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第45話 逃げるなら、昨夜だった

 火事の翌朝、洗濯場の裏はまだ焦げ臭かった。


 乾燥室の窓は開け放たれ、黒く煤けた木枠の向こうから冷たい風が抜けている。焼けた布は中庭の隅へまとめられ、水を吸った灰が石畳へ黒い筋を作っていた。


 死者はいない。


 それだけは昨夜のうちに確認できている。


「乾燥室で見つかった男は?」


 俺が尋ねると、ラッセルは診療記録から顔を上げた。


「意識ははっきりしています。夜中に何度か咳が強くなりましたが、今朝は水も飲めています。目立った火傷もありません」


「仕事へ戻すのは?」


「まだです」


「分かった。医務判断に任せる」


 西棟から移した囚人たちのうち、煙を多く吸った者も医務室で経過を見ている。


 それ以外は朝食を終え、収容棟へ戻す準備に入っていた。


 壁と床の煤を落とし、空気を入れ替えた上で、ラッセルにも確認させる。


 急いで戻す理由はない。


「火元は?」


 今度はグラッドを見る。


「保守担当が調べています。現時点では、放火を示すものは出ていません」


「見に行こう」


     ◇


 乾燥室の中は、昨日までとは別の場所になっていた。


 天井近くの梁が煤で黒くなり、壁には水を掛けた跡が残っている。


 床を踏むと、濡れた灰が靴底へまとわりついた。


「ここです」


 保守担当の男が、部屋の中央より少し奥を指した。


 暖房用の火鉢。


 倒れてはいない。


 石を組んだ台の上に置かれ、周囲にも燃えた油や薪を撒いたような形跡はなかった。


 問題は、その上だった。


「乾燥棚の横棒を支えていた木栓が割れています」


 男が煤けた木片を見せる。


 半分ほどが黒く焼けているが、割れた部分には古い傷が入っていた。


「ここが先に割れた?」


「断定はできません。ただ、棚の片側が落ちれば、掛けていた布が火鉢側へ滑ります」


 実際、火鉢の脇には焼け残った布が固まっていた。


 濡れて重くなった布がずれ、熱源の近くへ落ちた。


 最初は燻っただけでも、乾けば燃える。


「誰かが最後に見た時は?」


「夜番へ入る前、洗濯係が火鉢を確認しています。その時は異常なしです」


「見張りは常駐していない?」


「していません」


 グラッドが煤けた棚を見上げた。


「火を使う部屋で、無人になる時間があったわけですね」


「そうなります」


 保守担当が答えた。


 原因はまだ確定ではない。


 ただ、今のところ誰かが火をつけて回った話より、古い棚と熱源の距離、それに無人時間の方が現実的だった。


「棚は全部外せ」


「全部ですか」


「焼けたところだけ直して、隣が同じ状態では意味がない。残りの木栓も見ろ」


「分かりました」


「火鉢の位置も変える。布が落ちても直接触れない距離を取れないか確認してくれ」


 保守担当が頷いた。


 ここまでは火事の話だ。


 問題は、昨夜その火事のために開けた扉の方だった。


     ◇


 執務室へ戻る途中で、グラッドが足を止めた。


「もう一件あります」


「火事関係か」


「はい。ギル・ダーナから、監獄長へ直接話したいことがあるそうです」


 名前を聞いて、少し警戒した。


 以前、出庫する荷車の荷袋へ潜り込んで逃げようとした男だ。


 門に着く前に発覚し、懲罰房へ入れた。


「昨夜の避難について?」


「そう言っています」


「連れてきてくれ。グラッドも同席してくれ」


     ◇


 ギルは小会議室へ入ると、椅子へ座る前に言った。


「昨夜、逃げるならいい機会でした」


 挨拶より先にそれか。


「座れ」


「はい」


 俺の向かいへ腰を下ろす。


 三十前後。


 以前より痩せたわけでも、殊勝な顔になったわけでもない。


「どこに穴があった」


 ギルの眉が上がる。


「逃げなかった理由から聞かないんですか」


「先に場所だ」


 横でグラッドが紙を用意する。


 ギルは少し笑った。


「北側の作業待機所へ移した時です。寝具を運ぶために、横の資材扉を開けてたでしょう」


 頭の中で位置を思い出す。


 北側待機所。


 昨夜、西棟の囚人を一時避難させた場所だ。


 隣には資材通路があり、その先は薪置き場と保守用の中庭へ繋がる。


「資材扉には看守を置いたはずだ」


「最初はいました」


「途中から?」


「寝具を運ぶ連中が来た時、その看守が二人とも荷運びを手伝った」


 グラッドのペンが止まった。


「何分だ」


「そこまでは知りません。短かったですよ」


「その間、扉は?」


「開いてました」


「外門まで行けるか」


「無理です」


 ギルは即答した。


「薪置き場までです。そこから外へ出る門は閉まってる」


「では、逃げ道ではないだろう」


「その場ではね」


 嫌な言い方をする。


「薪の裏へ隠れれば?」


 グラッドが先に気づいた。


 ギルが頷く。


「朝まで潜れます。火事の後なら、誰かが炭だの灰だの運び出す。荷車が動き始めてから考えればいい」


 以前こいつが選んだ手も、荷物に紛れて外へ出る方法だった。


 すぐ外門を突破する必要はない。


 一度、いるべき場所から消えればいい。


「実際に隠れられる場所を見たのか」


「扉のところから見えました。薪は胸より高く積んである。裏まで入れるかは知りません」


「試してはいない?」


「試したら、今ここで話してないでしょう」


 それもそうだ。


     ◇


「なぜ逃げなかった」


 ようやく聞いた。


 ギルは椅子の背へ少し体重を預ける。


「外門が閉まってたから」


「それだけか」


「それが一番です」


 変に美談にしないところは信用できる。


「薪置き場に潜って朝まで見つからない保証もない。見つかったら逃亡未遂が一つ増える。前に十四日食らったのに、また同じようなことをやるほど馬鹿じゃない」


「ほかには?」


 ギルが少し考えた。


「火事の時まで次から手枷を掛けられるのが嫌だからです」


「何だと」


「誰かが昨夜逃げてたら、次はどうします?」


 答えが見えた。


「房を開ける前に拘束するか、もっと警備を増やす」


「でしょう」


 ギルが指を一本立てた。


「煙が来てるのに、一人ずつ手枷を掛けられて待つのは御免です」


 もう一本。


「それに、昨日はちゃんと扉を開けた」


「火事なら当然だ」


「前の黒塔なら、それが当然だったと思いますか」


 返事が止まった。


 ギルは笑っていない。


「俺たちが暴れるかもしれないからって、ぎりぎりまで閉じ込めてたかもしれない。実際どうだったかは知りませんけどね」


「それで、次も早く開けさせるために逃げなかった?」


「俺だけ立派な話にしないでください」


 ギルが眉を寄せる。


「逃げても割に合わないと思った。それと、次に火事になった時に自分が困る。両方です」


 十分だった。


 忠誠心などいらない。


「では、なぜ今日になって穴を教えた」


「誰か別の奴が気づいて、次に使ったら結局同じことになるでしょう」


「お前以外にも気づいたと思うか」


「八百人以上いるんですよ」


 ギルは肩をすくめた。


「俺だけ賢いと思ってません」


 そこももっともだった。


     ◇


「報告への褒賞はない」


 先に言っておく。


 ギルは鼻で笑った。


「いりませんよ」


「処遇も変わらない」


「分かってます」


「それでも助かった。報告は記録する」


 その言葉には少しだけ反応した。


「記録するんですか」


「報告した事実をな。刑期を縮める材料にするという意味ではない」


「それなら好きにしてください」


 椅子から立つ。


「一つだけ聞いていいですか」


「何だ」


「次に火事になったら、また房は開けます?」


「ああ。必要なら開ける」


「よかった」


「ただし、次は資材扉を開けっ放しにはしない」


「そりゃそうでしょうね」


 ギルは看守に付き添われて出ていった。


 扉が閉まった後、グラッドが息を吐く。


「確認します」


「頼む」


     ◇


 現場へ行くと、ギルの話はほぼその通りだった。


 資材扉から薪置き場までは短い。


 外門へ直結しているわけではないが、人が一人隠れれば見つけにくい場所はいくつかある。


 そして昨夜の配置記録を見ると、問題の時間帯に資材扉担当の看守二人が寝具運搬へ回っていた。


「命令した者は?」


 グラッドが夜番の責任者へ聞く。


「私です」


 男は言い訳をしなかった。


「作業棟へ寝具を急いで運ばせる必要がありました。廊下側の警備人数は足りていると判断しました」


「資材扉を閉めなかった理由は」


「何度も出入りするので、その方が早いと」


「囚人が待機所にいたことは?」


「分かっていました」


 グラッドが俺を見る。


 俺は責任者へ尋ねた。


「昨夜の判断そのものを責めるつもりはない。火事の最中だ。全部を平時どおりにはできない」


「はい」


「ただ、同じことを次にやったら困る」


「承知しました」


「寝具の運搬と避難者の警備を同じ人間へ兼ねさせない。資材扉を開けるなら、開いている間だけ一人固定する」


「一人で?」


「扉を見るだけならな。通路警備とは別に置く」


「分かりました」


「使い終わったら、その場で施錠確認。以上だ」


 グラッドが記録する。


 新しい分厚い規則集を作るほどの話ではない。


 昨夜、実際に開いた穴を一つ塞げばいい。


     ◇


 西棟一階の囚人を戻したのは、その日の午後だった。


 石壁の焦げ臭さはまだ僅かに残っている。


 だが煙は抜け、ラッセルも収容に問題なしと判断した。


 房ごとに名前を確認して戻す。


 昨夜と逆の順番だ。


「次、ギル・ダーナ」


「はい」


 ギルが列の中から進む。


 俺には目も向けなかった。


 房へ入る。


 看守が人数を確認し、扉を閉めた。


 鉄の錠が掛かる。


 その音を聞いて、昨夜の開いた扉を思い出した。


     ◇


 夕方、火災原因についても一応の整理が出た。


 乾燥棚の木栓は一本だけではなく、残りにもひび割れが見つかった。


 火鉢との距離も短い。


 誰かが火を持ち込んだ形跡や、意図的に布を積み上げた痕跡は確認できない。


「事故として扱いますか」


 グラッドが尋ねる。


「現時点では、乾燥設備の不備による出火の可能性が高い、としておいてくれ」


「断定はしない?」


「見ていないことまで書く必要はない」


「分かりました」


 乾燥室は、棚を直すまで使用停止。


 火鉢も位置を変える。


 夜間に無人で火を残さない。


 必要なのはその程度だった。


「昨夜の避難について、職員から意見を集めています」


「多いか」


「かなり」


 紙束を見せられた。


 煙の中で房番号が見えにくかった。


 寝具が遅れた。


 医務確認の場所が狭かった。


 火消しへ人を回しすぎて巡回が薄くなった。


「一日で全部直そうとするな」


「優先順位を付けます」


「人命に直結するものからだ」


 紙束の一番上に、資材扉の件が追加された。


     ◇


 夜。


 最後の巡回で西棟を通った。


 格子の向こうでは、何人かがもう寝台へ入っている。


 昨日と同じ房。


 同じ錠。


 同じ廊下。


 それでも空気は少し違っていた。


「監獄長」


 声を掛けてきたのはギルではない。


 別の房の男だった。


「何だ」


「昨日、あのまま火が広がってたら、本当に外まで出したんですか」


「中に安全な場所がなくなればな」


「その時も手枷なしで?」


「状況による。全員へ掛けている余裕がなければ、警備を付けて出す」


「逃げる奴がいるかもしれませんよ」


「いるだろうな」


 男が少し驚く。


「それでも?」


「逃げるかもしれないから焼く、という選択はしない」


 格子の向こうが静かになる。


「ただし、逃げたら逃亡として扱う。そこも変わらない」


「……なるほど」


「寝ろ」


「はい」


 歩き出す。


 少し先の房を通る時、ギルが寝台に座っているのが見えた。


 声は掛けなかった。


 向こうも何も言わない。


     ◇


 執務室へ戻る。


 机には、昨夜の避難者一覧が残っていた。


 八百四十一人。


 火事の間に所在不明になった者は、乾燥室で棚に塞がれていた一人だけ。


 救出後、全員確認済み。


 逃亡者なし。


 ただし、逃げられるかもしれない隙間はあった。


 そこまで書いて、ペンを置いた。


 誰も逃げなかったから、昨夜の警備が完璧だったわけではない。


 そして、囚人たちが急に黒塔を好きになったわけでもない。


 少なくともギルは、かなり冷静に損得を計算していた。


 それで構わない。


 以前、荷袋へ潜り込んで門を抜けようとした男が、今度は自分で見つけた穴を俺に教えて、何も要求せず房へ戻った。


 その事実の方が、立派な言葉を百回聞くより分かりやすかった。




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