第44話 火事なら、牢を開けろ
夜半、鐘が鳴った。
一度ではない。
短く三度。
続けて、もう三度。
俺は寝台から起き上がった。
来客でも交代でもない。
非常鐘だ。
廊下へ出る前から、焦げ臭さが鼻についた。
「所長!」
扉の外へ出ると、夜番の看守が駆けてくる。
額に汗が浮き、右袖には黒い煤が付いていた。
「何があった」
「洗濯場裏の乾燥室から出火しました。火はまだ一室ですが、煙が西側収容棟へ流れています」
「怪我人は」
「今のところ確認されていません」
「グラッドは?」
「現場へ向かっています」
靴を履き、外套を引っ掛ける。
「水場の人員を集めろ。厨房と浴場の桶も使え。火元へ向かう者と、囚人を動かす者を分けろ」
「囚人を?」
「煙が入っているんだろう」
「はい。ただ、牢を開ければ――」
「焼け死ぬまで閉じ込めておく方がまずい。行くぞ」
◇
中庭へ出た瞬間、状況が見えた。
洗濯場の裏から黒い煙が上がっている。
炎そのものは屋根を越えるほどではないが、夜風に押された煙が石壁へ沿って西側へ流れていた。
湿った洗濯物と焦げた布が混ざった、鼻の奥に残る臭い。
看守たちが桶を持って走り、水を汲む音と怒鳴り声が重なる。
「水、もっと寄越せ!」
「その桶は火元だ! 収容棟へ持っていくな!」
「窓を開けろ!」
グラッドが中庭の中央にいた。
俺に気づくとすぐ近づいてくる。
「乾燥室の火は保守棟側へは広がっていません。ただ、西棟一階の廊下へ煙が入り始めています」
「原因は」
「まだ分かりません」
「今はいい。西棟の囚人を動かす」
グラッドの顔が引き締まる。
「全員ですか」
「煙が入っている区画だけだ。上の階まで動かす必要があるかは現場で見る」
「移動先は中庭?」
「いや、北側の作業待機所を使う。壁と柵で区切れる。中庭へ全部出せば火消しの邪魔になる」
「人数確認は」
「房ごとに出して、その場で名簿と照合する。後でまとめて数えるな」
「承知しました」
ここで全体の頭数だけ取れば、誰がどこから出たのか分からなくなる。
つい最近、木工場でそれを思い知らされたばかりだ。
◇
西棟へ入ると、煙はすでに薄く廊下を這っていた。
目を開けていられないほどではない。
だが、喉へ刺さる。
房の中では囚人たちが起きていた。
「火事か!」
「出せ!」
「煙が入ってるぞ!」
鉄格子を掴む音があちこちで鳴る。
看守が声を張った。
「静かにしろ! 一房ずつ移動させる!」
すぐには静まらない。
金属を叩く音がさらに増える。
俺は最初の房の前へ行った。
「聞け!」
近くの声だけは止まった。
「火はこの棟ではない。ただし煙が来ている。今から北側の待機所へ移す」
「本当に出すのか?」
格子の向こうから男が言う。
「そのために来た」
「手枷は?」
「房ごとに並ばせる。全員へ一人ずつ手枷を掛けていたら煙の方が早い」
看守がこちらを見る。
不安なのは分かる。
囚人をまとめて房外へ出す。
監獄で一番やりたくないことの一つだ。
「警備は通路両側。先頭と最後尾を固めろ。走らせるな。別の房と混ぜるな」
「承知しました」
「房を開けるぞ」
鍵が差し込まれる。
普段なら聞き慣れているはずの金属音が、今夜だけは妙に大きく聞こえた。
錠が外れる。
扉が開いた。
「壁沿いに一列。前の男の肩へ触れる必要はない。間を空けずに歩け」
囚人たちが出てくる。
顔を布で覆っている者。
寝間着代わりの薄い服のままの者。
咳き込んでいる者もいた。
「そいつ、咳が酷い」
一人が隣の男を指した。
「歩けるか」
「歩ける……」
答えながらまた咳き込む。
「医務確認へ回せ。列から外す時は看守二人を付けろ」
「はい!」
次の房を開ける。
その次も。
煙は少しずつ濃くなっていた。
◇
三房目を出したところで、廊下の奥から怒鳴り声が上がった。
「押すな!」
「早く出せ!」
まだ開いていない房だった。
中で囚人同士が出口へ詰めかけている。
「扉から離れろ!」
看守が警棒へ手を掛ける。
俺は扉の前へ立った。
「そのまま開けるな」
「ですが所長、煙が」
「今開ければ最初の数人が踏まれる」
格子の向こうで押し合いになっている。
十人以上いる狭い房だ。
出口は一つ。
「奥へ下がれ!」
「火事なんだぞ!」
「分かっている。だから下がれ。扉の前に固まったままでは開けない」
「焼け死んだらどうする!」
「焼け死なせないために言っている!」
声を張った。
「前の四人、三歩下がれ。後ろも押すな。扉が開いたら右側から順番に出す」
少しずつ人が動く。
一人がまだ前へ出ようとしたが、後ろの男が腕を掴んだ。
「聞けって。開けてもらえなくなる」
「離せ!」
「踏まれるよりましだろ!」
ようやく入口が空いた。
「今だ。開けろ」
錠が外れる。
囚人たちは走らなかった。
息を荒くしながら、一人ずつ廊下へ出てくる。
最後の男が出たところで、看守が人数を確認した。
「全員です!」
「北側へ送れ」
◇
火元では、乾燥室の屋根から白い蒸気が上がっていた。
グラッドが戻ってくる。
「炎は抑えました」
「完全に消えたか」
「まだです。壁の中へ熱が残っている可能性があります。保守担当が確認しています」
「原因は」
「暖房用の火鉢の近くに、乾燥布が落ちた可能性が高いとのことです。ただ、今は断定しません」
「それでいい」
誰かが放火した。
脱獄のための火事だ。
そんな筋書きなら分かりやすい。
だが、焦げた布一枚を見る前から犯人を作る必要はない。
「西棟は?」
「一階の影響区画を移動中です。二階は窓を開けて排煙。今のところ移動不要との判断です」
「ラッセルは?」
「北側待機所で咳の強い者から診ています」
その時、火消しをしていた看守が駆けてきた。
「所長、乾燥室の奥に一人います!」
「職員か」
「囚人です。洗濯係の男が一人、人数にいません」
背中が冷えた。
「誰だ」
名前を聞く。
洗濯場勤務の囚人だった。
「最後に見たのは?」
「火が出る前、乾燥済みの布を運んでいました」
「乾燥室へ入れたまま扉を閉めた可能性は」
「あります」
俺は火元を見る。
入口からはまだ煙が吐き出されている。
「中へ入るな」
看守が驚く。
「ですが」
「燃えている部屋へ一人で飛び込むな。保守担当と水を持った二人を付けろ。濡れ布で口を覆え。扉の向こうの温度を確認してからだ」
数人が動く。
俺も近づこうとしたところで、グラッドが腕を出した。
「所長はここです」
「中に一人いる」
「だからこそです。火の扱いを知る者に任せてください」
以前、北壁でも似たことを言われた。
「……分かった」
足を止める。
役に立たない人間が増えても意味はない。
◇
数分が長かった。
乾燥室の入口へ水が掛けられ、熱を確かめてから三人が中へ入る。
煙の向こうで影が動く。
一人。
二人。
そして、三人目が誰かを抱えて出てきた。
「いたぞ!」
担がれていた男は意識があった。
咳き込みながら、腕で顔を覆っている。
「歩かせるな! 医務へ!」
担架が来る。
ラッセルの補助員が男を乗せ、北側へ運んでいく。
「どこにいた」
出てきた看守が息を整えながら答えた。
「奥の布棚の脇です。倒れた棚が出口側へ掛かっていて、自力で出られなかったようです」
「火傷は」
「見える範囲ではありません。ただ、煙をかなり吸っています」
「ラッセルに任せる」
助かった。
今はそれだけでいい。
◇
北側の待機所には、房から出した囚人たちが集められていた。
正確には、集めているのではない。
房単位で区画を分けている。
地面へ縄を張り、看守がそれぞれの列を管理していた。
点呼の声が続く。
「次、名前!」
一人ずつ答える。
房番号。
名前。
人数。
紙へ印が付く。
誰かが、
「全員合わせて数えた方が早いだろ」
とぼやいた。
看守が返す。
「早くても誰がいないか分からなければ意味がない。名前を言え」
「……はいよ」
少し離れたところでラッセルが咳の酷い者を診ていた。
乾燥室から救出された男には毛布が掛けられている。
顔色は悪いが、受け答えはできていた。
「状態は?」
ラッセルに尋ねる。
「煙をかなり吸っています。今夜は医務室で見ます。今のところ深い火傷はありません」
「ほかは」
「咳と目の痛みが十数名。重症は確認していません。ただ、夜中に悪化する可能性はあります」
「必要なら収容場所を変えてくれ」
「そうします」
そこで、待機所の端から声が上がった。
「監獄長!」
振り向く。
囚人の一人だ。
「何だ」
「今、外へ出られるんですか」
一瞬、意味が分からなかった。
「どこへだ」
「外門ですよ。火事なら開いてるんじゃないですか」
周囲が静かになる。
冗談なのか、本気なのか。
男の表情だけでは分からない。
「外門は閉じている」
「でも火が広がったら?」
「必要なら別の安全区画へ移す」
「それでも駄目なら?」
質問は続く。
今まで考えなかったわけではない。
火が監獄全体へ広がる。
中へ置く方が危険になる。
その時は。
「命を守るために外へ出す必要があるなら出す」
何人かが顔を見合わせた。
「逃げてもいい?」
「避難と逃亡は別だ」
男が少し笑う。
「やっぱりそうですよね」
「外へ避難させる場合でも、人数確認と警備は続ける。勝手に街道へ走れば逃亡として扱う」
「火事でも?」
「火事だからこそだ」
男はそれ以上聞かなかった。
◇
火が完全に消えたのは、夜がかなり深くなってからだった。
乾燥室の一角は黒く焦げた。
布もかなり駄目になった。
だが洗濯場本体と収容棟へ延焼はしていない。
原因については、翌朝まで結論を出さないことにした。
火鉢。
落ちた布。
棚の配置。
煙道。
確認するものがいくつもある。
「西棟一階は、今夜戻しますか」
グラッドが聞く。
廊下の煙はかなり抜けている。
だが石壁にはまだ焦げ臭さが残っていた。
「ラッセルは?」
「咳が悪化する可能性を考えると、今夜は別区画の方がいいと言っています」
「なら戻さない」
「北側待機所で寝かせますか」
「夜の冷え込みがある。空いている作業棟を使おう。工具を全部出して、入口を看守二人で管理する」
「寝具を運ばせます」
「元の房ごとに場所を分けろ。朝まで混ぜるな」
「承知しました」
夜中に大規模な移動。
普段なら避けたい。
今日は必要だった。
◇
執務室へ戻ったのは、空が白み始める少し前だった。
服にも髪にも煙の臭いが染みついている。
椅子へ座ると、グラッドが最後の報告を持ってきた。
「移動した者、全員確認済みです」
「医務室は」
「煙を強く吸った一名を含めて診察継続中。死亡者なし」
それを聞いて、ようやく背もたれへ身体を預けた。
「火事の間に逃亡した者は?」
「いません」
俺はグラッドを見る。
「一人も?」
「はい。移動対象者はすべて確認できています」
意外だと思った。
そして、そう思った自分に少し引っ掛かった。
監獄なのだから、非常時に逃げようとする者がいてもおかしくない。
だが今夜は誰も走らなかった。
もちろん、逃げられない配置を取った。
看守もいた。
外門も閉めていた。
それでも、房の扉をいくつも開けたのだ。
「所長」
「どうした」
「今夜の動きを見直した方がいいでしょう」
「ああ」
グラッドが紙を出す。
「火災時の囚人移動について、まとまった手順がありませんでした」
「今回動けたのは、現場が判断したからだな」
「はい。次も同じとは限りません」
「なら作る。ただし、今日の動きをそのまま規則にするな」
「問題がありましたか」
「いくつもある」
煙の中で房の出口へ集まった囚人。
所在が分からなくなった洗濯係。
作業待機所の寒さ。
火消しと警備の人員競合。
「実際に詰まったところを拾ってから決める」
「承知しました」
グラッドが紙を閉じた。
◇
少しして、夜番から朝番への交代鐘が鳴った。
窓の外はもう青白い。
百日後に起きる大脱獄。
俺が知っているのは、北壁の崩壊と、その混乱が大きなきっかけになることだ。
だから壁を直した。
排水も直した。
だが今夜、別の形で牢の扉を開けることになった。
火事になれば、こちらから開けなければならない。
病気でも、崩落でも同じだろう。
大脱獄を防ぐというのは、全部の扉を閉じておくことではない。
開けなければ人が死ぬ時に、どう開けるかまで考える必要がある。
机の上へ非常時の報告書を置く。
焦げ臭い指で頁をめくった。
今夜、牢は開いた。
それでも、一人も外へ走らなかった。
その事実だけは、書き残しておくことにした。
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