第42話 十七人が、石を拾わない
採石場で、十七人が仕事を始めなかった。
報告を受けたのは朝の作業開始から半刻ほど経った頃だった。
「暴れてはいません」
執務室へ来たハロルは、額に薄く石粉をつけていた。
「工具にも触れていません。選別場所へ入ったところで座り込みました」
「要求は?」
「自分たちの裁判も王都で調べ直せ、と」
アルヴァンの再審理か。
「看守は?」
「作業へ戻るよう二度命じました。それ以上は手を出させていません」
「ドルガンは」
「近くにはいますが、口を出させていません」
それでいい。
「行こう」
◇
採石場へ下りる道は、朝から乾いていた。
風が岩肌を撫でるたび、細かな白い粉が地面を這うように流れていく。
いつもなら槌の音が重なって聞こえる場所なのに、今日の選別場だけは妙に静かだった。
石材を積んだ荷車が二台止まっている。
その前に十七人。
立っている者もいれば、地面へ直接座っている者もいる。
看守は距離を取り、警棒を抜かずに囲んでいた。
少し離れた場所では、別の作業班がこちらを気にしながらも仕事を続けている。
ドルガンはさらに後ろ。
岩へ背を預け、腕を組んでいた。
「監獄長が来たぞ」
ハロルが声を掛ける。
囚人たちの視線が集まった。
「代表はいるか」
少し間があって、四十代くらいの男が前へ出た。
痩せているが、弱っている感じではない。
作業着の袖を肘までまくり、掌には古い石傷がいくつもあった。
「俺が話します」
「名前は把握している。要求を聞こう」
「アルヴァン・ギレスは裁判をやり直してもらえるそうですね」
「再審理が決まった」
周囲が僅かにざわつく。
「だったら、俺たちにも同じことをしてください」
「全員、自分の判決に新しい証拠が出たのか」
男の眉が動いた。
「そういう話じゃない」
「では、どういう話だ」
「アルヴァンは自分はやっていないと言って、何度も訴えてたんでしょう。最初は誰も聞かなかった。でも調べ直したら、昔の裁判で間違ってたところが見つかった」
「一部の前提が変わったのは事実だ」
「なら、俺たちの裁判にだって間違いがあるかもしれない」
それ自体は否定できない。
男は続けた。
「騎士団長だった男だから王都が動いたんじゃないですか。俺たちみたいな連中は、ここで何を言っても聞いてもらえない」
後ろから、
「そうだ」
と声が上がった。
「俺も無実だ」
「俺は罪を重くされすぎた」
別の声も重なる。
ハロルが制止しようとしたので、手を上げた。
「順番に話す必要はない。要求は分かった」
俺は十七人を見る。
「まず一つ訂正する。アルヴァンは、何度も訴えたから再審理になったわけではない」
男が黙る。
「存在しないと扱われていた護送任務について、王都側の別記録が見つかった。当時の判決で、本人の供述を信用しない材料の一つにされていた前提が変わった。それで死刑をそのまま執行できないと判断された」
「結局、調べてもらえたから見つかったんでしょう」
「その通りだ」
そこは誤魔化さない。
「なら――」
「ただし、黒塔には王国の判決を全員分やり直す権限はない」
男が口を閉じた。
「俺が気に入った囚人から順番に裁判をやり直せるなら、それこそ問題だろう」
「じゃあ、どうすればいいんです」
「新しい証拠や、当時確認されなかった記録があるなら、申立てに書け。黒塔で確認できる資料があるなら調べる。外部の判断が必要なら、所定の相手へ送る」
「何も持ってない奴は?」
「無罪になるまで仕事を止めていい、という話にはならない」
男の顔が険しくなった。
「結局それですか」
「それだ」
俺は声を上げなかった。
「今ここで有効なのは、お前たちが受けた判決だ。俺にはそれを勝手に止める権限がない」
風が吹いた。
積まれた石の隙間から、砂がさらさらと落ちる。
「アルヴァンだけ特別じゃないですか」
別の囚人が言った。
「今でも死刑囚だ」
「でも仕事はしてない」
「元から高警戒一人房だ。再審理が決まったから仕事を免除したわけじゃない」
「手枷も外されたって聞いた」
「外していない。移動時は両手と両足を拘束し、看守六人の警備も変えていない」
何人かが顔を見合わせた。
噂がどこまで育っていたのかよく分かる。
「騎士団が迎えに来るって話は?」
「来ていない」
「無罪になったってのは?」
「なっていない」
「……看守長になるってのは」
「誰がそんな話を作った」
後ろの方で、誰かが視線を逸らした。
笑いかけた者もいたが、すぐ口を閉じる。
「少なくとも、アルヴァンの待遇が良くなったから俺たちも、という話ではないわけですね」
最初の男が言った。
「そうだ」
「でも、判決に疑問がある人間は申立てを出していい?」
「ああ。ただし、出しただけで刑が止まるとは思うな」
「仕事も?」
「続ける」
男は地面を見る。
◇
「では、今からどうする」
俺が聞くと、十七人の空気が変わった。
「どうする、というのは」
「お前たちは作業開始命令を二度受けて、それでも仕事を始めていない」
男の肩が僅かに固くなる。
「話を聞いてもらうためです」
「そこは分かった」
俺はハロルを見る。
「危険行為は?」
「ありません」
「看守への暴言や脅しは?」
「それもありません」
「工具を持って抵抗した者は?」
「いません」
再び十七人へ向く。
「申立てを出したい者は、作業後に用紙を受け取って書けばいい。読み書きができない者には職員が聞き取る」
一人が尋ねる。
「今まで止まってた分は?」
「ここまでの遅れだけなら、今日は記録に残す。それ以上の処分はしない」
ざわめきが起きた。
「ただし、今から改めて作業へ戻るよう命じる。この後も拒否するなら、故意の作業拒否として通常の規律で扱う」
「脅してるんですか」
若い男が後ろから言った。
最初の男が振り返るより先に答えた。
「違う。選択肢を説明している」
「同じじゃないですか」
「違う。話をするために止まったことと、話が終わった後も命令に従わないことを分けている」
若い男は不満そうだったが、反論は続かなかった。
「追加で言っておく。今日止めた分を取り返すために、夕方まで作業時間を延ばすこともしない」
ハロルが俺を見る。
「通常の終了時刻で?」
「ああ」
「出来高は落ちます」
「一日分なら受け入れる」
ドルガンが岩際で鼻を鳴らした。
全員の視線がそちらへ向く。
「何だ」
俺が聞く。
「いや」
ドルガンが壁から背を離した。
「昔なら、止まった分まで石を割らせてただろうと思っただけだ」
「今日はお前の昔話を聞きに来たわけじゃない」
「分かってるよ」
ハロルが口元を僅かに緩める。
緊張が少しだけ落ちた。
◇
最初に動いたのは代表の男だった。
地面へ置いていた革手袋を拾い、埃を叩く。
「俺は戻ります」
後ろの囚人を見る。
「話は聞いてもらった。申立ても出せるそうだ」
一人が立つ。
それからもう一人。
石粉を払い、決められた場所へ戻っていく。
最終的に十五人が立った。
二人だけが座ったままだった。
一人は、さっき「脅しているのか」と言った若い男。
もう一人は三十代半ばほどで、腕を組んで地面を見ている。
「二人は戻らないのか」
「裁判を調べ直すって決まるまで働きません」
若い男が答えた。
「分かった」
それ以上は説得しなかった。
「ハロル。この二人は作業班から外してくれ」
「懲罰房へ?」
「通常の手続きでな。身体検査をして、規律違反として記録する。食事、水、寝具、医務は変えない」
「期間は?」
「過去の違反歴を確認してから決める」
その場の気分で日数を付ける必要はない。
若い男が立ち上がる。
「結局、閉じ込めるのか」
「今も監獄の中だ」
男が一瞬、言葉を失う。
「作業を拒否すれば何も起きない制度にはできない。ただし、話をしたこと自体を罰するつもりもない」
看守二人が近づく。
「自分で歩けるな」
若い男は舌打ちしたものの、抵抗しなかった。
もう一人も立ち上がる。
警棒は使わずに済んだ。
◇
作業が再開すると、採石場の音が戻ってきた。
石と石がぶつかる鈍い音。
荷車の軋み。
槌が楔を叩く高い響き。
十五人も元の位置へ戻り、選別を始めている。
代表だった男が割れた石を一つ持ち上げ、使える側へ置いた。
俺が近くを通ると手を止める。
「監獄長」
「何だ」
「一つだけ聞いていいですか」
「聞こう」
「本当に新しい証拠が出たら、王都へ送るんですか」
「内容次第ではな」
「俺みたいな平民でも?」
「身分で申立書の紙が変わるわけじゃない」
男は少しだけ笑った。
「そういう意味じゃありません」
「分かっている」
俺も分かっている。
アルヴァンには元騎士団長という肩書きがある。
王室に関わる事件でもある。
同じ速度、同じ人数、同じ扱いで王都が動くと約束することはできない。
「ただし、黒塔の中で確認できるものを、相手が平民だから見ないという扱いにはしない」
「それならいいです」
「無実だと証明してやる、とは言えないぞ」
「そこまでは頼んでません」
男は手袋をはめ直した。
「昔だったら、こんなこと言った時点でドルガンに殴られてたでしょうし」
少し離れた場所から声が飛んできた。
「聞こえてるぞ!」
ドルガンだった。
男が肩をすくめる。
「ほら」
「昔の話だろうが!」
「今は殴りに来ないんですね」
ドルガンが一歩出かけ、ハロルに見られて止まった。
「……仕事しろ」
「はいはい」
「返事は一回でいい!」
今度は周囲から笑いが起きた。
俺は口を挟まなかった。
◇
執務室へ戻った後、二人の記録を確認した。
一人は過去半年に作業拒否なし。
もう一人は一度だけ口論で作業を止めた記録があるが、その日のうちに復帰している。
グラッドが書類を見ながら言った。
「今回は二人とも、命令を理解したうえで拒否を継続しています」
「ああ」
「期間はどうしますか」
「二日でいい」
「両方?」
「今回は同じだ。暴力も、工具の持ち出しも、看守への脅迫もない」
グラッドが記入する。
「通常食、水、最低限の寝具、医務。昼間は安全な房内作業」
「そのままだ」
「申立書は懲罰房でも書かせますか」
「当然だ」
ペン先が止まった。
「処分中でも?」
「作業拒否の処分と、判決への申立ては別だ」
「承知しました」
「ただし、申立てを書けば処分が軽くなるわけでもない」
「そこも分ける」
「ああ」
グラッドが紙を重ねる。
「こういうことは増えるかもしれませんね」
「アルヴァンの件を見れば、自分もと思う奴は出るだろう」
「申立てが一気に増えたら?」
「まず中身を見る。判決への不満だけなのか、新しい情報があるのか。全部を同じ重さで扱う必要はない」
「以前の申立て分類と同じですね」
「似てはいるが、判決そのものを黒塔で決めるなよ」
「分かっています」
そこを越えれば、監獄長が裁判官になってしまう。
◇
夕食前、懲罰房の前を通った。
中から紙を擦る音がする。
若い男が、床へ置いた板を台にして何かを書いていた。
看守が入口の外から見ている。
「申立書か」
「はい」
「書けているか」
「字は書けます」
男は顔を上げない。
「なら続けろ」
「これ、本当に出すんですか」
「提出先を確認して、出せる内容なら送る」
「どうせ握り潰すんじゃないですか」
「そう思うなら、写しを一部残せ」
そこで初めて顔が上がった。
「いいんですか」
「提出した内容が後で分からなくなる方が面倒だ」
男は俺を見たまま数秒黙り、また紙へ視線を戻した。
「……分かりました」
隣の房では、もう一人が麻縄をほどいて束ね直している。
懲罰だからといって、食事を抜いたり、何もさせずに一日中座らせたりはしない。
その扱いも以前から変わっていない。
◇
夜。
執務室の机には、新しい申立書が六枚置かれていた。
採石場の十七人全員ではない。
話を聞いて、書くほどの新しい材料はないと判断した者もいたらしい。
グラッドが一枚目を見る。
「これは『判決が重すぎる』という主張だけですね」
「記録はする。新証拠なし」
二枚目。
「当時の証人が偽証した、とあります。ただし根拠は本人の推測」
「同じく記録。追加情報があれば再提出可」
三枚目で、グラッドの指が止まった。
「これは少し違います」
「何だ」
「逮捕時に一緒にいた男が、その後別件で同じ犯行を自白した、と」
俺は紙を受け取った。
本人の伝聞だった。
時期。
相手の名前。
収容された場所らしき情報。
どこまで本当かは分からない。
だが、確認先はある。
「これは照会に回そう」
「王都へ?」
「まず判決を出した地方側だ。該当する記録があるか確認する」
「分かりました」
六枚のうち、動かす価値がありそうなのは一枚。
それでいい。
全員を無罪にする必要はない。
全員を嘘つき扱いする必要もない。
机の端に、アルヴァンの再審理通知の写しが置かれている。
一人の判決が開き直されたことで、十七人が石を拾わなくなった。
そして、その十七人の中から一枚だけ、確かめる価値のある話が出てきた。
「グラッド」
「はい」
「明日、この照会だけ先に出してくれ」
「承知しました」
窓の外では、夜番へ交代する看守たちの靴音が中庭を横切っていた。
黒塔には八百四十一人いる。
その全員の判決が正しいと、俺には証明できない。
だが、正しくないかもしれないという理由だけで、監獄の扉を全部開けることもできない。
だから、確かめられるものから確かめる。
今夜できるのは、それだけだった。
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