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第46話 昨日逃げなかった。だから今日も鍵を掛ける

 火事から二日後、閉めるべき扉が開いていた。


 西棟から洗濯場へ向かう途中の連絡門だ。


 人が二人並んで通れる程度の鉄扉で、普段は施錠し、作業班や荷物を通す時だけ看守が開ける。


 その日は朝から洗濯物を積んだ台車が何度も往復していた。


 火事で駄目になった布を分け、別棟へ移しているらしい。


 そこまではいい。


 問題は、台車が通った後も扉が開いたままになっていることだった。


「止まれ」


 俺が声を掛けると、次の台車を押していた囚人二人が足を止めた。


 車輪が石床の継ぎ目へ当たり、ことりと小さく鳴る。


 連絡門の横には看守が一人いた。


「この扉は、なぜ開いている」


「あと二台来ます」


「それは聞いていない」


 看守の表情が固くなる。


「閉めて、また開けると時間が掛かるので……」


「鍵は壊れているのか」


「いえ」


「なら閉めろ」


「承知しました」


 看守が鉄扉を引く。


 重い蝶番が軋み、錠が掛かる音が廊下へ響いた。


 台車の前にいた囚人が、何とも言えない顔でこちらを見ている。


「何だ」


「いや、別に」


「言いたいことがあるなら言え」


 男は少し迷った。


「火事の時は、もっとでかい扉を開けてたなと思っただけです」


「火事だったからな」


「誰も逃げなかったんでしょう」


「ああ」


「じゃあ、この程度なら開けといても――」


「よくない」


 返事はそこで終わった。


 男は肩をすくめる。


「そうですか」


「そうだ。台車を運べ」


「はい」


 看守がもう一度鍵を確認し、囚人二人を通路の先へ送る。


 火事の夜、牢を開けても誰も逃げなかった。


 それは事実だ。


 だが、その事実が二日で別の意味に変わり始めていた。


     ◇


 執務室へ戻ると、グラッドから似た話が出た。


「少し相談があります」


「連絡門の件なら、今見てきた」


「それも含みます」


 机へ置かれたのは三枚の勤務提案だった。


 一枚目。


 洗濯場と西棟を結ぶ連絡門について、日中の作業時間帯だけ常時開放できないか。


 二枚目。


 低危険度の作業班について、棟内移動時の看守数を一人減らせないか。


 三枚目。


 食堂への移動列について、一部の区画では前後二名ずつの配置を減らせないか。


「誰が出した」


「それぞれ別の現場責任者です」


「理由は全部同じか」


「火災時の避難で、大きな混乱も逃亡もなかったこと。それと、最近の規律違反が減っていることです」


 俺は三枚をもう一度見る。


 考え方そのものは分からなくもない。


 百二十七人しかいない看守で八百人以上を見る。


 余計な警備を減らせるなら、人員に余裕は出る。


「グラッドはどう思う」


「一律に認めるのは早いと思います」


「理由は?」


「火事の時は、非常時だと全員が理解していました。しかも外門は閉鎖され、要所には普段より人を置いています」


 その通りだった。


「逃げなかったから警備が不要だったわけではない」


「はい」


「むしろ警備した上で逃げなかった」


「そう見ています」


 俺は提案書を机へ戻した。


「全部却下する必要もないな」


 グラッドが顔を上げる。


「減らすんですか」


「まず、今の人数が本当に必要か調べる。昔からそうだったという理由だけで四人置いている場所があるなら、そこまで守る気はない」


「連絡門は?」


「閉める」


 そこは即答した。


「開閉に数十秒掛かるだけだ。作業効率と呼ぶほどでもない」


「低危険度作業班は?」


「移動経路を見てからだ。鍵の掛かった内部区画だけを通るのか、工具庫や外周路の近くを通るのかで違う」


「食堂列も同じ?」


「ああ」


 警備を減らさないこと自体が目的になってもおかしい。


 だが、


《最近、囚人が大人しいから》


 だけで削るのも違う。


「昨日までの行動は、明日の安全を保証しない」


 グラッドが頷く。


「その説明で返しますか」


「いや。そんな書き方をすると、現場は結局何も変えるなと受け取る」


 紙を一枚取った。


「必要人数を確認する。削れる場所は削る。ただし、囚人が信用できるからではなく、構造と運用で安全を確保できる場所だけだ」


「分かりました」


     ◇


 昼前、食堂への移動を見に行った。


 北側収容棟から出た囚人たちが、二列で廊下を進んでいる。


 前に看守二人。


 後ろにも二人。


 中ほどに一人。


 合計五人。


 壁の窓から白い日差しが差し込み、歩くたびに囚人の影が床を横切る。


「ここは五人必要か」


 グラッドへ聞く。


「以前から五人です」


「理由は」


「記録上は、過去に食堂前で二度揉め事があったため増員されています」


「何年前だ」


「古い方が九年前、新しい方が六年前です」


 それだけで現在も五人か。


 列を追う。


 途中に外へ出る扉はない。


 工具庫もない。


 左右は使われている房と倉庫。


 食堂前で別の棟と合流するが、そこには固定の看守が二人いる。


「中ほどの一人は何を見ている」


 グラッドが本人へ尋ねる。


「列の乱れです」


「前後からでは見えない?」


「見えます。ただ、人数が多い時は中央にいた方が早く止められます」


 筋は通る。


「ここは残す」


 グラッドが意外そうにこちらを見る。


「減らさない?」


「乱れた時に列の端から走らせるより早い」


 次は洗濯場へ向かう六人班。


 看守は前後に一人ずつ。


 通るのは内部廊下だけ。


 扉は全て施錠され、到着先にも担当看守がいる。


「ここは?」


「二人です」


「一人で行けるか」


 担当看守は少し考えた。


「全員が歩ける状態なら。ただ、一人が体調を崩した時に、付き添うと残り五人を見られなくなります」


「では二人だ」


 人数だけ見ても答えは出ない。


 何か起きた時に、誰が残るのかまで考える必要がある。


     ◇


 午後、東側の清掃班を見た。


 囚人四人。


 看守二人。


 通路は短く、片側は壁、もう片側には閉鎖された空室しかない。


「ここは一人でいいだろう」


 グラッドが周囲を見る。


「私もそう思います」


 担当看守へ確認すると、本人も頷いた。


「正直、二人いる理由は分かりませんでした」


「いつから二人なんだ」


「私が配属された時にはもう」


 勤務記録を後で確認すると、理由は単純だった。


 七年前、一人の囚人が清掃中に看守を殴り、鍵を奪おうとした。


 それ以降、二人。


「その事件の後、鍵の持ち方は変わったか」


「はい。清掃班へ出る看守は房鍵の束を持たない運用になっています」


 グラッドが答える。


「非常用の呼子も持たせています」


「なら、一人へ戻して試せ」


「期間を決めますか」


「まず五日。問題があるなら戻す」


「承知しました」


 信用したから一人にするわけではない。


 殴って奪える位置に房鍵を持ち出さなくなった。


 応援を呼ぶ手段もある。


 前提が変わっている。


 なら、七年前の人数を永久に守る必要はなかった。


     ◇


 夕方、連絡門の前をもう一度通った。


 朝とは違い、扉は閉まっていた。


 次の洗濯物を載せた台車が来る。


 看守が鍵を開ける。


 台車が通る。


 囚人二人が抜ける。


 看守が後ろを確認して、すぐ閉めた。


 掛かった時間は大したものではない。


 その時、少し離れた壁際で待っていたケランが声を掛けてきた。


 以前、報告制度について話をした男だ。


「監獄長」


「何だ」


「朝から、看守が妙に鍵を気にしてるのはあんたのせいですか」


「そう見えるか」


「三回くらい引っ張って確認してましたよ」


 門の横にいる看守が気まずそうな顔をした。


「一回でいい」


「はい」


 ケランが笑う。


「火事の夜に誰も逃げなかったから、もうちょっと信用されるかと思ったんですけどね」


 冗談混じりだが、完全な冗談でもないらしい。


「信用されていないと思うか」


「鍵掛けられてますから」


「監獄だからな」


「それを言われると終わりだ」


「終わらない」


 ケランが眉を上げる。


「昨日逃げなかった奴を、今日も最初から逃亡犯扱いするつもりはない。だからといって、通路の鍵を外す理由にもならない」


「違いが分かりにくいですね」


「お前が昨日、食堂で揉めなかったからといって、今日は包丁を持たせても安全だとはならないだろう」


「俺、料理できませんよ」


「そこではない」


 ケランが喉の奥で笑った。


「分かってます」


 少ししてから、開閉される連絡門を見る。


「俺は逃げる気ないです」


「ああ」


「でも、隣の房の奴まで保証しろと言われたら無理ですよ」


 それだった。


 俺が答える前に、ケランは続ける。


「向こうだって俺を保証できないでしょうし」


「なら、鍵は掛けた方がいいな」


「そう思います」


「信用されたいんじゃなかったのか」


「信用と、好き放題させるのは別でしょう」


 囚人に先に言われた。


「俺もそう思う」


 ケランは肩をすくめる。


「じゃあ問題ないですね」


 看守に促され、清掃班の列へ戻っていった。


     ◇


 その日の終わりに、三枚の提案へ返答した。


 連絡門の常時開放。


 却下。


 理由は単純で、施錠による作業遅延が小さく、開放する利点より管理上の不利益が大きい。


 食堂移動の看守削減。


 現状維持。


 中央の一人には、列の途中で問題が起きた時に即応する役割がある。


 低危険度作業班の警備人数。


 一部だけ見直す。


 東側清掃班は二人から一人へ試験的に変更。


 ただし、房鍵を持ち出さない現在の運用と、呼子の携行はそのまま。


「全部維持でも、全部削減でもない」


 グラッドが書類を見ながら言った。


「それが普通だろう」


「現場からすると、一つの方針で決めてもらった方が分かりやすい面もあります」


「分かりやすさのために余計な看守を置くのも、余計な扉を開けるのも嫌だ」


「それもそうですね」


 グラッドが最後の紙へ印を付ける。


「囚人が逃げなかったこと自体は、どう評価しますか」


「評価する」


「警備とは別に?」


「ああ」


 あの火事で、房を開けた。


 移動させた。


 警備に穴もあった。


 それでも誰も逃げなかった。


 その事実まで、


《どうせ逃げられなかっただけだ》


 と片づけるつもりはない。


「避難時に指示へ従ったことは、そのまま記録しておけばいい」


「個人ごとに?」


「問題を起こした者がいなかった、という全体記録で十分だ。全員に褒賞を付ける話でもない」


「分かりました」


     ◇


 夜の巡回で東側清掃班の通路を通った。


 もう作業は終わっている。


 試験的に一人配置へ変えるのは明日からだ。


 壁際には清掃用の桶が乾かされ、石床には水の跡が細く残っていた。


 連絡門も見に行く。


 施錠されている。


 鍵穴の周りに新しい傷もない。


 当たり前の状態だった。


 火事の夜、誰も逃げなかった。


 ギルは見つけた隙間まで教えた。


 ケランは、自分は逃げる気がないと言った。


 どれも悪い話ではない。


 むしろ、俺がここへ来た頃なら考えにくかった変化だ。


 だからこそ、そこで警備を緩めて台無しにする気はなかった。


 囚人が規則を守ることと、監獄が規則を守ることは両方必要だ。


 廊下の先で夜番の看守が連絡門の錠を確かめる。


 一度引く。


 開かないことを確認し、そのまま巡回へ戻った。


 それでいい。


 昨日逃げなかったからこそ、今日も余計な誘惑を置かずに済むよう、鍵は掛けておく。




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