第43話 六枚のうち、一枚だけ動いた
南部地区から返事が届いたのは、照会を出して五日後だった。
朝の配膳が終わり、執務室で採石場の作業表を見ていたところへ、グラッドが封書を持って入ってくる。
「例の申立てについてです」
机の上へ置かれた封筒には、地方の司法印が二つ押されていた。
「思ったより早かったな」
「通常の照会ではなく、保管記録の有無だけ先に確認してもらったからでしょう」
封を切る。
乾いた蝋が割れ、細かな欠片が机に落ちた。
中には三枚の紙。
一枚目を読んだところで、手を止めた。
「……あったのか」
「何がです?」
「供述記録だ」
グラッドが椅子を寄せる。
申立書を出した囚人は、マレク・ソーン。三十九歳。
三年前、商人の倉庫へ夜間侵入し、保管金と銀器を奪った事件の共犯として七年刑を受けている。
本人は一貫して、
《事件を起こした男とは知り合いだったが、犯行には加わっていない》
と主張していた。
有罪判断の材料になった一つが、実行犯とされた男の供述だ。
その男が、
《マレクも一緒だった》
と話していた。
ところがマレクの申立書には、その男が後に別件で逮捕された際、最初の事件についても話し直したという情報が書かれていた。
南部地区の返答は、その記録が実在することを認めている。
「読みます」
グラッドが向かいへ座った。
俺は文章を追う。
「事件から九か月後。別件の取調べ中に、実行犯が倉庫侵入事件について再供述」
「内容は?」
「マレク・ソーンは現場にいなかった、とある」
グラッドの表情が変わった。
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実行犯は、以前マレクを共犯として挙げた供述についても撤回している。
ただし、それだけではない。
「単独犯だと認めた?」
「そこまでは書いていない」
別の協力者がいた可能性については曖昧。
だが少なくとも、
《マレクを現場で見ていない》
《以前の供述で名前を出したのは事実と異なる》
この二点は明確に記録されていた。
俺は紙を机へ置いた。
「なぜ裁判側へ行っていない」
二枚目にその説明があった。
新しい供述は別件の捜査記録に収められ、すでに確定していた倉庫侵入事件の記録へ追記されていない。
後の担当者が関連事件として照合した形跡もない。
「つまり、誰も繋げなかった」
「そのようです」
「これだけで無罪になると思うか」
グラッドは首を横に振った。
「私には判断できません」
「俺もだ」
元共犯者の供述が変わった。
大きい。
だが、有罪判決にどんな証拠がほかに使われたのか、俺たちは全て持っていない。
別の目撃者がいたかもしれない。
物証があったかもしれない。
後の供述の方が嘘だという可能性だってある。
三枚目には、南部地区裁定所からの指示が書かれていた。
《当該供述は旧判決の再確認を要する新規資料と認める》
《判決記録を取り寄せ、再検討を開始する》
《マレク・ソーンの身柄は現状どおり黒塔に留め置くこと》
「動いたな」
グラッドが言った。
「ああ。ただ、門はまだ開かない」
◇
マレクは採石場にいた。
作業中に呼び出す必要があるため、ハロルへ理由だけを伝え、一区切りついたところで管理小屋へ連れてきてもらう。
外では石槌が一定の間隔で鳴っていた。
乾いた石粉が風に乗り、開いた窓から薄く入り込んでくる。
マレクは作業着の袖で額の汗を拭き、俺とグラッドの前に立った。
以前、十七人の前へ出て要求を話した男だ。
「申立ての件だ」
その一言で、顔つきが変わった。
「返事が来たんですか」
「ああ」
「それで?」
急いではいるが、声を荒らげてはいない。
「お前が書いた男の供述記録は実在した」
マレクの口が僅かに開いた。
俺は続ける。
「事件から九か月後。別件で取り調べられた時、倉庫侵入事件についても話している」
「俺のことは?」
「現場にはいなかった、と供述している。以前、お前を共犯として挙げた内容も撤回した」
マレクは何も言わなかった。
肩だけが少し下がる。
「……あったんだな」
「記録は残っていた」
「俺が嘘を言ってたわけじゃなかった」
「ああ。その部分についてはな」
マレクが両手で顔を覆った。
泣くわけでもない。
深く息を吐き、しばらくそのまま動かなかった。
外で槌が岩を叩く。
高い金属音が一度響いて、途切れた。
「出られるんですか」
ようやく出た言葉だった。
「まだだ」
両手が顔から離れる。
「なぜです」
「新しい供述が見つかったことと、旧判決が無効になることは同じではない」
「でも、あいつは俺がいなかったって――」
「分かっている」
「だったら」
「有罪判断に使われた材料が、その供述だけだったのか俺には分からない」
マレクの呼吸が少し荒くなる。
それでも話を止めなかった。
「南部地区裁定所は、旧判決を再確認すると返してきた。お前の申立てを、ただの不満として処理してはいない」
「再確認……」
「判決記録を取り寄せて、今回見つかった供述と照らす。その間は黒塔で留置を継続しろという指示だ」
マレクが机の縁を見る。
「いつまで?」
「書かれていない」
「一月?」
「分からない」
「半年?」
「それも分からない」
拳が握られた。
その気持ちは当然だろう。
三年近く、自分はそこにいなかったと言い続けてきた。
ようやく、その主張を補強する紙が出てきた。
その直後に、
《まだ待て》
と言われる。
「俺は、あとどれくらいここで石を運ぶんです」
「今は答えられない」
「都合がいいな」
「そう聞こえるだろうな」
ここで軽い言葉を足しても意味がない。
「だが、俺には今日お前を釈放する権限がない」
「監獄長なのに?」
「監獄長だからだ」
マレクが顔を上げた。
「判決を出すのは俺じゃない。俺の判断だけで刑を消せるなら、裁判そのものが要らなくなる」
「間違ってるかもしれない判決でも?」
「だから調べ直している」
「その間に時間は戻らない」
言われて、返事が少し遅れた。
「それはそうだ」
否定できない。
◇
マレクは椅子へ座ろうとしなかった。
机の前で立ったまま、しばらく呼吸を整えている。
「書類を見せてもらえますか」
「裁定所からの返答のうち、お前に関係する部分は写しを作る」
「今日?」
「今日中に渡す」
「供述そのものは?」
「黒塔へ届いたのは要旨だけだ。原本の写しは裁定所が取り寄せている」
「そうですか」
声から力が抜けた。
グラッドが尋ねる。
「今日の作業へ戻れますか」
マレクがそちらを見る。
すぐには答えない。
「戻らないと言ったら、また懲罰房ですか」
「体調や精神状態に問題があるなら、ラッセルの確認を受けられます」
俺が答える。
「ただ、判決の再確認が始まったという理由だけで、作業義務がなくなるわけではない」
「アルヴァンと同じか」
「似た部分はある。あいつも再審理が決まったが、現在の拘束条件は変えていない」
マレクが窓の外を見る。
荷車へ石材が積まれている。
別の囚人が二人掛かりで一つの石を持ち上げ、置き場所を確認していた。
「今日は戻ります」
やがて言った。
「大丈夫か」
「大丈夫かどうかは分かりません」
その答えの方が自然だった。
「ただ、ここで座ってても裁定所が早くなるわけじゃないんでしょう」
「ああ」
「だったら戻ります」
「無理に出来高を取り返す必要はない。呼び出していた時間は作業していないものとして記録する」
「分かりました」
扉へ向かい、そこで足を止めた。
「監獄長」
「何だ」
「俺がもし本当に無罪だったら」
言葉が続かない。
数秒してから、別の形で聞いた。
「三年はどうなるんです」
簡単な答えはなかった。
「俺からは何とも言えない」
「そうですよね」
「王国側に補償の制度があるかも含めて、判決が動いた場合に確認する」
「調べておいてくれますか」
「ああ。それはやる」
マレクは一度頷き、管理小屋を出ていった。
◇
採石場へ戻ったマレクを、周囲が放っておくはずもなかった。
遠くからでも、何人かが寄ろうとしているのが分かる。
ハロルが間へ入った。
「作業中だ。持ち場へ戻れ」
「何て言われたんです?」
「本人が話したければ休憩中に聞け」
それ以上は許さない。
マレク自身も、
「後で話す」
とだけ言って石材の選別へ戻った。
ところが昼休憩になると、噂は一気に広がった。
食堂へ向かう途中ですでに、
「無罪の証拠が見つかった」
「今日にも出られる」
「裁判所が間違いを認めた」
最後には、
「三年分の金を貰えるらしい」
という話まで出ている。
どこから金が生えた。
食堂の入口でグラッドが額を押さえた。
「アルヴァンの時と同じですね」
「人間は空白を埋めたがるらしい」
「訂正しますか」
「本人の事件について細部まで広める必要はない」
ただし、完全放置もまずい。
「申立ての一件について、新しい資料が確認され、外部で再検討が始まった。釈放命令は出ていない。それだけ看守側の答えを統一してくれ」
「補償の話は?」
「何も決まっていない」
「承知しました」
それで十分だ。
◇
食堂へ入ると、マレクは普段の席にいた。
豆と根菜の煮込みから湯気が上がっている。
パンにはまだ手をつけていない。
向かいの男が身を乗り出していた。
「本当にあいつが一人でやったって?」
「そこまでは書いてなかった」
「でも、お前はいなかったって言ったんだろ?」
「ああ」
「なら無罪じゃねえか」
「まだ決まってない」
「何でだよ」
マレクが匙を取る。
「俺が知るか。監獄長に聞け」
近くを通った俺へ、男が本当に顔を向けた。
「監獄長」
「食事中だ」
「一つだけ」
「手短にしろ」
「マレクはいつ出るんです?」
「決まっていない」
「新しい証拠が出たのに?」
「新しい資料が確認された。裁定所が判決を調べ直す。今はそこまでだ」
「じゃあ、もし無罪だったら?」
「その時に命令が来る」
「三年も閉じ込めてたのに」
周囲の匙が少し止まった。
責められているのは俺というより、黒塔そのものだろう。
「黒塔は有効な判決に従って収容している」
「それなら悪くないってことですか」
「そうは言っていない」
男が黙る。
「判決に間違いがあったなら、その責任を誰がどう負うかは別に決める話だ。だが、俺が今ここで『悪かったから出ていい』と門を開けることもできない」
「面倒ですね」
「面倒でも、そこを飛ばした方がもっと危ない」
マレクが横から言った。
「もういい。飯が冷める」
「お前の話だぞ」
「だからだよ」
男は引き下がった。
木匙が再び動き始める。
煮込みの匂いと、食器が触れ合う音が食堂へ戻った。
◇
午後、グラッドと六枚の申立書をもう一度見た。
動いたのはマレクの一枚だけだった。
二枚は、新しい資料なし。
一枚は本人の推測だけ。
残る二枚は照会先を特定できる情報が足りない。
「結果が一件出ると、申立てが増えるでしょうね」
グラッドが紙を揃える。
「増えるだろうな」
「全部照会しますか」
「確認先があるものは確認する。ただ、『俺はやっていない』だけで王都や地方へ毎回人を走らせるわけにはいかない」
「必要なのは、確認できる新しい材料」
「少なくとも、誰が、いつ、どこで、何を話したのか。その辺りがないと動きようがない」
グラッドが頷く。
「マレクの申立ては具体的でした」
「ああ」
相手の名前。
後に捕まった時期。
どの地区で取り調べられたか。
だから照会できた。
「ただし」
俺は六枚を見た。
「字が下手だから、説明が上手くないからという理由で落とすな。読み書きのできない者は聞き取りで補えばいい」
「そこは申立て制度と同じ扱いにします」
「頼む」
◇
夕方、マレクへ約束した写しを渡した。
格子のある窓から夕日が差し、紙の上を赤く染めている。
男は立ったまま、一行ずつ読んだ。
同じ部分を二度読む。
やがて、
《マレク・ソーンは現場にいなかった》
という要旨のところで指が止まった。
「これ、持っていていいんですよね」
「ああ。房内に置いて構わない」
「失くしたら?」
「黒塔側にも写しはある」
紙を丁寧に折る。
胸元へ入れかけて、囚人服には適当な内ポケットがないことに気づき、手に持ち直した。
「預ける袋を出させよう」
「お願いします」
看守が簡単な布袋を用意する。
マレクはその中へ紙を入れた。
「三年前、俺が何を言っても、誰も信じませんでした」
「そうか」
「自分でも途中から、あいつが本当に俺の名前を出してるなら、何を言っても無駄だと思ってました」
布袋の口を結ぶ。
「今も無罪だと決まったわけじゃない。それは分かってます」
「ああ」
「でも、俺が全部嘘を言ってたわけじゃなかった。それが紙になってる」
俺は返事を急がなかった。
マレクは布袋を看守へ預けると、こちらを見る。
「明日も採石場へ行きます」
「分かった」
「ただ、返事が来たらすぐ教えてください」
「それは約束する」
「ならいいです」
◇
執務室へ戻る頃には、外は暗くなっていた。
机には新しい申立書が二枚増えている。
やはり早い。
だが、今夜すぐ見る必要はない。
グラッドが封書と一緒に専用の箱へ入れた。
「マレクの件、どうなると思いますか」
「分からない」
「無罪の可能性は上がった?」
「新しい資料が旧判決を揺らす材料にはなった。それ以上は裁定所が見ることだ」
「そうですね」
窓の外から夜番の足音が聞こえる。
六枚の申立てから、実際に外へ確認を出したのは一枚。
その一枚には、本当に記録が残っていた。
だからといって、六人全員が冤罪になるわけではない。
逆に、一人でも本当に判決を見直す材料があるなら、最初から全部を戯言として捨てるわけにもいかない。
面倒な線引きだ。
だが、監獄の仕事というのは、だいたいその面倒な線の上にある。
机の端には、南部地区から届いた三枚の返答が置かれている。
門はまだ閉じたままだ。
ただ、三年前には届かなかった一枚の供述が、ようやくそこまで来ていた。
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