第52話 命令権はない。危険なら叫べ
採石場で、人の背丈ほどある石材が横へ飛んだ。
轟音が谷へ響いたのは、昼前だった。
俺が現場へ着いた時には、砕けた木製の運搬台が斜面の下に転がり、その横で太い麻縄が蛇のように地面へ垂れていた。
白い石粉がまだ空気に漂っている。
「怪我人は?」
「いません」
ハロルが即答した。
頬にも作業着にも粉塵が付いている。
「全員確認したか」
「はい。作業班九十六名、看守を含めて全員無事です」
そこでようやく息を吐いた。
壊れた運搬台を見る。
厚い板が中央から割れ、鉄で補強した車輪まで片方外れていた。
あそこに人間が立っていれば、無傷では済まない。
「何が起きた」
「吊り上げていた石材が振れました」
ハロルが谷側を指す。
採石場では、切り出した大きな石を木組みの巻き上げ機で持ち上げ、運搬台へ載せる。
太い支柱を三本組み、上部へ滑車を吊り、数人で巻き取り棒を回す仕組みだ。
複雑な機械ではない。
だからこそ、一つ外れれば全部が人力へ返ってくる。
「原因は?」
「右側の固定杭が抜けました」
地面を見る。
太い木杭が一本、半分ほど土から浮いている。
周囲の土は抉れ、縄が強く擦れた跡が残っていた。
「作業中に?」
「はい。ただ――」
ハロルが少し離れたところを見る。
ドルガンがいた。
腕を組んでいる。
武器は持っていない。
囚人たちからも距離を取っている。
「ドルガンが先に気づきました」
◇
順番に聞いた。
今日吊っていた石材は普段より横幅があった。
重量自体は許容範囲内。
巻き上げ前の確認でも、支柱と縄に異常は見つからなかった。
石が地面を離れた直後、右側の固定杭が僅かに動いた。
「俺は見てませんでした」
ハロルが言う。
「巻き上げ側を見ていました。石が傾いてないか確認していたので」
「ドルガンは?」
「横から全体を見ていました」
ドルガンを呼ぶ。
男は不機嫌そうな顔で近づいてきた。
「俺からも聞かれるのか」
「当然だ。何を見た」
「右の杭が浮いた」
「どれくらいだ」
「最初は指一本分もねえよ」
「それで分かった?」
「土が動いた」
ドルガンが顎で固定杭を示す。
「杭そのものより、その根元だ。張ってる縄が引くたびに、手前の土だけ持ち上がってやがった」
「それを見てどうした」
ドルガンの眉間に皺が寄る。
「ハロルに言った」
「何と?」
「『右が抜けるぞ』ってな」
ハロルが続ける。
「私も確認しようとした直後、二度目に大きく動きました」
「そこで停止命令を出した?」
「出そうとしました」
出そうとした。
その言い方が引っ掛かった。
「誰が先に叫んだ」
ハロルがドルガンを見る。
「こいつです」
ドルガンが露骨に面倒そうな顔をした。
「『止めろ、右へ退け』って叫んだよ」
以前なら、それは完全に監督者の命令だった。
今のドルガンには、その権限はない。
「囚人へ直接か」
「ああ」
「俺が命令した」
開き直るように言う。
「文句あるか」
「続けろ」
ドルガンが少し拍子抜けしたような顔になる。
「巻き上げ棒の連中が手を止めた。石の下にいた二人も右へ退いた。すぐハロルも同じことを叫んだ」
「その後、杭が抜けた?」
「そうだ」
固定が外れ、張力を失った石材が振り子のように横へ走った。
無人になった運搬台へ激突。
台を砕いて止まった。
「ドルガンが叫ばなければ?」
ハロルの返事は短かった。
「二人が巻き込まれていた可能性があります」
石粉を含んだ風が谷を抜けた。
遠くでは、停止させていない別区画の槌音が続いている。
◇
その場でドルガンを処分する話にはしなかった。
先に原因を見る。
「杭が腐っていたのか」
保守担当が引き抜いた木杭を転がす。
「見える範囲では腐食なしです」
断面も硬い。
「では、地面か」
「その可能性が高いです」
地面を掘る。
表面は乾いている。
だが二十センチほど下から色が変わった。
湿った土が出てくる。
数日前の雨が、表面より深いところに残っていたらしい。
「昨日も同じ場所を使った?」
ハロルへ聞く。
「使っています。ただ、昨日吊った石は今日より小さいです」
「固定杭の位置は?」
「同じではありません。作業ごとに打ち直します」
「今日の杭が浅かった可能性は」
ハロルは逃げなかった。
「あります」
「誰が打った」
「作業班です。最終確認は私がしました」
「なら、まずお前の確認不足だな」
「はい」
ドルガンが横から口を挟む。
「ハロルだけのせいにすんな」
「まだ誰のせいとも決めていない」
「さっき確認不足って言っただろ」
「確認する責任はハロルにある。それと、杭が抜けた原因が同じ話とは限らない」
ドルガンが口を閉じる。
ハロルもこちらを見る。
「地面の含水まで見ろ、という話なら、今までの確認方法では足りません」
「そういうことだ」
杭を深く打てば何でも解決するわけでもない。
柔らかい地面に無理に固定すれば、今度は別の場所が壊れる。
「再開は保守担当とハロルで決めてくれ。俺は石吊りの専門家じゃない」
「分かりました」
ハロルが答える。
「ただし、同じ地面へそのまま打ち直すのはやめておけ」
「もちろんです」
◇
問題は、事故そのものより後に残った。
若い看守が報告書を持ってきた。
「監獄長、一点確認したいことがあります」
「何だ」
紙の一部を指す。
《元監督ドルガン、囚人へ直接作業停止および退避を命令》
事実ではある。
「命令権を持たせていないはずですが、これは規律違反になりますか」
少し離れたところでドルガンも聞いていた。
「ほら来た」
吐き捨てる。
「だから黙ってた方が面倒がなかったんだ」
若い看守が身構える。
「私はそういう意味で――」
「責めてない。聞かなきゃ報告書を書けねえんだろ」
ドルガンが面倒そうに頭を掻く。
「でもな、監獄長。次も同じことが起きたら、俺はまた叫ぶぞ」
「そうしろ」
全員がこちらを見る。
ドルガンまで黙った。
「何だ、その顔は」
「いや……」
「聞こえなかったか」
「聞こえたよ」
「なら問題ない」
若い看守が戸惑いながら尋ねる。
「命令権を戻す、ということでしょうか」
「違う」
そこは分ける。
「作業を始める、止める、人を配置する、懲罰を求める。そういう監督権限はハロルのままだ」
「では、今日の退避命令は?」
「危険を見た人間が『退け』と叫ぶことまで禁止する気はない」
「囚人でも?」
「囚人でもだ」
看守が少し考える。
「囚人が危険を見つけて『止まれ』と言っても、命令違反にはしない?」
「それで誰かが潰されずに済むならな」
ただし、と続ける。
「危険が去った後に、勝手に作業を仕切り始めたら別だ。再開を決めるのは責任者」
ハロルが頷いた。
「警告と指揮を分けるわけですね」
「そうだ」
◇
ドルガンは納得したようには見えなかった。
事故現場から人が引いた後、石材置き場の陰で声を掛けてきた。
「ちょっといいか」
「聞こう」
「随分、都合がいい話だな」
「何がだ」
「俺から指揮権を取り上げた。囚人へ触るな、命令するな、危険について助言だけしろって決めた」
「ああ」
「今日みたいな時だけ、『叫べ』か」
粗い言葉だが、怒鳴ってはいない。
本当に引っ掛かっているらしい。
「黙っていてほしかったか」
「そうは言ってねえ」
「なら、何が不満だ」
ドルガンは壊れた運搬台を見る。
「どこまでやっていいのか分からねえんだよ」
初めて、少し違う声だった。
「前なら、俺が全部決めてた。止めるのも、動かすのも、誰をどこへ立たせるのもだ」
「そうだったな」
「今はハロルに言え。俺は助言だけ。それは分かってる」
拳を一度開閉する。
「でも石が落ちるまで数秒しかねえ時に、『ハロルさん、危険です』なんて順番踏んでたら潰れる」
「だから今日の判断でいい」
「後から『命令した』って言われるかもしれねえだろ」
「俺が今、違うと決めた」
「お前がいない時は?」
そこで言葉が止まった。
ドルガンが見ていたのは、今日だけではない。
次の現場だ。
俺がいない時。
ハロルも別の場所を見ている時。
危険を見つけたのが、権限を持たない人間だった時。
「分かった」
「何がだ」
「そこは曖昧にしない方がいい」
ドルガンが眉を寄せる。
「危険が迫っている時は、誰でも停止と退避を叫んでいい。看守でも囚人でも、お前でもだ」
「それを規則にするのか」
「長々とは書かない。現場責任者へ伝える」
「その後は?」
「危険が去ったら責任者へ戻す。作業再開も配置変更も、勝手にやらない」
ドルガンが少し考えた。
「それなら分かる」
「お前に監督権を戻す話ではないぞ」
「何回言うんだよ」
「勝手に都合よく解釈しそうだからな」
「しねえよ」
「昔のお前なら?」
ドルガンが黙った。
「……したかもな」
その程度でいい。
◇
午後、作業を再開する前にハロルが全員を集めた。
九十六人。
看守。
ドルガン。
保守担当。
長い演説はしない。
「今日から一つだけ確認する」
ハロルが声を通す。
「落石、縄切れ、支柱の崩れなど、今すぐ人が怪我をする危険を見つけた者は、役職に関係なく『止まれ』『退け』と叫んで構わない」
何人かが顔を見合わせる。
「ただし、安全が確認された後の作業再開は、俺か当日の責任者が決める。勝手に持ち場を変えたり、他の者へ指示を出したりするな」
一人の囚人が手を上げた。
「間違いだったら?」
「何がだ」
「危ないと思って止めたけど、何もなかった場合です」
いい質問だった。
ハロルが俺を見る。
答えは任せた。
「故意に邪魔したのでなければ、それだけで処分しない」
ハロルが言う。
「見間違いと、作業妨害は別に見る」
「じゃあ、ちょっとでも危ないと思ったら止めていい?」
「ちょっとでも、ではない。人が怪我をする危険を見たらだ。何でも止めればいいと思うな」
「分かりました」
別の男がドルガンを見る。
「じゃあ今日、ドルガンは命令したんじゃないんですか」
ドルガンの顔が一気に険しくなった。
「俺に聞くな」
周囲から小さな笑いが漏れる。
ハロルも口元を少し緩めた。
「危険警告として扱う。監督権限は俺のままだ」
「本人、不満そうですけど」
「うるせえぞ!」
「ドルガン」
ハロルが呼ぶ。
「……はいはい」
「返事は一回でいい」
今度は笑いが少し大きくなった。
◇
巻き上げ機はその日、場所を変えて設置し直した。
固定杭も一本増やした。
地面は表面だけでなく、試し棒を入れて下の硬さまで確認する。
大げさな仕組みではない。
それでも、昨日までより一手増えた。
最初の石材を吊り上げる。
縄が張る。
木組みが低く軋む。
ハロルは石の傾きを見ている。
保守担当は杭。
看守は周囲の人間。
ドルガンは少し離れ、全体を見ていた。
誰も声を上げない。
石はゆっくり運搬台へ下りた。
「固定」
ハロルが確認する。
次の作業へ進む。
ドルガンが横を通った時、俺にだけ聞こえる声で言った。
「今日みたいに何も起きねえのが一番なんだよ」
「知っている」
「なら事故が起きる前に、もうちょっと俺の話を聞け」
「全部聞いたら昔に戻るだろ」
「そこまで言ってねえ!」
周囲の囚人が振り返る。
ドルガンが咳払いをして声を落とした。
「……必要なとこだけ聞け」
「それなら考える」
「偉そうに」
「監獄長だからな」
ドルガンは何か言い返そうとして、やめた。
◇
夕方。
採石場から最後の報告が届いた。
再開後の吊り上げ作業、十一回。
異常なし。
怪我人なし。
作業量は予定より少し落ちた。
ハロルが確認手順を増やした分だ。
「取り返しますか」
グラッドが尋ねる。
「何をだ」
「今日減った分です。明日、少し作業量を増やすかと」
「増やさない」
「納期は問題ありませんか」
「一日分の遅れにもなっていない。運搬台一台を壊して、それで済んだ方を喜んでおけ」
「分かりました」
書類を閉じる。
今日は、ドルガンが叫んだ。
昔なら、そのまま全員へ命令し、怒鳴り散らし、誰かの失敗として罰していたかもしれない。
今は違う。
危険を見つける目は使う。
指揮権は戻さない。
どちらか一方だけを選ぶ必要はなかった。
窓の外で、採石場から戻る囚人たちの列が中庭を通っている。
その中に怪我人はいない。
今日の成果としては、それで十分だった。
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