第41話 再審理が決まっても、手枷は外れない
王都から届いた封書を持ったまま、高警戒区画へ向かった。
夕食の配膳が始まっている。
蓋付きの容器を載せた台車が石の廊下を進み、車輪が継ぎ目を越えるたびに低い音を立てていた。豆を煮た匂いと焼いたパンの香りが、冷え始めた空気に混じっている。
アルヴァンの房の前には看守が二人。
俺とグラッドが来ると、一人が姿勢を正した。
「異常は?」
「ありません」
「扉は開けなくていい」
格子越しで十分だ。
中ではアルヴァンが椅子に座り、今夜のパンを千切っていた。
俺を見ると、手を止める。
「王都から返事が来た」
アルヴァンの表情はほとんど変わらなかった。
「早かったな」
「俺もそう思う」
封書を開く。
原本を房へ入れるつもりはない。
王都監察局と軍法部、二つの印が入った文面を読み上げた。
旧裁定でアルヴァンの供述の信用性を判断する材料となった護送任務について、その実在が確認されたこと。
当時確認できなかった事実が新たに確認された以上、旧裁定の証拠評価をそのまま維持することは適切ではないこと。
王殺し未遂について、正式な再審理に付すこと。
死刑執行停止を継続すること。
そして、開始日が決まるまで身柄は黒塔に留め置くこと。
最後まで読む。
アルヴァンは黙っていた。
廊下では配膳台車が遠ざかり、金属容器の触れ合う音も次第に小さくなる。
「以上だ」
「つまり、判決が消えたわけではない」
「ああ」
「死刑囚ではある」
「今のところはな」
「そして、ここからも出られない」
「その通りだ」
アルヴァンが椅子の背へ身体を預けた。
「ずいぶん景気の悪い再審理だ」
「再審理は祝い事じゃないだろう」
「それもそうだな」
口元だけが僅かに動いた。
喜んでいるようには見えない。
俺ならどうだろう。
二年前に決められた死刑をもう一度調べると言われれば、希望は持つ。
同時に、また同じ判決を突きつけられる可能性も考える。
「文面を見たい」
「写しを用意する」
「今では駄目か」
「原本しかない。これは渡せない」
「分かった」
そこで無理は言わなかった。
「一つ聞く」
「何だ」
「再審理になったことで、俺の扱いは変わるのか」
「王都から変更命令はない」
「なら、変わらない?」
「ああ。高警戒一人房も、移動時の拘束も警備人数も現状どおりだ」
アルヴァンが格子の向こうから俺を見る。
「無実かもしれない男にも?」
「有罪判決が消えたわけではない。それに、お前が元騎士団長で、武器を持てば危険な人間なのも変わらない」
「率直だな」
「そこで気を遣って手枷を外す方が不自然だ」
アルヴァンは少し間を置いてから頷いた。
「俺でも同じ判断をする」
珍しく意見が合った。
だからといって、距離が縮まったわけではない。
「ただし」
アルヴァンの目がこちらへ戻る。
「再審理になったから待遇を悪くすることもない。今まで認めている食事、医務、運動その他の扱いはそのままだ」
「それを聞いて安心した、とでも言えばいいか」
「無理に言わなくていい」
「助かる」
アルヴァンは再びパンへ手を伸ばした。
話は終わりかと思ったが、千切る前に止まる。
「あんたのことも調べられたんだろう」
「ああ」
「監獄長印の件は?」
「誰が押したかは特定できなかった」
「そうか」
「俺が押した可能性も残っている」
アルヴァンの手が止まった。
「そこまで言うのか」
「事実だからな」
「便利に誰かへ押し付けると思っていた」
「その証拠がない」
しばらく互いに黙った。
「俺はまだ、あんたを信用していない」
「知っている」
「だが、少なくともその答えは覚えておく」
「好きにしてくれ」
それ以上は話さなかった。
◇
翌朝、問題は別のところから出た。
「処遇確認が三件来ています」
グラッドが執務室へ紙を置く。
「三件?」
「高警戒区画、医務、運動担当です。アルヴァンの再審理決定を聞いて、現行の扱いを継続していいか確認したいと」
「もう広まったのか」
「職員側だけです。王都からの正式文書が来たことまでは隠せません」
紙を見る。
一件目。
《死刑判決再審理につき、移動時の手枷・足枷継続の可否》
二件目。
《医務受診時の看守六名体制継続の可否》
三件目。
《高警戒一人房継続の可否》
誰も勝手に変えていない。
そこは評価していい。
「全部、継続だ」
「理由も書きますか」
「書いてくれ。旧判決は現在も有効。執行停止は継続中。再審理開始まで黒塔留置。王都から処遇変更の指示なし」
「本人の危険度評価も?」
「そこも変わっていない」
グラッドが記入する。
「再審理が決まっただけで、急に剣を扱えない人間になったわけではありませんからね」
「そういうことだ」
「逆に、再審理になったことを理由に拘束を増やすのも?」
「必要ない」
ペン先が止まる。
「現状より厳しくする理由もない。逃亡の具体的な動きが出たなら別だが」
「承知しました」
グラッドが三枚をまとめる。
処遇を軽くしない。
重くもしない。
文字にすると簡単だが、人間は肩書きが変わりそうになるだけで扱いまで変えたくなるらしい。
◇
それがよく分かったのは、午前の運動時間だった。
アルヴァンが房から出る。
両手に手枷。
足には歩幅を制限する鉄鎖。
前後を二人ずつ、四人の看守が固め、運動区画には先に二人が配置されている。
六人。
これまでと同じだ。
高警戒区画から中庭側へ続く通路を進んでいると、別の作業班と距離を取ってすれ違った。
囚人たちは壁側へ寄せられている。
その中から、小さな声がした。
「死刑じゃなくなるらしいぞ」
誰が言ったかまでは分からない。
続けて別の声。
「王殺しが無罪だって?」
先頭の看守が振り返った。
「私語をやめろ。前を向け」
作業班は黙った。
アルヴァンも反応しない。
そのまま歩く。
運動区画へ入ってから、付き添っていた看守がぼそりと言った。
「ずいぶん話が変わっていますね」
アルヴァンが聞いていた。
「俺はいつ無罪になったんだ」
看守が困った顔をする。
「いえ、私はそういう意味では」
「分かっている」
アルヴァンは鎖の範囲で肩を回した。
「二日もすれば、王から謝罪を受けて騎士団長へ戻ったことになっているかもしれん」
乾いた言い方だった。
看守の一人が思わず口元を緩める。
「笑うな」
「失礼しました」
「本人が言ったんだから構わないだろう」
もう一人が小声で言う。
アルヴァンがそちらを見る。
「本人なら何を言ってもいいわけではない。勤務中だろう」
「……はい」
元騎士団長らしいところは、こういう時に出るらしい。
◇
昼までに、囚人側にも噂がかなり回っていた。
食堂では、
「王都が間違いを認めた」
「もうすぐ釈放される」
「騎士団が迎えに来る」
最後には、
「アルヴァンが黒塔の看守長になる」
という話まで出た。
どういう経路でそこまで育ったのか分からない。
「訂正を掲示しますか」
グラッドが尋ねる。
「大げさにやる必要はない」
「放置します?」
「看守へ統一した答えだけ渡す」
俺は紙へ三行書いた。
《アルヴァン・ギレスについて、王殺し未遂の再審理が決定した》
《旧判決は現時点で無効になっておらず、死刑執行停止中の身分にも変更はない》
《釈放・移送・処遇変更の命令は出ていない》
「これ以上は?」
「話す必要がない」
「三人の護送任務については?」
「わざわざ囚人全員へ説明する話じゃない」
グラッドが頷く。
「看守が聞かれたら、この三点だけ答えさせます」
「それでいい」
噂を完全に止めることはできない。
訂正するために詳細まで話せば、今度はそれが別の噂の材料になる。
◇
午後、高警戒区画から医務室へアルヴァンが移動した。
再審理とは関係ない。
以前から続けている定期確認だ。
当然、六人警備。
両手と両足の拘束も同じ。
廊下へ出たところで、ラッセルがこちらへ来た。
「監獄長、ちょうどいい」
「どうした」
「診察後の運動について確認です」
「何か変える必要があるのか」
「私はないと思っています。ただ、担当から再審理になったなら足枷を外して歩行状態を詳しく見た方がいいのでは、と相談がありました」
「医療上必要なのか」
「今のところは必要ありません」
「なら外さない」
「私も同じ判断です」
横で聞いていたアルヴァンがため息をつく。
「俺の再審理は、随分いろんな部署を忙しくするな」
「お前が頼んだわけではないがな」
「だから余計に面倒だ」
ラッセルが拘束された足元を見る。
「足枷で皮膚を傷めているなら話は別です。その場合は医療上の変更を求めます」
「今は?」
「擦れはありますが、治療が必要な傷ではありません。装着位置を少し直してください」
看守がその場で金具の位置を確認した。
外さない。
だからといって、傷ができても放置するわけではない。
アルヴァンはその様子を見ていたが、何も言わなかった。
◇
夕方、王都から届いた文書の写しをアルヴァンへ渡した。
紙一枚。
危険物になる留め具などは付けていない。
格子越しに受け取ると、アルヴァンはランタンの近くへ椅子を動かした。
最初から最後まで読む。
俺は廊下で待った。
「確かに、無罪とは一言も書いていないな」
「昨日もそう言った」
「自分の目で確かめたかった」
「それは構わない」
アルヴァンが紙を裏返す。
何もないことを確認してから、もう一度表へ戻した。
「護送任務については、かなり明確に書かれている」
「ああ」
「三人は、存在しない命令に従ったわけではなかった」
その声だけ、少し低くなった。
「そこは確認された」
「それだけでも、あいつらには聞かせたかったな」
返せる言葉がなかった。
慰めを言う場面でもない。
アルヴァンは長く黙った後、紙を膝へ置いた。
「監獄長」
「何だ」
「再審理で同じ判決が出たら、死刑は執行される」
「そうなる可能性はある」
「逆に覆れば?」
「その時の命令に従う」
「ずいぶん簡単に言う」
「今から結果を作っても仕方がない」
アルヴァンが俺を見る。
「もし俺が無罪になったら、あんたは困るか」
「なぜだ」
「王殺し未遂で死刑判決を受けた男を二年も預かっていた監獄だ」
「判決に従って収容しただけなら、そこは困らない」
「三人はここで死んだ」
「そっちは別だ」
アルヴァンの目が細くなる。
「混ぜないんだな」
「混ぜる理由がない」
アルヴァンの王殺し未遂が覆ったところで、バルトの休養指示が守られなかった事実は消えない。
ヘルムが冬に減食を受けたことも、ルースの所在確認が途切れたことも同じだ。
「再審理で何が決まっても、三人の件まで無かったことにはならない」
アルヴァンはしばらく俺を見ていた。
「それならいい」
「写しは房内に置いておくか」
「ああ」
「破ったり、何かに加工したりするなよ」
「紙一枚で脱獄できるなら、とっくにやっている」
「お前なら何に使うか分からないから言っている」
今度は、はっきりと鼻で笑った。
「そこだけは信用があるらしいな」
「戦闘能力については高く評価している」
「嬉しくない評価だ」
「俺も褒めているつもりはない」
◇
高警戒区画を出る頃には、外は暗くなっていた。
中庭の松明が風に揺れ、濡れた石畳へ橙色の光が伸びている。
食堂から戻る囚人たちの列が、別の廊下を進んでいた。
八百四十一人。
その中で、アルヴァンだけは今日から正式な再審理を待つ人間になった。
それでも房は同じ。
食事も同じ。
移動する時の手枷も足枷も、看守六人も変わらない。
判決を調べ直すことと、今日の安全管理は別だった。
「所長」
隣を歩いていたグラッドが声を落とした。
「職員側は、明日には落ち着くと思います」
「囚人側は?」
「騎士団長に復帰するところまで話が進んでいますから、しばらく無理でしょう」
「黒塔の中だけで出世が早いな」
グラッドが小さく笑った。
「本人に聞かせますか」
「やめておけ。機嫌を悪くされても面倒だ」
「承知しました」
執務棟の扉を開ける。
暖められた室内の空気が流れてきた。
王都が見直すのは、二年前の判決だ。
それがどう変わるとしても、今日の黒塔まで先回りして変える必要はない。
命令が変われば、その時に変える。
それまでは、今ある事実で運営する。
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