↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
50/71

第50話 脱獄するなら、俺たちを巻き込むな

 夕食の配膳が半分ほど進んだところで、食堂の奥から椅子を蹴る音が響いた。


 木の脚が石床を擦り、周囲の匙が一斉に止まる。


「だったら勝手にやれ。俺を巻き込むな」


 声の主はギル・ダーナだった。


 以前、出庫する荷車へ潜り込んで逃げようとした男だ。


 向かいにはガドルがいる。


 報告者への報復で懲罰房へ入ったことのある、三十四歳の男だった。


 二人とも立っている。


 殴り合いにはなっていない。


 だが、ガドルの右手は卓上へ置かれたまま強く握られ、ギルも椅子から半歩離れていた。


「座れ」


 近くの看守が間へ入る。


 警棒は抜いていない。


「話なら座ってしろ。それができないなら席を分ける」


 ガドルが看守を見る。


「俺たちは何もしてない」


「だから今は止めているだけだ」


「ギルが勝手に怒ったんだ」


「俺が?」


 ギルが一歩出かける。


 看守が腕を広げた。


「そこまでだ」


 別の看守も寄る。


 食堂のざわめきが薄くなり、煮込み鍋から上がる湯気だけが妙に目についた。


 俺は入口で足を止める。


 グラッドも横にいる。


「何があった」


 担当看守がこちらへ振り向いた。


「会話の途中までは聞こえていません。ギルが急に声を上げました」


「二人とも別の場所へ移せ。食事はそのまま食わせろ」


「承知しました」


 ギルとガドルが、それぞれ別の卓へ連れていかれる。


 反抗はしなかった。


 だが、ギルは途中でこちらを見ると、


「監獄長。後で話があります」


 とだけ言った。


     ◇


 夕食後、先にギルを呼んだ。


 小会議室ではない。


 食堂脇の職員控室だ。


 食器を洗う水音が壁越しに聞こえ、豆と石鹸の匂いが混じっている。


 グラッドも同席させた。


「喧嘩なら両方から聞く」


「喧嘩じゃありません」


 ギルは椅子へ浅く腰掛ける。


「ガドルから、逃げる話を持ち掛けられました」


 グラッドの目つきが変わった。


「詳しく聞こう」


「その前に一つ」


 ギルが俺を見る。


「俺が言ったからって、すぐあいつを懲罰房に入れないでくださいよ」


「理由は?」


「俺の話だけで処分したら、また報告した奴探しが始まる」


 以前、オルフが報告した後に襲われた。


 こいつなりに学んでいる。


「分かった。報告だけで処分は決めない」


「なら話します」


 ギルは一度扉の方を見た。


「火事の時、牢を開けたでしょう」


「ああ」


「その話をしてました。今度、同じような騒ぎを自分たちで作ればいいって」


 グラッドの指が机の上で止まった。


「火をつけるつもりか」


「そこまでは聞いてません。ただ、煙だけ出せば十分だと言ってました」


「どこで」


「洗濯場か、古い布を置いてる倉庫。濡れた布ならすぐ大火事にはならない、と」


 胃の奥が冷えた。


「誰から聞いた知識だ」


「知りませんよ。俺は火付け職人じゃない」


「続けてくれ」


「非常鐘が鳴れば、看守が火元へ寄る。収容棟から人を出す。そこで別の房の連中と混ざって、一人か二人だけ待機所から抜ける」


「その後は?」


「薪置き場か資材棟に隠れる。朝になって荷車が動いたら、そこから外へ出る方法を考える」


 45話の火災で、ギル自身が見つけた隙間と似ている。


 だが、あの資材扉はもう運用を変えた。


「ギル。お前が教えた資材扉は、今は開けっぱなしにならない」


「知ってます」


「ガドルは?」


「知らないでしょうね」


「なぜ教えなかった」


 ギルが呆れた顔をした。


「脱獄の相談してる奴に、『そこは対策済みだぞ』って親切に教えるんですか」


「それもそうだな」


 グラッドが口元を押さえた。


     ◇


「ほかに誰がいる」


 ギルは少し迷った。


「名前を聞いたのは二人です」


 教えられたのは、ガドルと同じ作業班にいる囚人二人。


 どちらも特別な高危険度ではない。


 一人は窃盗。


 一人は暴行。


「参加すると言ったのか」


「そこまでは知りません。ガドルは『三人いれば十分』と言ってました」


「お前を入れて?」


「そうです」


「なぜお前に声を掛けた」


 ギルの顔が露骨に嫌そうになる。


「前に逃げようとしたからでしょう」


「経験者扱いか」


「笑い事じゃないですよ」


「笑っていない」


「顔がちょっと笑ってます」


 俺は口元を戻した。


「それで、お前は何と答えた」


「断りました」


「理由は」


「さっき食堂で言った通りです」


 ギルの声が少し低くなる。


「やるなら勝手にやれ。俺たちを巻き込むな」


「俺たち?」


「俺一人じゃないでしょう」


 椅子から少し身を乗り出す。


「火事になったら、また全員起こされる。煙が来たら房を出される。誰か逃げたら次はもっと厳しくなる」


 指を一本立てる。


「今度は避難する前に一人ずつ手枷を掛けるかもしれない」


 もう一本。


「作業班の移動も締まる。荷車の検査も増える。外門だってもっと面倒になる」


「そこまで考えたのか」


「前に自分で逃げようとして、全部締められたら損だって分かったんですよ」


 自慢できる学習ではない。


 だが実用的ではある。


「それに」


 ギルが続ける。


「本当に火が回ったらどうするんです」


 さっきまでより表情が硬い。


「濡れた布なら大丈夫だ、なんて誰が保証するんです。前の火事だって、一人出られなくなったでしょう」


 乾燥室で棚に塞がれていた囚人。


 煙をかなり吸った。


 死者が出なかったのは結果でしかない。


「逃げるために人を焼くのは嫌だ、と?」


「そんな立派な話じゃないです」


 ギルは首を振る。


「俺まで焼かれるのが嫌なんです」


 十分だ。


     ◇


「報告したことは他言しない」


「お願いします」


「ただし、ガドルたちを今すぐ捕まえることもしない」


「分かってます」


「本当に?」


「証拠ないでしょう」


 こいつは妙に話が早くなった。


「俺の話だけです。前ならそれでも殴って吐かせたのかもしれないけど、今はやらないでしょう」


「ああ」


「だから、あいつらが本当に何かやるなら、その時に止めてください」


「お前はもう近づくな」


「向こうから来たら?」


「逃げろとは言わない。話を引き延ばす必要もない。断って看守のいる場所へ行け」


「了解です」


 立ち上がりかけたところで、グラッドが尋ねる。


「一つだけ。ガドルが具体的な日を言っていましたか」


「まだです。ただ、『次に夜番が薄い日』って」


「夜番が薄い?」


「そう言ってました」


 グラッドと顔を見合わせる。


「どうやって分かるんだ」


「知りません」


「看守の勤務表を見た?」


「そんなもん見られるんですか」


「普通は見られない」


 そこは確認が必要だった。


     ◇


 ギルを戻した後、勤務表を調べた。


 盗まれてはいない。


 職員控室の掲示にも、囚人から見える場所には出していない。


「夜番が薄い日、というのは本人の観察でしょうか」


 グラッドが言う。


「火事の後、配置を一部変えたな」


「はい」


 乾燥室の夜間火気をやめ、洗濯場側の巡回を増やした。


 一方で、火災対応の見直し中だけ臨時の担当を何人か動かしている。


「囚人側から見れば、いつも同じ看守が同じ場所にいない」


「それを人数が減ったと見た可能性はあります」


「実際には?」


「総数は減らしていません」


 なら、勤務表流出と決める理由はない。


「余計な犯人探しはやめる。ガドルたちだけ、通常範囲で動きを見る」


「房を捜索しますか」


「今はしない」


「理由は?」


「具体的な持ち込み情報がない。火を起こす道具を隠した、布を集めた、という話なら別だが」


 グラッドが頷く。


「監視を強めたと気づかれない程度に?」


「ああ。急に看守を増やしたら、ギルが話したと教えるようなものだ」


     ◇


 動きがあったのは翌日の夕方だった。


 洗濯場ではない。


 西側の物品庫だった。


 巡回中の看守が、作業終了後なのに裏手へ回ろうとしている男を止めた。


 ガドルと一緒に名前が出ていたうちの一人だ。


「何をしている」


 看守が尋ねる。


「布を戻し忘れた」


「作業終了時に確認済みだ」


「一枚だけ俺のところに残ってたんだよ」


「見せろ」


 男が持っていたのは、古い布が二枚。


 それ自体は危険物ではない。


 ただし、乾いている。


「なぜ裏から入る」


「表はもう閉まってるから」


「なら明日、担当へ返せ」


「今返した方がいいだろ」


「裏口は作業時間外に使わせない」


 そこまでなら、単なる規則違反で終わったかもしれない。


 看守が布を受け取った時、油の臭いに気づいた。


     ◇


 俺が物品庫へ着いた時、男はすでに壁際へ座らされていた。


 手枷は掛かっていない。


 看守二人が前に立っている。


 没収した布は石床の上ではなく、金属盆へ入れられていた。


「火は?」


「ありません」


「火打石や灯具は」


「身体検査しましたが、持っていません」


 俺は布に近づく。


 鼻へ持っていかなくても、油臭さが分かる。


「何の油だ」


「灯油に近いと思います。ただ、保守担当に確認させます」


 グラッドが答える。


 男を見る。


「説明してくれ」


「雑巾です」


「油を染み込ませた?」


「機械を拭いたから」


「何の機械だ」


 男が黙る。


 黒塔に機械らしい機械はほとんどない。


 手押し車や滑車なら油は使うが、その担当でもない。


「ガドルから頼まれたか」


 男の顔が動いた。


 ほんの僅かだった。


 だが、それだけで有罪にする気はない。


「答えなくてもいい。ただし、今の布を作業時間外に物品庫裏へ持ち込もうとした事実は記録する」


「火なんかつけてない」


「ああ」


「何もしてないだろ」


「油の付いた布を、閉鎖後の物品庫へ持っていこうとした」


「戻そうとしただけだ」


「なら、どこから持ち出した」


 返事がない。


「明日、担当者と帳簿を確認する。それまでは通常房へ戻す。ただし他の二人とは接触させない」


「懲罰房じゃないのか」


「まだ何をしようとしたか確定していない」


 男の方が戸惑った顔をした。


     ◇


 その夜、ガドルともう一人も別々に話を聞いた。


 同席はさせない。


 ギルの名前も出さない。


「油布について知っているか」


 ガドルは椅子へ深く座った。


「何の話だ」


「それを確認している」


「知らない」


「火事の避難について誰かと話したか」


「みんな話してるだろ」


「逃げる方法については?」


 少し間があった。


「冗談なら言ったかもしれない」


「どんな冗談だ」


「次に火事があれば走れるかもな、って程度だ」


「誰と」


「覚えてない」


「ギルとは?」


 目が動いた。


「話したかもしれない」


「内容は」


「覚えてない」


 全部忘れたらしい。


「分かった」


「それだけ?」


「ああ」


「懲罰房へ入れないのか」


「今のところ、話をしたというだけだ」


 ガドルが少し笑った。


「甘いな」


「そうかもしれない」


「前の監獄長なら――」


「今いるのは俺だ」


 声を荒らげずに止める。


「ただし、油布の件でお前が関わっていたと確認できれば話は別だ」


 ガドルの笑みが消えた。


「その時にもう一度話そう」


     ◇


 翌朝、油の出どころが分かった。


 保守用の潤滑油だった。


 車輪や滑車軸へ使う物で、保管場所には使用量の記録がある。


「昨日、一瓶だけ残量が合っていません」


 保守担当が帳簿を指す。


「紛失?」


「瓶そのものはあります。ただ、中身が減っています」


「鍵は?」


「保守作業中だけ棚を開けています」


「昨日、あの男は近くにいたか」


「荷車の積み替えに来ています」


 機会はあった。


 ただし見た者はいない。


 油布を持っていた本人をもう一度呼ぶ。


 今度は長く黙った。


 やがて、肩を落とす。


「俺が取った」


「理由は」


「……煙を出すためです」


 グラッドの表情が固くなる。


「火をつけるつもりだった?」


「少しだけだ」


「火に少しも多いもない」


 俺が言うと、男は下を向いた。


「布を燻らせて、鐘が鳴ったら人が動く。その間にガドルたちと抜けるつもりだった」


「ガドルも知っていた?」


「話をしたのはあいつです」


「命令された?」


「違う。俺も乗った」


「もう一人は?」


「途中で降りた」


「ギルは?」


 男が顔を上げる。


「あいつは断った」


 これで繋がった。


     ◇


 処分はその日のうちに決めなかった。


 火を起こす準備までしている。


 通常の作業拒否や口論とは重さが違う。


 実際に放火すれば、逃亡どころか死者が出る可能性があった。


「ガドルは認めません」


 グラッドが言う。


「油布を持っていた本人の証言だけか」


「はい」


「なら、それだけで火付け準備の実行者と同じ扱いにはしない」


「ただ、逃亡の相談自体は?」


「本人も冗談として話したことは認めている」


 机の上に記録を並べる。


 ガドル。


 油布を準備した男。


 途中で降りたとされるもう一人。


 そしてギル。


「ギルには処分なし」


「当然ですね」


「途中で降りた男は、話を聞いただけでは足りない。具体的な準備に関わった証拠がなければ処分しない」


「ガドルは?」


「逃亡を相談し、人を誘ったことについて規律違反として扱う。ただし放火準備まで主導したとは記録しない」


「油布の男は」


「別格だ」


 意図的に油を持ち出し、煙を起こす準備をした。


 それは実行段階に入っている。


「懲罰房。期間は過去記録と規定を照合して決める。通常食、水、寝具、医務は変えない。火気には今後触らせない」


「ガドルも懲罰房?」


「ああ。ただし日数は同じにしない」


 行為が違う。


 まとめて一つの事件にして、全員へ同じ罰を落とす必要はない。


     ◇


 最後にギルを呼んだ。


「油布が見つかった」


 ギルの顔から笑いが消える。


「本当にやる気だったんですか」


「ああ」


「馬鹿だな……」


 椅子へ座り、両手で顔を擦る。


「お前の話がなければ、見逃していた可能性がある」


「俺の名前、出ました?」


「本人から、お前は断ったと聞いた」


「そうじゃなくて」


 ギルが顔を上げた。


「ガドルに、俺が報告したって」


「伝えていない」


「ならいいです」


「怖いか」


「そりゃ怖いでしょう」


 即答だった。


「前にオルフが殴られたの、忘れてませんよ」


「必要なら配置を変える」


「それは嫌です」


「理由は」


「俺が逃げるみたいに見える」


「では、今のまま?」


「はい。ただし、何かあったらすぐ言います」


 無理に強がっているようには見えない。


「分かった。看守側には注意だけさせる。お前を目立って守る形にはしない」


「お願いします」


 立ち上がる前に、ギルが少し考え込んだ。


「監獄長」


「何だ」


「俺、前に逃げようとしたでしょう」


「ああ」


「今でも、門が全部開いてて、誰も見てなくて、外まで走れるってなったら……たぶん迷います」


 俺は黙って聞く。


「でも、だからって火をつけてまで逃げるのは違う」


「どこが違う」


「戻れなくなるからです」


「黒塔に?」


「違います」


 ギルは首を振った。


「今みたいな扱いにです」


 その言葉は予想していなかった。


「誰かが火をつけて、逃げて、人が死んだら、次から全部元に戻るでしょう。飯を減らされるかもしれない。扉も開けてもらえない。看守だって、話を聞かなくなる」


「そこまで戻すつもりはない」


「監獄長がそう思ってても、看守全員は?」


 返事に少し詰まる。


「王都は?」


 さらに続く。


「次に来る監獄長は?」


 そこまで考えていたのか。


「俺たちは選べませんからね」


 ギルが椅子から立つ。


「だから、脱獄するなら勝手にやれって思う。でも、俺たちまで巻き込むなって話です」


     ◇


 夕方、食堂では普段どおり夕食が出た。


 ガドルと油布を準備した男はいない。


 処遇確認のため別区画へ移している。


 ギルはいつもの席に座っていた。


 周囲の囚人が何か聞いている。


 だが大声にはならない。


 俺が通ると、ギルは一瞬だけこちらを見た。


 何も言わない。


 俺も声を掛けなかった。


 奥では木皿が並び、豆と野菜の煮込みから湯気が上がっている。


 八百四十人。


 その全員が今の黒塔を気に入っているわけではない。


 逃げたい人間もいる。


 判決に不満を持つ人間もいる。


 俺を信用していない人間も、当然いる。


 それでも、その中の一人が脱獄の相談を断り、こちらへ持ってきた。


 忠誠心からではない。


 善人になったからでもない。


 今ある生活を、誰かの無茶で壊されたくなかったからだ。


 俺が知っている大脱獄の日は、確実に近づいている。


 だが、そこで走り出すはずだった囚人たちの中に、今は「巻き込むな」と言う人間がいる。


 その違いがどこまで効くのかは、まだ分からない。


 分からないままでも、今日一つ火種を消せた。


 それで十分だった。




──────────────────

YouTubeショート動画作ってみました。

https://youtube.com/shorts/_zEBpYRUMc4?si=9bu0xxStFm2Bo5Z8

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。