机の前だけにいる役人ではないらしい。
「急な要請で申し訳ありません」
椅子へ座るなり頭を下げた。
「堤の崩れが広がっています。次の増水までに仮締めだけでも終えたい」
「人手が必要なのは理解しています」
「助かります」
「ただし、三十人をそのまま出すとはまだ言っていません」
男の表情が止まった。
「命令書ですが」
「読みました。労役へ出すこと自体は従います」
「では、何が問題でしょう」
「現地に看守は何人用意されていますか」
「看守?」
その反応で分かった。
「黒塔の囚人ですよ」
「もちろん承知しています。ただ、護送については黒塔側で――」
「三十人を一刻先まで連れていき、川辺で一日働かせ、また連れて帰る。こちらの警備人員だけで全部賄え、という意味ですか」
担当官は言葉を選んだ。
「従来は、そのように……」
「現場の出入口はいくつあります」
「街道側が二つです。ただ、川側へ抜けようと思えば――」
「いくつです」
「作業区域として区切ってはいません」
それでは見張る範囲すら決まっていない。
「水は」
「川があります」
「飲ませるんですか」
「上流なら飲めなくは――」
「腹を壊した三十人を連れて帰ることになりそうですね」
男が口を閉じた。
怒らせたいわけではない。
必要なことを決めたいだけだ。
「一度、現場を見ます」
「今日ですか」
「今日見ずに、明朝三十人出す方が怖いでしょう」
◇
現場までは、本当に一刻ほどだった。
俺とグラッド、それに担当官。
護衛として看守二人。
堤へ近づくにつれ、湿った土の匂いが強くなる。
川は今のところ穏やかだったが、水面には濁りが残っている。
問題の場所はすぐ分かった。
土を盛った堤の一部が、十八メートルほど川側へ抉られている。
完全に切れてはいない。
だが外側の斜面がごっそり落ち、残った部分にも縦に細い亀裂が走っていた。
近くでは村人と役所の作業員が土を籠へ入れて運んでいる。
土を掘る音。
濡れた籠を地面へ置く鈍い音。
川の流れ。
その全部に混じって、泥臭さがまとわりつく。
「三十人をどこへ入れるつもりです」
担当官が作業区域を指した。
「この辺りで土を掘らせ、堤へ運ばせます」
「工具は?」
「こちらです」
並べられていたのは、鋤が十二本。
土を運ぶ籠が十六。
手押し車が二台。
「三十人?」
「交代で使えば」
「待っている人間が増えるだけでは」
「人数が多い方が早いでしょう」
必ずしもそうではない。
俺は現場の作業員を見る。
掘る者。
籠へ入れる者。
運ぶ者。
積む者。
同じ場所へ人数を突っ込めば、今度は互いに邪魔になる。
「グラッド。ガイラスにこの数を見せたら何と言うと思う」
「道具が足りない、と言うでしょうね」
「俺もそう思う」
担当官が怪訝な顔をした。
「ガイラス?」
「黒塔にいる、兵站を長くやっていた男です」
「囚人ですか」
「囚人です」
「囚人の意見で人数を減らすんですか」
「数字が間違っているなら、王様の意見でも減らした方がいいでしょう」
男が一瞬こちらを見た。
言い方は少し悪かったかもしれない。
「現場の責任者はあなたです。必要人数をもう一度考えませんか」
◇
黒塔へ戻り、ガイラスへ状況を説明した。
地図。
崩落部分の長さ。
使える工具。
現地作業員の数。
往復時間。
昼食一回。
ガイラスは椅子に座ったまま、しばらく黙って紙を見ていた。
「三十人ですか」
「ああ」
「数字だけ先に決めた匂いがしますね」
「俺もそう思った」
「鋤十二本なら、掘る人間は十二人で十分です。籠を運ぶ者を八人から十人、土を締める側へ数人。交代要員を含めても二十四人あれば回せます」
「二十四」
「三十人連れていけば、六人は大半の時間を待たせることになります。待たせるだけならまだしも、囚人でしょう」
「見張る対象が六人増える」
「ええ。仕事量はほとんど増えず、警備だけ増えます」
グラッドが腕を組む。
「看守は何人必要だと思いますか」
「私なら黒塔側を六人」
「少なくないか」
「現地側で街道二か所を塞いでもらう前提です」
ガイラスが地図へ指を置いた。
「ここへ地元の兵か役人を二人ずつ。黒塔の看守は作業区域内を見る。川へ飛び込んで逃げる人間まで完全に止めるなら、もっと要りますが」
「泳げる川か」
「今日見た限り、渡るには危険です。ただし、危険だから誰も行かないとは考えない方がいいでしょう」
その通りだ。
「夜は?」
「泊めない方がいい」
「俺も同じ意見だ」
「往復で二刻失いますが、外泊させるなら寝床、夜間警備、便所、水、食事、全て新しく考える必要があります。五日程度なら毎日戻した方が安い」
ガイラスが紙を俺へ戻す。
「二十四人、看守六人。現地側で入口を四人。水は樽で持たせる。昼食は量を先に確認する。こんなところでしょう」
「助かった」
「私を現地へ連れていく気は?」
「ない」
「でしょうね」
「残念そうだな」
「久しぶりに外の道くらい見たい気持ちはありますよ」
「脱獄されたら俺が困る」
「私が走って逃げる歳に見えますか」
「年齢で判断しないことにしている」
ガイラスは小さく笑った。
「それなら結構です」
◇
担当官には、こちらの条件をその日のうちに伝えた。
「二十四人?」
案の定、最初にそこへ引っ掛かった。
「三十人出せという命令ですが」
「三十人分の仕事がありません」
「交代要員として――」
「交代を含めて二十四です」
机へ現場配置を書いた紙を出す。
「掘削十二。運搬八。堤側四。状況に合わせて交代する。現場の道具を増やすなら人数も再検討します」
担当官が紙を見る。
「警備についても条件があります」
「まだあるんですか」
「三十人を要求したのはそちらでしょう」
思わず少し笑った。
男も困ったように額を掻く。
「聞きます」
「街道側の二か所へ、そちらから二名ずつ置いてください。黒塔からは看守六名。囚人は毎夕、全員黒塔へ戻します」
「往復時間が惜しい」
「外泊させるなら、夜番を含めてこちらの看守をさらに出す必要があります」
「それは……困りますね」
「こちらも困ります」
「水は」
「黒塔から樽を二つ出します。昼食は、二十四人が重労働する量を用意してください」
「通常の労役食では不足ですか」
「土を掘って運ぶ一日です。黒塔でも重労働をした者には追加を出しています」
男が俺を見る。
「囚人ですよ」
「知っています」
「ずいぶん食わせるんですね」
「倒れたら作業が止まります」
それで十分だった。
担当官はしばらく考え、最後に頷いた。
「分かりました。その条件で受けます」
◇
誰を出すかは、役所側には選ばせなかった。
黒塔で決める。
まず医務。
ラッセルが外仕事に耐えられない者を外す。
次に保安。
最近の逃亡企図。
暴力。
外部作業から外している者。
当然、ギルは入れない。
以前、荷袋へ潜り込んで出ようとした件で、外部作業対象から外している。
ブラムも論外だ。
二度の逃走歴があり、今は高警戒区画内で段階的に作業範囲を広げている途中。
「希望者を募りますか」
グラッドが尋ねた。
「希望だけで決めない。ただ、条件に合う者の中で、外作業を嫌がる人間を無理に混ぜる必要もない」
「危険な作業では?」
「川沿いだ。転落や土崩れはある」
「では、候補を先に出して本人へ説明します」
「頼む」
二十四人。
普段、採石場や土木補修に入っている者を中心に選ぶ。
北壁で土砂運搬を経験した者も数人含めた。
石積みの専門家は要らない。
今回は土を運び、崩れた斜面を仮に押さえる仕事だ。
◇
翌朝。
二十四人が正門前へ並んだ。
囚人服の上から作業用の厚手の上着。
往路は手枷を使用する。
足枷は付けない。
一刻歩かせるのに足を繋げば、現場へ着く前に転倒者を作る。
看守六人が前後と左右へ配置された。
「名前確認」
グラッドが名簿を読む。
一人ずつ答える。
二十四人。
全員いる。
「水樽二つ、医療袋一つ、予備の布、昼食受領票」
看守が荷車を確認する。
「揃っています」
「現地へ着いたら、外すのは手枷だけだ」
俺が責任者へ言う。
「作業区域を出る時は?」
「再装着します」
「一人でも人数が合わなければ?」
「全作業停止。最後に確認した場所まで戻ります」
「それでいい」
門が開く。
朝の空気が流れ込んだ。
囚人たちの何人かが、正面の街道をじっと見ている。
長く黒塔にいる者なら、外の景色を見るのは久しぶりかもしれない。
列の中から声がした。
「監獄長」
「何だ」
「外に出て、そのまま帰ってこなかったら?」
周囲の看守が一瞬だけ硬くなる。
声を掛けた男は笑っていた。
冗談らしい。
「追う」
「ですよね」
「それに、お前一人のせいで残り二十三人まで次から外へ出にくくなる」
男の笑みが少し消えた。
「それは嫌われますね」
「よく考えてから走れ」
「走りませんよ」
「なら仕事をして帰ってこい」
列が動き出す。
鉄の手枷が小さく鳴り、二十四人が正門を出ていった。
◇
俺は黒塔に残った。
外へ出したからといって、監獄長まで一日付き添う必要はない。
昼過ぎには第一報が来た。
現場到着、全員確認。
手枷解除。
作業開始。
怪我人なし。
水量問題なし。
昼食量も事前確認どおり。
夕方前に、二通目。
作業終了。
軽い手の擦り傷一名。
医療袋で処置済み。
逃亡なし。
その文字を見ても、まだ終わりではない。
門を通るまでが外部作業だ。
◇
日が傾いた頃、外門の向こうから足音が聞こえた。
看守の声。
荷車の軋み。
手枷の鉄が触れ合う音。
「戻りました!」
門番が声を上げる。
外門を開く。
朝に出た列が、そのまま戻ってくる。
泥だらけだった。
上着の裾まで茶色く汚れ、靴には湿った土が厚く付いている。
疲れた顔。
それでも全員、自分の足で歩いていた。
「名前確認」
門の内側で止める。
グラッドが名簿を読む。
一人目。
返事。
二人目。
返事。
順番に続く。
二十三。
最後。
「いる」
二十四人。
全員いる。
「手の怪我は?」
列の中から一人が手を上げる。
掌に布が巻かれていた。
「擦っただけです」
「ラッセルに見せてから戻れ」
「はい」
朝に冗談を言った男が、俺の横を通る時に口を開いた。
「外、思ったより普通でした」
「何を期待していた」
「もっと自由な感じがするかと」
「手枷付きでか」
「そこなんですよ」
疲れた顔で笑う。
「仕事中に外してもらっても、逃げようとは思わなかった?」
「川に飛び込んだら死にそうでしたし」
「それだけか」
男は少し考えた。
「戻った方が飯が確実です」
「現実的で助かる」
「明日も行くんですよね」
「ああ」
「じゃあ、今日は寝ます」
「そうしてくれ」
列へ戻っていった。
◇
グラッドが受領記録へ数字を書いた。
「出門二十四。帰還二十四」
「明日も同じ人数か」
「一名の手の状態をラッセルが見てから決めます。無理なら予備候補と交代です」
「それでいい」
役所からは、予定より進みが早いという伝言も来ていた。
三十人いなくても作業は進んだらしい。
「先方から、明日は四人増やせないかと」
「何でだ」
「今日のうちに鋤を六本追加できたそうです」
「なるほど」
そこまで聞けば話は違う。
「ガイラスへ数字を見せよう。現場側が増えたなら、必要人数も変わる」
「最初から拒むわけではない?」
「理由が変われば判断も変わる」
グラッドが頷いた。
黒塔の外へ囚人を出す。
昔なら、それ自体が危険だから全員鎖で繋ぐか、逆に人手として雑に放り出すか、そのどちらかだったのかもしれない。
今は違う。
必要な人数を出す。
必要な警備を付ける。
食わせる。
働かせる。
そして、名前を確認して連れて帰る。
特別なことではない。
正門の閂が下ろされる重い音を聞きながら、名簿の最後へ目をやった。
二十四人出て、二十四人戻った。
今日は、それで十分だった。
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