第49話 五日間、逃げなかった
ブラム・ケイドに房外作業をさせ始めて五日が過ぎた。
問題は起きていない。
その報告を聞いて、俺は少し困った。
「何もなかったことが問題ですか」
執務机の向こうで、グラッドが苦笑している。
「問題ではない。ただ、判断しにくい」
五日分の記録をめくる。
朝と午後、それぞれ一刻。
高警戒区画内の確認室まで看守二名で移送し、移動中は手枷を使用。室内では手枷を外し、古い麻縄の選別と束ね直しを行わせた。
暴力なし。
作業拒否なし。
資材の持ち出しなし。
看守への脅迫なし。
逃走行為なし。
「これだけ見れば、継続で問題ないでしょう」
「作業の継続はな」
「集団作業へ出すかどうかですか」
「ああ」
グラッドが別の紙を取り出した。
「担当看守二名から、それについて意見が出ています」
「割れたか」
「見事に」
一人は、現在のまま続けるべきだという意見。
もう一人は、人数を絞った作業なら次へ進めてもいいという意見だった。
「理由まで聞こう」
◇
二人の看守を執務室へ呼んだ。
年長の方は勤務九年。
もう一人は五年。
どちらもブラムの房外作業を交代で担当している。
「まず、現状維持を求めた理由を聞かせてくれ」
九年目の看守が背筋を伸ばす。
「問題を起こしていないのは事実です。ただ、ブラムは移動中、周囲をよく見ています」
「具体的には?」
「鍵です」
机の上で組んでいた指を解く。
「鍵そのものを覗き込むわけではありません。ただ、どの扉を誰が開けるか、開けた後にどちらへ戻すかを見ています」
「ほかには」
「交代時間も気にしています。昼前、別の看守が来ると必ずそちらを見る。確認室までの歩数を数えているように見えた日もあります」
五年目の看守が横から言った。
「それは私も気づいています」
「それでも、お前は条件を広げてもいいと?」
「はい」
「理由は」
若い方は少し考えてから答えた。
「見ているだけだからです」
隣の看守が眉を寄せる。
「だから危ないんだろう」
「危ないのは分かっています。でも、見ないよう命令できますか」
「できなくても、見てる奴を人の多い場所へ出す必要はない」
「それなら、いつまで今のままなんです」
二人の視線がぶつかった。
俺は止めなかった。
「二度逃げてる男だぞ」
「知っています」
「護送中に人も殴ってる」
「それも知っています」
「だったら――」
「先輩」
若い看守が言葉を挟んだ。
「五日じゃ足りないなら十日ですか。一月ですか。一年ですか」
年長の看守が黙る。
「私は、明日から採石場へ出せと言ってるわけじゃありません。ただ、何日問題を起こさなくても『昔逃げたから駄目』で終わるなら、記録を取っている意味がないと思います」
今度はグラッドが口を開いた。
「では、どこまでなら進められると考えますか」
「高警戒区画の運動場です」
「屋外か」
「壁に囲まれています。外門へ直接続く扉もありません。出入口は一つで、鍵も看守側。今は個別運動で使っています」
なるほど。
「そこで何をさせる」
「今と同じ麻縄の作業です。作業内容は変えず、場所だけ変える。看守二名もそのまま」
年長の看守が腕を組んだ。
「場所を変える意味があるのか」
「確認室より見るものが増えます」
「それが危ないと言ってるんだ」
「だから見るんです」
若い看守は引かなかった。
「扉が一つ増えたらどう動くのか。ほかの人間の声が聞こえた時にどうするのか。今の部屋では、何も起こりようがない」
これは一理ある。
安全な箱に入れて、何も起こさなかった。
それだけで、環境が変わった時の行動まで分かったことにはならない。
「グラッドは?」
「私は段階を一つ上げることには賛成です。ただし、集団作業はまだ反対です」
「俺も同じだ」
年長の看守を見る。
「反対か」
「……心配ではあります」
「それは俺もだ」
「なら、なぜ」
「心配だから、失敗しても外へ逃げられない場所で試す」
男はすぐには納得しなかった。
それでも反論を探すように少し黙った後、息を吐いた。
「看守二人は減らさないでください」
「減らさない」
「移動時の手枷も」
「そのままだ」
「ほかの囚人とは一緒にしない?」
「ああ」
「なら……試すこと自体には反対しません」
意見が変わったというより、条件を確かめて受け入れたようだった。
その方がいい。
◇
午後、確認室へブラムを出した。
いつもどおり、移動中は看守二人。
手枷を掛けたまま入室する。
ただし、机の上に麻縄の籠は置いていない。
「今日は仕事なしですか」
「話がある」
「嫌な始まり方だな」
「五日分の記録を見た」
ブラムは手枷をしたまま、固定された机の向こうへ立った。
「俺は真面目だっただろ」
「作業上の問題はなかった」
「なら、次は?」
待っていたらしい。
「集団作業には出さない」
露骨に顔をしかめる。
「五日やって、それか」
「ああ」
「じゃあ十日やれば出すのか」
「日数だけで決めないと言ったはずだ」
「便利だな、その言い方」
「便利だから使っている」
ブラムが鼻から息を吐く。
「監獄長。俺は逃げてない。暴れてもいない。看守にも手を出してない。縄も一本だって隠してない。それでも昔の二回をずっと言われるなら、俺は何をすればいい」
五日前より、ずっと長い言葉だった。
怒鳴ってはいない。
だが不満ははっきりしている。
「昔の二回は消えない」
「分かってる」
「今の五日も消さない」
ブラムが黙る。
「だから次へ進める」
「集団作業じゃないんだろ」
「高警戒区画の運動場で、今と同じ作業をさせる」
「外で?」
「壁の内側だ」
「他の囚人は?」
「一緒にはしない」
「看守は?」
「二人」
「手枷は?」
「移動中は付ける。作業中は外す」
ブラムが少し考えた。
「何が変わる」
「部屋の中より、見るものが増える」
男の目が一瞬止まった。
「俺が見てるの、気づいてたか」
「看守がな」
「鍵も?」
「ああ」
「交代も?」
「それもだ」
ブラムはしばらく俺の顔を見た後、声を立てずに笑った。
「やっぱり監獄だな」
「何だと思っていた」
「最近、ちょっと忘れそうになる」
「それは困る」
◇
「見るなと言わないのか」
ブラムが聞いた。
「言って意味があるか」
「ないな」
「なら好きに見ろ」
「鍵の形を覚えても?」
「見える範囲ならな」
「看守がどこで交代するか数えても?」
「頭の中まで検査する方法は知らない」
ブラムが今度は明確に笑った。
「変な奴だ」
「ただし、鍵へ触れば止める。決められた場所から外れようとしても止める。看守の動きを試すような真似をしたら、その日の作業は終わりだ」
「見てるだけなら?」
「好きにしろ」
笑みが消えた。
「本当に怖くないのか」
「怖いから看守を二人付ける」
「信用してない?」
「信用できる部分と、できない部分を分けている」
ブラムが手枷を見た。
「俺が五日間何もしなかったところは信用する」
「ああ」
「二度逃げたところも忘れない」
「ああ」
「面倒くせえな」
「人間を扱う仕事は大体そうだ」
ブラムはしばらく黙っていた。
「分かった。やる」
「なら明日からだ」
「今日じゃないのか」
「今日は今までどおり働け」
「そこは融通利かせろよ」
「仕事を欲しがったのはお前だろう」
ブラムが諦めたように肩を落とした。
「正論で返されると腹立つな」
「覚えておく」
◇
翌朝。
高警戒区画の運動場は、思ったより冷えていた。
高い石壁に四方を囲まれ、空だけが四角く見える。
地面は固く踏み締められた土。
壁際には排水溝があるが、人間が入れる大きさではない。
出入口は鉄扉一つ。
外側に看守二人。
中には固定された作業台を一つ置いた。
麻縄の籠も確認済み。
「入れ」
ブラムの手枷をしたまま中へ入れる。
視線が動いた。
空。
壁。
排水溝。
鉄扉。
作業台。
最後に、看守二人の腰へ戻る。
「露骨だな」
俺が言うと、ブラムがこちらを見る。
「見るなとは言わないんだろ」
「言わない」
「なら遠慮しない」
看守が手枷を外す。
ブラムは両手首を回した。
すぐ作業台へ行くかと思ったが、一度だけ空を見上げた。
雲がゆっくり流れている。
「外って感じがするな」
「壁の中だぞ」
「天井がないだけで違う」
それから籠へ手を入れた。
仕事が始まった。
◇
最初の半刻は何も起きなかった。
ブラムは縄をほどき、傷みを確かめ、長さを揃えて束ね直していく。
看守二人も、必要以上に近くには立たない。
一人は扉脇。
もう一人は反対側の壁。
俺は一度離れ、別の報告を処理してから戻った。
その時だった。
運動場の外の廊下を、別の囚人が通った。
医務室へ向かう男らしい。
看守二人に挟まれている。
鉄扉越しに、ほんの数秒だけ互いの姿が見えた。
「ブラム?」
向こうが気づいた。
ブラムの手が止まる。
「お前、こんな所で何やってんだ」
付き添いの看守が歩くよう促す。
男は通り過ぎながら声を落とした。
「いい身分だな」
ブラムは返事をしなかった。
作業を再開する。
男の足音が遠ざかる。
俺は少ししてから聞いた。
「知り合いか」
「同じ街道で顔を見たことがある」
「仲間だった?」
「違う」
「今の言葉は気にならないのか」
ブラムが縄を束ねながら答える。
「何が」
「いい身分だ、と」
「あいつから見りゃそうだろ。俺一人で外に出て、手枷まで外してもらってる」
「反論しない?」
「説明して何になる」
束を机へ置く。
「俺がここにいるのは、信用されたからじゃない。危ないから二人に見張られてる。そんな話を廊下越しに叫んで教えるのも馬鹿らしい」
思ったより冷静だった。
「それに」
「まだあるのか」
「俺は実際、こっちの方がいい」
空を見上げる。
「房で石を見るよりはな」
◇
昼前、交代の時間が来た。
扉の外に別の看守が二人来る。
ブラムの視線がそちらへ動いた。
やはり見る。
交代する二人。
鍵を受け渡す手。
確認する声。
全部見ていた。
「交代です」
新しい看守が言う。
「記録上、異常なし」
「引き継ぎます」
鍵が手渡される。
ブラムは縄を触ったまま、横目で追っている。
年長の看守が俺の近くへ来た。
「やはり見ていますね」
「ああ」
「気になります」
「俺もだ」
「止めますか」
「何を?」
看守は答えに詰まった。
「視線を?」
「……無理ですね」
「なら、鍵の受渡しを見られて困る方法でやるな」
年長の看守が交代相手を見る。
「鍵そのものの番号や形まで見える距離ではありません。ただ、誰が持っているかは分かります」
「それは廊下を歩いていても分かる」
「はい」
「見られることを前提にしよう」
隠しきれないものを、隠れているつもりで扱う方が危ない。
◇
作業終了。
ブラムは籠を戻し、手を机の上へ置いた。
看守が縄の本数と不良品を確認する。
不足なし。
手枷を付ける前に身体検査。
何も出ない。
「今日の感想は?」
俺が尋ねると、ブラムが眉を寄せた。
「囚人に日報まで書かせる気か」
「口でいい」
「空が見える」
「それ以外は」
「扉は一つ。排水溝は無理。壁は高い。鍵を持つのは常に一人じゃない」
看守二人の身体が少し強張った。
「ずいぶん見たな」
「見ていいと言っただろ」
「ああ」
「それで?」
ブラムは手枷を受け入れながら続けた。
「ここから逃げるなら、俺一人じゃ無理だ」
年長の看守が低い声を出す。
「監獄長」
「待て」
ブラムから目を逸らさない。
「では、仲間を作るか」
「今のところは作らない」
「理由は」
「仕事がなくなる」
思わずグラッドを見る。
後ろにいた副監獄長も、少し驚いた顔をしていた。
「それだけか」
「十分だろ」
ブラムは手枷を軽く持ち上げる。
「逃げるなら、一回で成功させないと意味がない。今ここで誰かに声を掛けて、看守に気づかれて房へ戻されたら損だ」
「逃亡を諦めたわけではない」
「言っただろ。機会があれば考える」
「なら、今は機会ではない?」
「そう思ってる」
ブラムは一度、運動場を振り返った。
「少なくとも縄を触って空見てる方が、壁だけ見てるよりましだ」
立派ではない。
忠誠でもない。
だが、こいつなりの計算としては筋が通っていた。
「房へ戻す」
「明日もここで?」
「今日の報告を見てから決める」
「またそれか」
「慣れろ」
◇
午後、四人で話した。
俺。
グラッド。
担当した看守二人。
年長の看守は、朝より少し考えが変わっていた。
「集団作業はまだ反対です」
「そこは俺も変わっていない」
「ただ、運動場で続けることには反対しません」
若い看守が隣を見る。
「鍵を見ていましたよ」
「見ていた」
「気にならなくなったんですか」
「気になる」
年長の男は腕を組む。
「ただ、あいつが見ていることが分かった。それなら、こちらも見られて困らない扱いをすればいい」
若い看守が少し笑った。
「五日前と言ってること違いますね」
「五日前と同じなら、五日間見てた意味がないだろ」
その返しに、俺も少しだけ笑った。
「では、運動場作業を継続する。看守二名。移動時手枷。作業中だけ解除。ほかの囚人とは一緒にしない」
グラッドが記録する。
「期間は?」
「次は日数を先に決めない」
「ブラムが文句を言いそうですね」
「言わせておけ」
「集団作業へ移す条件は?」
「この先の記録だけではなく、配置先の必要性も見る。ブラムのために仕事場を空けることはしない」
グラッドが頷いた。
囚人の成長段階に合わせて仕事を用意する場所ではない。
監獄には監獄側の都合もある。
◇
夜、高警戒区画を通った。
ブラムは寝台へ横になっていた。
足音で気づいたのか、顔だけこちらへ向ける。
「明日は?」
「運動場を使う」
「決まったか」
「ああ」
身体を起こした。
「集団作業は?」
「まだだ」
「理由を聞いていいか」
「お前が危険だからというのが一つ。もう一つは、今お前を入れたい仕事場に欠員がない」
ブラムが数秒黙った。
「俺がいくら真面目にやっても、空きがなきゃ行けない?」
「行けない」
「そういうものか」
「そういうものだ」
「何か空けろとは言えない?」
「言うのは自由だ」
「通らない?」
「たぶんな」
ブラムが笑う。
「分かった」
「随分あっさりしてるな」
「前なら、気に入らない奴を追い出して空きを作ってたんだろ」
「今はやらない」
「なら待つしかねえ」
そう言って壁へ背を戻す。
俺は格子の前を離れた。
五日間、ブラムは逃げなかった。
六日目には、逃げるために何を見るかまで自分で口にした。
それでも仕事は続ける。
信用したからではない。
危険が消えたからでもない。
危険な人間が何を考えているか分からないまま閉じ込めておくより、見える場所で働かせ、行動を積み上げた方が判断材料は増える。
今のところ、ブラムが逃げない一番の理由は、善意でも反省でもなかった。
逃げるより、今の方が得だからだ。
監獄の中なら、それでも十分使える理由だった。
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